第35話 勝負の結末、思わぬご褒美。
ガイウス陛下は私の膝裏に腕を回し、しっかりとスカートを押さえつけた。満を持して梯子に手を掛ける。
「陛下……。大丈夫ですか? 私のことは置いていっても――」
「駄目だ。俺はこの勝利を君に捧げたい。……それに」
瞳の中に静かな炎を燃え立たせる。
「この程度の障害――このわたしにとっては何程も無いっ」
背後に迫る参加者達に見せつけるように、力強く跳躍した。片腕に私というお荷物を抱えているとは思えないほど、俊敏な動きで梯子を蹴って一足飛びに駆け上がる。
たくましい腕の中、私は安心しきってその身を委ねた。口元から笑みがこぼれる。
「陛――……」
「うぉりゃああああッ!!」
「どけどけどけぇぇッ!!」
刹那。
野太い叫び声と共に、物見櫓が激しく揺れた。焦ったように陛下が梯子にしがみつく。
「きゃ……!?」
悲鳴を上げて地上を見下ろすと、毛むくじゃらの獣人達が一斉に物見櫓を登り始めたところだった。みしみしと櫓の軋む音に、胸が冷たくなるほどの恐怖を覚える。
カタカタと小刻みに震える私を、ガイウス陛下は暖かく包み込むようにして抱き締めた。私の耳に優しく囁きかける。
「リリアーナ……。俺を信用してくれるか?」
ガラスのように透き通った、凪いだ瞳に息を呑む。しばし言葉を失うほど見惚れてしまい、それから我に返って飛びつくように頷いた。
「ええっ、もちろん! 信用……いいえ」
ふるふるとかぶりを振る。
「――信頼、しているわ。心から」
はにかみながら告げると、陛下の鬣がぶわわと逆立った。一瞬だけきつく目を閉じ、決然と顔を上げる。
眼下を見下ろし、長いおひげを不敵にそよがせた。
「しっかり掴まっていろ。リリアーナ!」
言うなり、梯子を掴んでいた右腕を離す。グッと深く膝を折って――
「うぉわっ、陛下!!?」
「お姫様っ!!!」
ひび割れた外野の叫びなど歯牙にもかけず、不安定な足場を蹴ってガイウス陛下は高く跳ぶ。空を飛んでいるようなふわふわした感覚に、気が付けば私は声を上げて笑っていた。
笑いながら、腕いっぱいに陛下のやわらかな毛並みを抱き締める。
――――ゴッ
鈍い音と衝撃と共に揺れが止まった。
埋めていた陛下の肩から顔を上げると、そこは物見櫓のてっぺんだった。沈む直前の夕陽に、我知らず目を奪われる。
「リリアーナ! 精霊の実を取るんだっ」
陛下の言葉に、弾かれたように手を伸ばした。
鐘の下に吊るされた、黄金色の『精霊の実』。オレンジ色の夕陽を反射して、目に痛いほど眩しく輝いている――……
外気にさらされて冷え切った、すべすべとした実をこの手で掴む。結ばれていた紐がするりと解けた。
光り輝く実を高々と掲げ、得意満面で地上に集う国民達に見せつける。
「見て、『精霊の実』よっ。ガイウス陛下と私の勝利――」
陛下に抱き上げられたまま、歌うように宣言した私の声は途中で遮られた。爆発的な拍手と歓声が沸き起こったのだ。
「うおおおおおっ!! 今年の勝者はイスレアのお姫様だああああっ!!」
「ガイウス陛下の婚約者様!!」
「リリアーナ様が精霊の実を手に入れたっ!!」
興奮したざわめきに、大慌てで首を振る。
「違うわ! 私じゃなくてガイウス陛下のっ」
「いいんだ、リリアーナ。勝者は君だ」
穏やかに言い切って、陛下はやわらかな眼差しを私に向けた。鋭い牙を食いしばったかと思うと、はっと声を上げて笑い出す。
「そうだ、俺の負けだ! 一度負けてしまったからには――……もう恐れることなど何も無いなっ」
朗々と響く声で、おかしくてたまらないというふうに身をよじる。息も絶え絶えになりながら私を下ろし、呼吸が止まりそうなぐらいきつく抱き締めた。
「そうだ、来年は絶対に負けない! リリアーナ! どうか、来年も俺と共に」
