第19話 弱さと本音と。
精霊廟の重厚な扉を閉じると、辺りはしんとした静寂に包まれた。
ここに来るまで、ガイウス陛下は一言たりとも発していない。――きっと、仕事の邪魔をされて怒っているのだろう。
掴んだままだった手を離し、恐る恐る振り返る。その途端、陛下の巨体がぴくんと跳ねた。
「……あの。ガイウス陛下……」
「ななな何かなっ?」
上擦った声に、あら? と首を傾げて彼を見上げた。しかし目が合った瞬間、風を切るような勢いで顔を背けられる。
そのまま微動だにしない……ものの、なぜだかしっぽだけはぷるぷると小刻みに震えていた。
「ガイウス陛下?」
声を掛けると、陛下は横目で私を見る。そしてまた逸らす。だがしかし、しっぽだけはぴこぴこしている。
「陛下ー?」
毛むくじゃらの腕を突っつくと、電流が走ったかのように豊かな毛並みを震わせる。しっぽもぶるると震わせる。
(……えぇと。これって、もしかして……?)
そわそわしてる?
はたと思い至り、口元から笑みがこぼれた。
なんだか楽しくなってきて、素早く陛下の後ろに回り込む。広い背中にそっと額を押し当てた。
「――にゃっ!?」
素っ頓狂な悲鳴を上げる陛下に、堪えきれずに噴き出してしまう。お腹を抱えて笑う私を、陛下はしょんぼりとおひげを垂らして眺めた。
――きっと今、人型だったら眉を下げているところね。
笑いすぎて滲んだ涙を拭い、立ち尽くす陛下に手を差し伸べた。おずおずと握り返してくれた彼を誘導し、精霊廟最奥の階段へと向かう。
いつかと同じように並んで腰掛けて、私はじっと押し黙った。……さて。一体どう切り出したものか。
沈黙を勘違いしたのか、陛下は戸惑ったようにおひげをそよがせる。
「リ、リリアーナ……?」
「ガイウス陛下」
呼びかけがかぶってしまい、お互い泡を食って言葉を止めた。お先にどうぞ、いやそちらこそお先に、と身振り手振りで譲り合う。
結局黙り込んでしまった陛下に代わり、覚悟を決めて私が口火を切った。
「ガイウス陛下。――残念ながら、私に精霊を見る『眼』はないようです。とんだ期待外れだったと、私との婚約を解消なさいますか?」
***
極限まで目を見開いた陛下は、まるで時間が停止したかのように動きを止めてしまう。
彫像となった彼を、私も無言のまま辛抱強く見守った。
返答を聞くのが怖くはある。強く唇を噛んだ。
(でも……確かめなくっちゃ)
私は彼らの期待に応えられなかったのだ。
私の処遇をどうするつもりなのか、嫌でも聞かなければならない。
脳裏にディアドラとのやり取りが思い浮かぶ。
――リリアーナ。君には、精霊を『見る』素質があるんだ。
――どうして? そんなわけない。私は普通の人間なのよ?
――いいや、普通じゃない。なぜなら、君は……
「違うんだっ!」
ひび割れた叫び声に回想を断ち切られる。
はっと意識をこの場に戻すと、ガイウス陛下が必死の形相で私の肩を掴んでいた。
毛むくじゃらの腕を震わせ、何度も何度もかぶりを降る。
「違う……っ。そうじゃない! いや、皆は期待していたのだろうが……。俺は、むしろ……!」
「……陛下?」
力なく腕を落とした。
黄金色の目を伏せ、聞こえるか聞こえないかの声で小さく呟く。
「俺は……。本当は、恐ろしかった……。俺に見えぬものを、もし君が見えたらと考えると……。部下も国民も、当然喜び舞い上がるだろう。――だが、俺は?」
苦しげな声音に、私は返す言葉を失った。ただ彼を見つめることしかできない。
陛下は俯いたまま、絞り出すような掠れ声で続ける。
「俺は、どうしたらいい……。求められているのは君だけで、俺では国民の心の拠り所にはなれない。必要なのは君であって、見えない俺では……出来そこないの、俺なんかじゃない……。それを、真正面から突きつけられるかもしれないと。本当は、怖くて怖くて堪らなかった……!」
血を吐くような叫びに、心臓が鋭い痛みが走った。
陛下に向かって無意識に伸ばしかけた手が、空中で止まる。
(……出来そこない……)
コハクも、同じことを言っていた。
