第17話 去りゆくものは切ないのです。
それからの日々は、穏やかに過ぎていき。
お昼寝にはつらい季節は過ぎ去って、日に日に床の冷たさを実感できるようになってきた。――ああ、もうすっかり秋なのね。
「……さみしいわ。これでしばらく、床でのうたた寝ともお別れね」
しんみり呟いてソファへと移動すると、ばりばり働いていた全員が一斉に手を止めた。刺すように冷たい視線を私に向けてくる。
「そもそも床で寝るんじゃないわよ!」
「すぐそこにソファがあるというのに。床に転がっていて、控えめに申し上げても庭に埋めたくてたまりませんでした」
「神聖な執務室を何だとお思いかっ」
メイベル、エリオット、そして変態過労死さんことハロルドから小言が降ってきて、首をすくめて耳を塞いだ。あーあー、何にも聞こえませんー。
……というか、責め立てられるのは理不尽だ。
床に転がっていたのにはちゃんと理由がある。冷たくて気持ちがいいから、だけではもちろんない。
唇を尖らせて反論しようとした瞬間、壁の鳩時計がくるっぽーと鳴いた。げっ。
「――さっ、休憩休憩!」
無表情ながらも高揚した声で叫び、エリオットが書類を投げ出した。机からこぼれ落ちた書類を拾い上げ、メイベルがひくひくと頬を引きつらせる。……はあ、今日もなのね。
ため息をひとつつき、ふかふかソファから腰を上げた。
本来ならソファを明け渡す必要なんてない。
私が寝っ転がって、エリオットが隣に座ったとしても、余りあるぐらいこのソファは広々してるのだ。――だが、しかし。
今日も今日とて、眦を吊り上げたメイベルがエリオットに食ってかかる。
「ちょっと、そこの給料泥棒っ。アンタ一日に何回休憩する気なのよっ?」
「天の声には逆らえません」
「鳩の声でしょーがっ」
やっぱりこうなるのね……。
この二人、飽きもせずに毎回毎回同じ内容で言い争うのだ。全く、おちおち昼寝もできやしない。
ハロルドは注意してくれないのかしら、と上目遣いに様子を窺うと、彼はなぜか前後にぐらぐらと揺れていた。……え、どしたの?
「あの……。ハロルド……?」
「寝てませんっ!!!」
カッと目を見開く。いえ、それは聞いてません。
呆気にとられていると、お茶菓子セットを絶賛広げ中のエリオットが肩をすくめた。
「ああ、コウモリは夜行性ですからね。この時間は眠くて堪らないのでしょう」
「あら。ハロルドはコウモリの獣人だったのね?」
道理で。
私は毎日のように執務室でお昼寝するけれど、彼の姿を見かけたのは片手で余る程度。宰相補佐なのにおかしいとは思っていたのだ。
隈のできた目元を必死で擦るハロルドに、慈愛の笑みを向けてみせる。
「無理しないで。さあ一緒に休みましょう? ぐうたらぐうたら、だらだらだ」
「喝ぁーーーーつ!!! 精霊よ悪霊から我を守りたまえ清めたまえ救いたまえ悪霊退散したまえまえーーー!!!」
……誰が悪霊よ。
可憐なお昼寝精霊リリアーナ、と呼んでくれてもいいぐらいなのに。崇め奉っても構わなくてよ?
「そのように有り難くない精霊は御免こうむります」
休憩を阻止しようとするメイベルと攻防戦を繰り広げながら、エリオットが失礼な口を挟んできた。すかさずメイベルがテーブルを片付けようとする。
その瞬間、エリオットが目にも留まらぬ速さで鞭を繰り出した。
――ピシッ!
