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第1話 ぐうたらしたい。眠りたい。

 ――ふっと集中が途切れた。


 かぶりつくようにして読んでいた本から顔を上げ、カチコチに強ばった首をぐるぐると回す。

 懐中時計を探り出して時間を確認すると、ここに来てからゆうに二時間は過ぎていた。ため息をひとつつき、没入していた物語の世界から現実へと戻る。


 分厚い本を閉じた瞬間、ふあぁと遠慮会釈ない大あくびが出た。そのまま誘惑に負けて横になり、すべすべとした床に頬をつける。


 石造りの床はひんやりしていて、四肢を投げ出して寝そべるとなんとも心地いい。まだ初夏だというのに外はうだるほどの暑さで、この書庫だけがまるで別世界みたいだ。


 緑に囲まれたお城の片隅、忘れ去られたちっぽけな書庫。


 滅多に人が来ることのないこの場所は、私の隠れたお昼寝スポットだ。うとうとと目をつぶると、冷たい床と溶け合うようにして意識が薄れていく。


(ああ、しあわ――)


「リリアーナ」


 押し殺した低い声がいきなり降ってきて、ビクリと身をすくませた。

 おかしい。この部屋には私しかいないはず……。


 恐る恐る目を開くと、背の高い男が仁王立ちして私を見下ろしていた。

 癖のないまっすぐな白金の髪に、宝石のような輝きを放つ翠玉の瞳。すっと鼻筋の通った端正な顔立ちが、今は不愉快そうに歪んでいる。……ぐえ。


「なんだ。その捻り潰された蛙のような声は」


 黒地に金の刺繍という豪奢な服の男は、ますます苦虫を噛み潰したような顔になる。

 私は慌てて立ち上がり、くしゃくしゃになったドレスを整えた。怒っているときの彼は、背筋が凍りつくほど怖いのだ。

 胸に手を置き、震えながら辞儀をする。


「……あ、その。ご、ご機嫌よう。レナード、お兄様……」


「ご機嫌は全くよろしくないな。妙齢の妹の、有り得ないほど怠惰丸出しな姿を見せられて」


 硬い声音で、間髪入れずに返された。

 返す言葉に詰まった私は、しおしおと眉を下げる。


「ご、ごめんなさい。何か、私……ではなく。わたくしに、御用でしたか?」


「ああ」


 短く答え、どっかりと床に座り込んでしまった。……え?


 唖然としていると、兄は立ったままの私をジロリと見上げる。不機嫌そうに己の傍らを示すので、私も慌ててしゃがみ込んだ。ごくりと唾を飲み込む。


「……お兄、様? 一国の王が、床に座るのは……どうかと思いま――」


 上目遣いに苦言を呈した瞬間、底冷えする視線で射抜かれた。思わずひゃっと首をすくめてしまう。


 口をつぐんでひたすら小さくなっていると、はあ、という重苦しいため息が聞こえた。


「……一国の姫が、床に寝転ぶのもどうかと思うがな。そんなだから怠惰姫だのぐうたら姫だの、口さがない連中から陰口を叩かれるんだ」


 いつものお小言に、表面上は神妙な顔で聞き入るふりをする。……だってだって、しょうがないじゃない。



 ――ここはイスレア王国。

 世界地図上では、取るに足らないぐらい小さな島国。


 広大なヘイムベルク大陸の南東にあり、国際的な存在感には乏しいものの、四季の移り変わりが美しい緑豊かな小国だ。


 この長閑で平和な国で、私は王家の末の姫として生まれ、そして――……


 これまでに何度も死にかけた。

 十の指では到底足りないぐらい、何度となく。


 誤解がないように言っておくが、陰謀だのお家騒動だの、血生臭い理由で命を狙われたわけでは勿論ない。そんな物騒な話ではなくて――


「……確かに、今だって丈夫とは言えないかもしれないが。少なくとも子供の頃ほど虚弱ではないだろう。いつまで甘えている気だ」


 今日のお説教は結構長い。

 うんざりしつつ、膝に置いた手に力を込めた。胸の中で嘆息する。


(そりゃあ、あの頃とは違うけど……)


 幼少期、私はとても弱っちかった。


 季節の変わり目にまめまめしく風邪を引いては死にかけ、鈍臭くてドレスの裾を踏んづけて転んでは寝込み、勉強したら知恵熱を発して生死の境をさまよった。

 大人になるまでとても生きられないだろうと、医師からも悲痛な顔で宣告されたという。


 可哀想な私を、周囲の大人達はこぞって砂糖漬けのように甘やかした。私の好きなように過ごさせてくれたし、厳しい王女教育も一切施さなかった。合言葉は「だってだって、この子は長く生きられないんだもん!」だ。


 ――しかし、大方の予想を覆し、私はすくすくと十八歳まで育ち上がってしまった。


 体力なし、やる気なし、根性なし。

 お昼寝大好きな「ぐうたら姫」の一丁上がりである。


 ぼんやりしている間にも、まだ兄はくどくどと口を動かしていた。これぞまさしく繰り言というもの。だんだんと瞼が重くなってくる。


「……で……だ……。そ……な……」


 …………


 …………


 …………ぐうすか、ぴー。


「寝・る・なっ!!」


 大喝されて、心臓がひゃっほうとでんぐり返った。

 そのままバクバクする胸を押さえ、恨めしげに兄を見つめる。……死んだらどうしてくれる?


 が、兄は堪えた様子もなく、腕組みして私を睨み据えた。


「リリアーナ。大方は今話した通りだ。……よもや、異存はあるまいな?」


「……え? あ、えと……」


 緩く口角を上げ、曖昧に微笑む。

 まさか「もう一度、要点だけまとめて言い直してちょうだい」だなんて言えやしない。困った私は、唇を湿らせてからゆっくりと口を開く。


「……いや、です。お断り、いたします」


 震えながらも、きっぱりと言い切った。

 だって、嫌な予感しかしないから。兄はきっと、私の平穏を(おびや)かそうとしているに違いない。


 ――私の望みはたった一つ。


 平和で穏やかな生活を守りたい。

 春と秋には庭園の木陰で、冬にはぬくぬくと暖炉の前で、夏には書庫でお昼寝を楽しみたい。好きなときに寝て、好きなときに食べて、そうして時々死にかけては思うのだ。


 ああ、生きているって素晴らしい――と。


 こんなにもささやかで平凡な願いを壊そうとするなんて。我が兄ながらとんでもない悪党だ。


 険を込めた目で睨みつけると、兄は兄で胡乱な表情で私を見返した。


「……お前、目は口ほどに物を言っているぞ。俺は悪の親玉か。年頃の娘に縁談を持ってくることが、それほど非難されることか?」


 いいからお前はとっとと嫁に行け。


 吐き捨てるように告げられ、思考が一瞬停止する。


(……えぇと……?)


 よめ。

 えんだん。

 けっこん。


 結婚。

 結婚!?


「…………ふぅっ」


「リリアーナッ!!?」


 慌てふためいた、兄の叫び声を最後に。


 ――私の世界は暗転した。

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