自分は出来そこないの獣人なのだと。
立派な鬣と堂々たる体躯を持ち、大国ランダールを統治する獅子の王。
誰よりも懸命に職務に励み、人一倍強い責任感を持っている。
――それなのに。
喉がからからに渇いていて、なかなか声が出せなかった。ごくりと唾を飲み込み、浅く震える呼吸を整える。
地に落ちていた陛下の手を、両手で包み込むようにして拾い上げた。
「……私。あなたが、出来そこないだなんて思わない」
俯いた鬣はそよとも動かない。
それでも私は言葉を止めなかった。握った手に力を込める。
「ディアドラ、言っていたわ。あなたが『見えない』ことに苦しんでいるのを知っていたから、エリオットとイアンと三人で話し合って、私との婚約を勧めたのだって。ディアドラ達とは幼馴染みなんですってね?」
四人の中で最年少のガイウス陛下は、皆にとっては実の弟も同然らしい。
今回の件は全て、彼らの陛下に対する愛情ゆえだ。
「……まさか、それが逆にあなたを苦しめてしまう結果になっただなんて。ディアドラ達には大いに反省してもらわなきゃね?」
いたずらっぽく告げると、ようやく陛下が顔を上げてくれた。吸い込まれそうなほど綺麗な瞳が、今は戸惑ったように揺れている。
ぐうたらな私に婚約を申し込んだのは、陛下の健康を気遣うため。陛下の負い目を消し去ってあげるため。
――全部が全部、陛下のためだ。
「ガイウス陛下は、こんなにも周りから愛されているのに。出来そこないとか出来そこないじゃないとか、そんなの何も関係ないわ。……と、いうか」
やわらかな毛並みを、ぴしりと優しく叩く。
「その理論でいくのなら、私も出来そこないになってしまうのかしら。……せっかく何度も死にかけた実績があるのに、精霊なんかちっとも見えないんだもの」
わざと拗ねたように唇を尖らせると、案の定陛下は慌てふためいた。大げさなほど激しく首を振り、くわっと大きなお口を開く。
「そんなわけがないだろうっ! 君は絶対に出来そこないなんかじゃないし、俺は……俺はっ! 君が精霊を見られようが、見られまいが関係ない!」
「よかった。私も同じよ?」
精霊が見られなくたって、あなたはあなた。
きっぱりと言い切って笑った私を、陛下は呆けたように見返した。一拍置いて、豊かな毛並みがぶわわと膨らんでゆく――……
「陛――」
「さ、さんじゅっぷんっ!」
突然意味不明な叫び声を上げる。……はい?
階段から立ち上がった陛下は、勢いよく飛び退った。そのままじりじりと後ずさる。
「そそそそろそろ約束の三十分だ! 多分! 俺、わたしは職務に戻らねば!」
言うだけ言って、精霊廟の石畳の道を一息に駆け抜けた。
激しい音を立てて扉を開け放ち、大股でくぐり抜ける。鼻息荒く私を振り返った。
「リ、リ、リ、リリアーナ。そのあの、あのだな……。つまりだ。あれだ。一言で言うと、そのう……!」
扉が少しずつ閉まっていく。
陛下が完全に見えなくなる直前、轟くような声が飛んできた。
「あ、ありが」
――バタン!
「…………」
叶うなら。
とう、まで聞きたかった。
惜しかったわ、と苦笑して私も腰を上げる。
再び静謐な空気に戻った精霊廟を、緊張しながら見回した。囁くように呼びかける。
「……精霊さん? そこにいますか?」
…………
…………
…………
返事はない。
ま、当たり前よね。
ほっとしたような、残念なような気持ちに駆られながら、私も精霊廟を後にする。脳裏にディアドラの言葉が蘇った。
――精霊は、命を持たない精神体。だが、確かにこの世界に存在する。
ゆえに、精霊は生と死の狭間にたゆたうと伝えられている。
一度死の淵に立った人間、死の際の際を覗いた人間は、稀に精霊の姿をその瞳に映すことがあるらしい。……一度ならず死にかけた私には、その素質は充分あるはずなのに。
「うぅん。でもそれって、獣人限定なのかもしれないわよね」
最後にもう一度だけ振り返った精霊廟。
ステンドグラスの鮮やかな光を反射して、咲き乱れる白い花々が美しく輝いている。――でも、それだけだ。
この世ならぬものの姿など、何ひとつ見えなかった。




