第50話 ひとつの手がかり。
「リリアーナ! 違うんだ待ってくれっ」
「待ちません。私には言えない相手を抱っこしたんでしょう?」
ぷくっと膨れながら廊下を突き進む。
慌てたように私を追い越した陛下が、両腕を広げて通せんぼした。息を荒らげて鬣を激しく左右に振り回す。
「い、言えないわけではなくてっ。そのう、俺が抱っこしたのは――……リリアーナ?」
陛下が訝しげに言葉を止めた。……あら?
いけない。
せっかく我慢してたのに。
頑張って維持していたふくれっ面はあえなく崩れ去り、ぶはっと大きく噴き出してしまった。そのまま腰を折って笑い転げる。
「リリアーナ~……」
「ご、ごめんなさい。でも、陛下が慌てるのが可愛らしくて、つい……っ」
恨めしげな陛下に弁解して、目尻に浮かんだ涙をぬぐった。毛むくじゃらな手を優しく掴む。
「誤解なんかしてないわ。だって私と出会う前――小さな子どもの頃の話だものね?」
「も、勿論だともっ。ランダールの精霊に誓って、やましいことなど何ひとつ無いっ。何と言っても俺は清廉潔白な強き王だからなっ!」
ふかふかの胸を突き出して宣言する。……なんか、そこまで強調されると逆に怪しいんですけど?
疑いの眼差しを向けると、陛下はすばやく後ろに回って「さあさあさあっ」と私の背中を押した。
「今夜は夜通し年越しパーティだ! 今のうちに仮眠を取っておいた方がいい。執務室でゆっくり休もう!」
ますます怪しい。
何をそんなに慌てふためいてるの?
むっとして足を止めるも、華奢な私が陛下に勝てるはずもなく。
ぐいぐい背中を押されるがまま、執務室へと向かうのであった。怪しー!
***
「……リリアーナ。寝ないのか?」
「ええ、もちろん寝ますけど? 容疑者が自供したらすぐにでも」
執務机からバツが悪そうにこちらを窺う彼に、しとやかに微笑みかける。
ソファにお行儀よく座った私は、やわらかなクッションを膝に載せた。陛下の毛並みの色に似たそれを、笑顔のままぎゅうと力を込めて潰してしまう。
陛下がひゅっと己の体を抱き締めた。
今度は右手を握りこぶしに変えて、えぐり込むようにクッションを殴りつける。ごすっごすっ。
陛下がひゃっと執務机の椅子から飛び上がった。
「正直って美徳ですよね」
めこっめこっ。
「念のため申し上げますけれど、疑っているわけではないんですよ? 私はもちろん陛下を信じているわ」
ぐぎゅう~。
クッションを力の限りぺしゃんこにしていると、陛下が「くくく苦しいっ」と悶え始めた。宰相補佐のハロルドが、真っ青になって扉近くまで逃げていく。
「ぐ、ぐうたらーな教の黒魔術、だと……!?」
「ンなわきゃねーだろ」
執務室におさぼりに来ていたイアンが、あきれたように突っ込んだ。
エリオットも仕事の手を止めて、面倒くさそうな顔を上げる。
「リリアーナ様、もうその辺で。うちのガイウス陛下は単純……もとい繊細なのです。アホみたいに容易く影響されてしまうのです」
……うぅん。
ならまあ、そろそろカンベンしてあげますか。
ため息をひとつつき、変形してしまったクッションを丁寧に整える。鼻を鳴らしてソファに倒れ込んだ。
すかさずメイベルが寄ってきて、暖かな膝掛けできっちり私をくるみ込んでくれる。目顔で彼女にお礼を言って、じっと天井を見上げた。
「抱っこ……抱っこ。父様やレナード兄様から高い高いされたことは覚えてるけど、抱っこされた記憶はあんまりないわ。子どもの頃だからきっと忘れているのね」
眉間に皺を寄せて、幼い頃の記憶を手繰り寄せる。
「……むしろ、おんぶの方が印象に残っているわ。小さくて弱っちくて、お城に閉じこもってばかりだった私を、セシル兄様が何度も何度もおんぶで連れ出してくれた――……」
「ほう。セシルが……」
興味を惹かれたように身を乗り出す陛下に、寝っ転がったままで大きく頷いてみせた。
「ええ。病弱な妹を背負っているというのに、お構いなしに飛んで跳ねて駆け回って。激しい上下の揺れに、もうお部屋帰るうぅって何度訴えてもやめてくれなかったっけ。……ふふっ、懐かしいわ」
あの頃の殺意が呼び覚まされてきた。
そう、次会ったら三発ぐらい殴らなくては。
幸い今の私にはお手本となる怪力侍女がいる。事前にコツを聞いておくことにしましょう。
うふふふふと含み笑いする私から、執務室の面々が気味悪そうに離れていく。ただ一人、ガイウス陛下だけが無言で立ち上がった。
大股で私に歩み寄ってきたかと思うと、ソファの傍らにひざまずく。優しく私の髪を梳いた。
「仲の良い兄妹だったのだな。……だが、そのう。そんなにも楽しそうに話されると……いくら相手がセシルでも」
少し、妬けてしまう。
消え入るような声で告げる陛下に、きゅんと胸が高鳴った。ソファから起き上がって、いたずらっぽく彼を見下ろす。
「あら。私の気持ちがわかりました?」
「ああ。この上なく」
大真面目に告げて、大きな獅子のお顔を私に近付けた。おひげがほっぺに当たり、くすぐったさに噴き出してしまう。
くすくす笑う私の耳元に、陛下がひそやかに囁きかけた。
「俺が、あの扉の向こうに抱いて入ったのは。――実は、人ではないのだ」
「……人じゃない?」
小声で聞き返すと、陛下は微かに首肯した。さらに身を寄せて、ちらりと背後の皆に視線を走らせる。
「ああ。その子はきっと君の子どもの頃と同じで、小さくて弱々しくて――そして、とても愛らしかった」
懐かしそうに目を細めて、やっと陛下は答えを教えてくれた。低い声で私に語りかける。
その子はまるで、新雪のように真っ白で。
少し力を込めただけで、壊れてしまいそうなほどやわらかな。
――美しい瞳をした、仔うさぎだったのだ。




