第12話 なぜだか不思議なひとときでした。
まるで魅入られてしまったかのように、少年のうさぎ耳から目が離せない。
返事も忘れて見惚れる私を、少年もまた興味深そうな表情で観察していた。ふわりと小首を傾げた瞬間、少年の動きに合わせてうさぎ耳が微かにそよぐ。
――ああ、なんて。
白くって、やわらかそうで、温かそうで――……
「……っ」
無意識に伸びかけた手を慌てて引っ込める。
駄目よ私ったら。変態道は極めないって、固く誓ったばかりじゃないの。
己を戒めるため、まだ動こうとする右手をぎゅううとつねった。痛い……でも平常心、平常心。
「うわあ、何をやってるのリリアーナ。赤くなってるじゃないか」
人の気も知らないで、少年が眉をひそめて私を覗き込む。真っ白な耳が困ったようにへにゃりと折り曲がった。
(くっ、かわ……いいえ駄目だったら!)
平常心、平常心。
床に座ったままクッションごと後ずさると、少年の耳がますます垂れていく。大きな瞳にこんもりと涙が浮かんだ。
「リリアーナ……。僕のこと、逃げ出しちゃいたいぐらい嫌なんだね?」
「……っ。違うわ! 傷つけてしまったのならごめんなさい……!」
大慌てでハンカチを差し出すと、少年はなぜかハンカチではなく私の腕を鷲掴みにした。そのまま絡みつくように抱き着いてきて、上目遣いに艶然と微笑む。
「――ふふっ。捕まえちゃった」
……捕まっちゃった。
その年頃にそぐわない、つややかな表情に唖然としてしまう。
少年は楽しそうに笑い声を立てると、ぱっと腕を解いて立ち上がった。桃色の頬を上気させ、私に向かって華奢な手を差し伸べる。
「リリアーナ。せっかく来たんだから、扉だけじゃなくて精霊廟の中も見ていって? 僕、案内できるよ。僕のおじいちゃんが精霊廟の手入れを任されてるから、ここには何度も来たことあるんだ」
「……え。で、でも……」
少年と精霊廟の扉を、おずおずと見比べた。
中を見物したい気持ちは、もちろんある。
ディアドラに引きずられてきたときは、なんだかんだで入りそこねてしまったから。
扉ですらこんなに素敵なんだもの。精霊廟の中はきっと、興味深いものでいっぱいに違いない。
一瞬心が揺れかけたものの、すぐに思い直してかぶりを振った。
また少年を泣かせたりしないよう、用心しながら口を開く。
「ごめんなさい、やめておくわ。精霊廟は、この国の人達にとって大切な場所なのでしょう? 私なんかが足を踏み入れていい場所じゃ――」
「何言ってるの! 君は王様のお嫁さんになるんでしょう? それに……」
少年は突然言葉を止め、すっと笑みを消して黙り込んだ。眉間に皺を寄せ、えらく難しそうな顔になる。
その老成した表情に、私はまたも驚いて言葉を失った。
(……不思議な子。無邪気なんだか、大人びてるんだか。ちっともつかめないわね)
まじまじと見つめていると、少年は何か思いついたかのようにぽんと手を打った。愛くるしい表情に戻り、扉に向かって元気よく飛び跳ねる。
「ね、リリアーナ。本当はね、足を踏み入れたらいけないのは僕の方なんだ。だって、いつもおじいちゃんには内緒でこっそり忍び込んでいるんだもの。……だからもし、僕がひとりでいるのが見つかったら――……」
重厚な扉に手を掛け、にやりと笑った。
「きっと、ひどく怒られちゃう。そうなったら、リリアーナのせいなんだからね?」
「待っ……!」
引き留める間もなく。
挑戦的に言い放った少年は、ためらいなく精霊廟の扉を開く。
隙間から漏れ出る光に、溶けるように飛び込んでいった。
「こっ、こら! 駄目よ!」
大人びて見えてもやっぱり子どもだ。
目を吊り上げて、悪戯小僧の後を追う。眩い光があふれる精霊廟の中へ、私も足を踏み入れて――
「……う、わ……っ!」
目の前に広がる光景に絶句した。
まず感じたのは、色とりどりの光の反射。
目を眇めてよく見ると、赤や黄色に色づいたステンドグラスだった。外の陽光を取り込んで、廟の中を美しく照らし出している。
――そして、足元一面を埋め尽くすのは。
「お花、畑……? すごく、綺麗だわ……」
色鮮やかなステンドグラスとは全く違う、無垢なほど真っ白な花が咲き乱れていた。茫然と屈み込み、なめらかな花弁を指でなぞる。
「――ね、すごいでしょう? 気に入ってくれた、リリアーナ?」
歌うような声が降ってきた。
微笑を浮かべた少年が、体重を感じさせないほどの軽い足取りで私に歩み寄ってくる。イタズラを叱りつけるのも忘れて、私も笑顔で頷いた。
「ええ、とっても! でも、こんな美しい花を踏んで歩くのは……あら?」
草に隠れてすぐには気付かなかったが、廟の真ん中には石畳の道があった。
ほっとして石畳に移動した途端、突如頭に天啓が走った。細い道に持参のクッションを置いてみる。まあ、やっぱり……!