「近寄らないでいただきたい。茶褐色第五号が我らの境界線です。ここから先は何人たりとも立入禁止」
おごそかに告げ、まるで線引きするようにソファの上にだらりと鞭を伸ばす。メイベルが真っ赤になって地団駄を踏んだ。
「ああもうっ。アンタの付属品は一体いくつあるのよ!?」
「七十と六あります。まだまだ増えます。そう、付属品とは無限大。限りなどないのです」
どこかで限った方がいいと思うけど。
胸の中でこっそり突っ込みつつ、普段のガイウス陛下の定位置で、今日はぽっかりと空いている赤いビロードの椅子に腰掛けた。執務机に頬杖をつき、仲がいいんだか悪いんだかわからない二人を見比べる。
――この宰相に関しては未だによく掴めない。
わかっているのはディアドラの兄(もしくは弟)であり、鞭とお茶菓子をこよなく愛する、といった程度だろうか。
いい機会なので尋ねてみると、エリオットは無表情に肩をすくめた。
「別に、愛しているのは鞭と菓子だけではありません。わたしはいわば愛の使者。基本、来る者拒まずです」
なかなかのドクズだった。
メイベルと二人で軽蔑の視線を向けたものの、エリオットは全く堪えた様子はない。ぱぱぱ、とクッキーを連続で口に放り込み、あっという間に飲み込んでしまう。
「菓子に限らず食べることは好きですし、鞭に限らず細くて長いものが好き、ということです。特に鞭はあの形がたまりません。わたしは蛇の獣人なので、どうしても細くしなやかなものに惹かれるのです」
「――ええっ? 蛇の獣人、って……。私はてっきり」
ディアドラと同じで、猫の獣人なのだと思っていた。
目を丸くしていると、真横から荒々しく書類の束を押しつけられた。ハロルドが険のある目で私を睨む。
「そこに座るのならば、ぐうたら姫様にも仕事を手伝っていただきたいっ。……全く、メイベル殿はこんなにも有能だというのに、主人である貴女ときたら」
ぶつくさ文句を言いつつも、考え込む私に律儀に説明してくれる。
「獣人は、父母どちらかの種を受け継ぎます。宰相殿は父君が猫、母君が蛇の獣人なのです」
「へぇ……。そうだったの」
感心しながらも、胸中に複雑な思いが溢れる。
獣人について――いや、そもそもランダールという国について、私はまだまだ知らないことばかりだ。これから一生この国で暮らすというのに、さすがにこのままでいいわけがない。
深々とため息をついて、大きな背もたれに体を預けた。
「……私、勉強不足だわ。もっときちんと学ばなくちゃね」
しんみり呟くと、全員が凍りついたように動きを止めた。信じられないものを見る目で私を見る。
真っ青になったメイベルが、いの一番に私に駆け寄った。
「――殿下っ。お加減が悪いのですね!? ああ、大変……! うわ言までおっしゃるなんて!」
「リリアーナ様は、熱があるときの方が正常なのですね」
「だ、大災害の前触れかもしれませんぞっ」
「…………」
見当違いの大騒ぎする一同に、心底あきれ返ってしまう。……全く。皆、私に対する理解が足りなさすぎよ?
きゅっと唇を引き結び、しかつめらしく全員を見回した。
「あのねぇ。私にだって、時には頑張らなくちゃいけないときがあるの。ランダールに嫁ぐと決めたとき然り、今回然り」
努力、気合い、根性。
どれも私とは縁遠い、ぞっとするぐらい嫌いな言葉だ。――けれど。
強い決意とともに、こぶしをぎゅっと握り締める。
「全ては心安らかに、一生楽しくのんびり過ごすため……! 私、見事やり遂げてみせるわ! だって今頑張りさえすれば、この先きっと薔薇色のぐうたら生活」
「さっ、仕事に戻りましょうか」
「賛成ー」
「異議なしですぞー」
最後まで聞きなさいよ。
ぷっとむくれつつも立ち上がり、執務机から退散する。
ふかふかソファへと戻る道すがら、再び空っぽになった赤い椅子を振り返った。誰にともなくぽつりとこぼす。
「……今日は、まだ一度も陛下にお会いしてないわ」
会ったところで、陛下は私に構わず仕事をしているだけだけれど。食事すら滅多に一緒に取れないけれど。
それでも、日に一度は陛下と言葉を交わさないと、なぜだか物足りなさを感じてしまう。すっきりしない気持ちになるのだ。
うじうじいじける私を見かねたのか、エリオットがあきれたような視線を向けてくる。
「仕方ないでしょう。これから迎える秋の収穫祭は、精霊に感謝を捧げるための、一年で最も重要な神事なのですから。無事終了するまでは、準備の視察やら何やらで陛下もお忙しいのですよ」




