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第58話 あなたのことを。

 年が明けて早々、私はものの見事に体調を崩した。

 幾晩も高熱が続き、ベッドから起き上がることのできない日々が続いた。ようやっと床上げした今も、まだ本調子には戻っていない。


 気怠い体を肘掛け椅子に預け、重苦しく嘆息する。


「……もうイヤ。寝るのは飽きたわ」


 ぐったりと呟くと、私の部屋まで往診に来てくれていたディアドラが大仰に肩をすくめた。


「天下のぐうたら姫とも思えない台詞だな」


 からかうように言いながらも、彼女の瞳は案じるように揺れていた。丁寧に私の脈を取り、じっと顔を覗き込む。


「徹夜が良くなかったのかな。……すまない、リリアーナ。私が付いておきながら」


 つらそうに唇を噛むディアドラに息を呑み、大慌てでかぶりを振った。両手で彼女の手を包み込んで、精一杯の笑顔を向ける。


「そんなことない、とっても楽しいパーティだったもの! 心配しないで、ちょっと疲れが出ただけよ。すぐに良くなるわ」


 力強く宣言した途端、言葉とは裏腹にくしゃみが飛び出した。背筋を悪寒が走って、慌てて肩掛けをかき合せる。


 あかあかと燃える暖炉に手をかざし、しゅんと鼻をすすった。


「……春はもうすぐそこなのに。早く外に出たいわ」


「天気が良い日の午後なら構わないさ。――ガイウスが一緒ならな」


 試すように付け足された一言に、馬鹿正直に体が跳ねる。

 刺すような視線を感じながらも、ぎゅっと俯いて気付かない振りをした。


(……ガイウス陛下……)


 寝たり起きたりの生活が続く中、もう一ヶ月近く彼とは会っていない。体調を理由にお見舞いを断ったのは、彼に合わせる顔がなかったからだ。


 脳裏をよぎるのは、精霊廟で彼がくれた言葉。



 ――無理に変わらずとも構わないんだ。一年後といっても、今のこの日々の延長線上に過ぎないだろう?



 思い出した途端、鼻の奥がツンと痛む。


(変わらなくてもいいって……せっかく、言ってくれたのに)


 だけど、もう変わってしまった。


 コハクは精霊だった。

 私は精霊をこの瞳に映した。

 ガイウス陛下が見えないものを――見えないがゆえに苦しんでいたものを、私なんかが見てしまった。


 泣いているのをディアドラに悟られないよう、下を向いて必死で隠す。

 息を止めて嗚咽をこらえていると、カチャカチャと陶器の触れ合う音がして、顔のすぐ側にぬっとカップが突き出された。


「……え」


「私の秘蔵の茶だ。砂糖は多め」


 恐る恐る受け取って、カップに口を付ける。

 疲れた心に沁み渡るような甘みに、強ばっていた体がほぐれた気がした。カップに落ちた涙ごと、噛みしめるようにしてお茶を飲む。


「……美味しいわ」


「それは良かった。体が弱っているから心も弱っているだけだ。たくさん食べて、飲んで寝て。少しずつ動けば体調も回復するさ」


 優しく髪を撫でられて、張りつめていた気持ちが緩む。ほとほとと涙を流す私を、ディアドラはいつまでも優しい手付きで慰めてくれた――……




***



「――よしっ」


 自室に運んでもらった夕食を、今日は久方ぶりに完食できた。

 ディアドラが言ったことは本当で、満腹になった途端に気力が満ちた気がする。


 深夜になった頃を見計らい、そろりそろりとベッドから出る。夜着の上からショールをはおって、ガイウス陛下にもらったミトンとマフラーを身に着けた。これで防寒対策はばっちりだ。


 寒い廊下を駆け抜けて、一直線に精霊廟を目指す。


 誰にも遭遇することなく、無事に扉まで辿り着いた。震える手を伸ばして扉を押し開ける。



 ――ギイィィィィ……



 すばやく中に滑り込み、小さく安堵の吐息をつく。無人の精霊廟をあえて勇ましい足取りで進み、中央あたりで足を止めた。


 今日の精霊廟は、なぜだかひどく冷えきっている。

 ガチガチ震える体を抱き締め、すうっと冷たい空気を吸い込んだ。


「――コハク。ここに来て。会いたいの」


 返事はない。

 それでも私は懸命に言葉を紡ぐ。


「もしかして、長いこと会いに来なかったから怒ってる? でもね、私……」


「知ってる。体調を崩したんでしょう……。僕のせいで」


 囁くような(くら)い声音に、はっと息を呑んだ。

 声の聞こえた方向に目を凝らすと、精霊廟最奥の扉がぼんやりと光を放って見えた。王族にしか開けられない扉はぴくりとも動かないのに、まるで扉から溶け出るようにしてコハクが現れる。


「…………っ」


「――僕が、怖い?」


 とろりとした琥珀色の瞳を潤ませて、試すように尋ねる彼に、ぎこちない笑みを向ける。


「……そうね。あなたのことは怖くないけど、今のはちょっと怖かったわ。心臓に悪い現れ方はやめてちょうだい」


「了解。もう二度と君の前に姿を現さないよ」


 冷たい声音で答えると、コハクはあっさり踵を返した。私を完璧に拒否するような、硬く強ばった背中に慌てて追いすがる。


「コハクっ! 待って、話を聞い」


 彼の服を掴もうと伸ばした手が、すか、と空を切った。


(触れない……!?)


 驚愕する私をコハクはちらりと振り返って、また扉に向かって歩を進める。


「待っ……けほっ!」


 地面にへたり込み、激しい咳に喉を押さえた。

 一瞬背中を強ばらせたものの、それでも足を止めない彼に必死で呼びかける。


「コハ……願ぃっ、けほっ。ふ、ぅ……っ!」


 しゃくり上げながら両手で顔を覆った。静寂の満ちた精霊廟に、私の泣き声だけが高く響く。

 大分時間が経ったと思える頃、突然なだめるように背中を撫でられた。戸惑いがちに、ゆっくりと。


「泣かないで、リリアーナ。……お願い」


「ひ、……っく」


 ごしごしと目を擦る私に、コハクは自分の方が泣き出しそうに顔を歪めた。真っ白なうさぎ耳も、心なしかしょんぼり垂れている。


 私はすんと鼻をすすって彼を見上げ――跳ねるように起き上がった。そのまま体をぶつけて彼に抱き着く。


「…………っ!?」


「ふふっ。()()()()()()()


 初めてコハクと出会った時――コハクの言った台詞そのままを、いたずらっぽく笑って繰り返す。


 今度は触れられたコハクの体を、絶対に離すまいと力を込めた。しばし唖然として動きを止めていたコハクは、ややあってあきれたように息を吐く。


「……うわぁ。まさかの嘘泣き?」


「そうなの。女の武器なんですって」


 書物で得た、偏った知識も時には役に立つものだ。


 澄まして答えて、花畑の上に横座りした。

 コハクは毒気を抜かれたように私を見つめると、「あ~あ!」と叫んで花畑に倒れ込んだ。フィオナの花が激しく揺れる。


「あら。いいわね、それ」


 私も私も、と隣に寝っ転がった。


 にっこり微笑みかけると、仕方なさそうにコハクも苦笑する。やっといつものコハクに会えた気がした。


 そっと彼の手を握り、宝石のように美しい瞳を逸らさずに覗き込む。


「……ね、コハク。私に、教えてくれる?」


 ランダールの精霊のこと。


 ――そして、あなたのことを。

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