「素晴らしいわ! この小道、ちょうど私が寝っ転がれるぐらいの幅なのね。ちょっぴり眩しいけど、素敵なお昼寝スポットを発見してしまったわ!」
「えっ? 君、精霊廟で寝る気なの!?」
少年が素っ頓狂な声で叫ぶ。
あっけにとられたように私を見つめ、ややあって大きく噴き出した。お腹を抱えてげらげら笑う。
「お、面白いお姫様だねリリアーナ……! ――うん、やっぱり決めた」
目尻に浮かんだ涙を拭い、少年は改まった様子で私に向き直った。うさぎ耳をひと撫でして目を伏せる。
「リリアーナ、僕はね。こんなふうに中途半端な人型しかとれない、出来そこないの獣人なんだ」
突然の告白に虚を衝かれ、私は茫然と彼を見返した。琥珀色の瞳が悲しげに揺れる。
「だから、人前にはほとんど出ることができない。奇異の目を向けられるが怖いから。……ここに来ることだけが、僕の唯一の楽しみなんだ。――だから、だからねリリアーナ」
僕のこと、誰にもナイショにしてくれる?
うさぎ耳を垂らして小指を差し出され、私は反射的にこっくり頷いた。……だって。本当は、いけないことなのかもしれないけれど――……
「……出来そこない、だなんて嫌な言葉ね。私もきっとそう思われていたから、あなたの気持ちは痛いぐらいわかるわ」
「リリアーナ……」
しゅんと鼻をすする彼に、照れ笑いを向けて見せる。一歩踏み出し、彼の小指に指を絡めた。
「私、ガイウス陛下にお願いしてみるわ。精霊廟でお昼寝させてくださいって。そうしたら、あなたともまた会えるものね?」
指切りげんまんしたところで、はたと思い至った。そういえば、まだ彼の名を聞いていない。
「ね、あなたの名前は――」
「それは秘密。だって僕、自分の名前ぜんっぜん気に入ってないんだ。……リリアーナが好きな名で呼んでくれる?」
ええー……。
いきなりそんなこと言われても、と眉間に皺を寄せて考え込む。
少年はきらきらと瞳を輝かせ、期待のこもった眼差しを私に向けている。うーんうーん、大変だわ。そんなにハードルを上げないでちょうだい。
(ええと、名前名前……。この子に似合いそうなのは……)
ちらりと彼の表情を窺う。
琥珀色の瞳がぱちくりと瞬きした。
――そうだ!
「コハク、でどうかしら? あなたの瞳、とても綺麗なんだもの」
腰を屈めて目線を合わせると、彼は口の中で転がすように、「コハク」と小さく呟いた。ややあって、パッと表情を明るくする。
「うん、素敵な名前だね! 僕の名付け親のセンスとは大違いだよ。……今日から僕は、コハク」
よろしくね、リリアーナ。
差し出された手を取り、私も彼に微笑みかける。
「ええ、こちらこそ。よろしくね、コハク」
しっかりと握手した瞬間、身の内を温かな何かが流れた気がした。驚いて手を離すと、コハクがくすぐったそうに笑った。
一足飛びに扉の前に移動し、立ち尽くす私を振り返る。
「それじゃ、今日はこれで! いつでも精霊廟に来るんだよ、リリアーナ。だって、君には――……が、あるんだから」
「……え?」
扉を開けたときの風の音で、最後の部分がよく聞き取れなかった。
ぽかんとする私を残し、コハクはあっという間に見えなくなってしまう。
(……ええと……?)
あまり自信はないけれど。
聞き間違いじゃなければ、最後の言葉は。
「君には――……」
『資格』
……が、あるんだから……?