「ええ……っ。来年も、そしてその次も。二人で一緒に参加しましょう?」
胸を詰まらせながらも、懸命に頷き返す。なぜだか涙が出そうになった。
そんな私を見て、陛下もはにかむように口元をゆるめる。
「万歳、万歳!」
「ガイウス陛下とリリアーナ姫に、ランダールの精霊の加護を!!」
割れんばかりの歓声を送ってくれる国民達。
ガイウス陛下と二人寄り添い、笑顔で彼らに手を振り続けた――
***
「ふう……。高いところが苦手なわけじゃないけど、地面に立つとやっぱりほっとするわね」
駆けつけてきたイアン達が列の整理をしてくれたお陰で、私と陛下はやっとこさ地上に降りることができた。うぅんと大きく伸びをする。
「緊張ですっかり強ばっちゃったわ。――でも、すっごく楽しかった!」
体はくたびれ果てているものの、心は充足感に満ち溢れていた。微笑みながら手の中の『精霊の実』に目を落とす。
林檎そっくりの形をした石は、表面が金で覆われていてずっしり重い。しげしげと眺めて首をひねった。
「……で、この実はどうしたらいいの? 換金でもする?」
「ンなわけあるかぁっ。来年の収穫祭で返却するまで、勝者が責任持って保管すんだよ!」
前のめりにずっこけながら、イアンが即座に突っ込んでくる。あら残念。
それでも一年間は私の好きにしていいとのこと。しかめっ面で腕組みして、使い道を思案した。
硬いし丸いしで、枕には到底なりそうにもない。そうだ、漬物石にでもしたらどうかしら?
「……部屋に飾って毎日磨こうとか、殊勝な考えはないものか」
がっくりと肩を落とすイアンに、「冗談よ」と舌を出す。
漬物石にするのは諦めて、ひとまずは精霊廟に持っていくことにしましょう。コハクにも見せてあげたいしね。
上機嫌でつややかな実の表面をなぞっていると、ぱらぱらと頭上から砂が落ちてきた。
「…………?」
不審に思って空を仰いだ瞬間、「リリアーナ!」と陛下が鋭く叫ぶ。覆いかぶさるように私を抱き締めた。
「陛――……!?」
「いつっ!」
ゴン、という鈍い音に、陛下の短い悲鳴がかぶさった。慌てて彼を見上げると、鼻に皺を寄せて鬣を撫でている。
ひょいと屈んだメイベルが、地面から何かを拾い上げた。
「あら。これは……?」
包み紙を開いた途端、ひょっこり顔を覗かせたのは真っ赤に輝くりんご飴。
驚いて櫓を見上げると、てっぺんから細っこい腕が伸びてきた。まるで「さよなら」と言うかのようにへろへろと手を振って、すぐに引っ込めてしまう。
メイベルの渡してくれたりんご飴と、頭上の物見櫓とをせわしなく見比べた。
「……ねえ。このりんご飴って、もしかして……?」
「アポポー・アプルーのりんご飴(毒味)ですね。まず間違いなく」
嬉々とした様子で教えてくれたエリオットが、素早く手の平を差し伸べる。期待に満ち満ちた目で私を見つめた。
「リリアーナ様。それください」
「駄目。ガイウス陛下と半分こするんだから」
即座に撥ねのけ、きっぱりと宣言したはいいものの。
(――ああ、でも。コハクにもあげたかったのよね……)
それに、ハロルドにも買ってきてあげると約束したのだっけ。
けれど、手の中にある飴はひとつだけ。
うんうん思い悩んでいると、ガイウス陛下がへにゃんとお耳を垂らしているのに気が付いた。不思議に思って彼を見上げる。
「……陛下? どうされました?」
「俺が……君に、プレゼントしたかったのに……」
あまりにしょんぼりした声音に、ぱちくりと瞬きする。全員で顔を見合わせて、ややあって一斉に噴き出した。
「ち、違っ! 今のは単なる独り言であって、そのう……!」
ふぁさふぁさと鬣を揺らして一生懸命弁解する陛下に、ますます笑いの止まらなくなる私達であった。




