悲劇と可能性の矛盾
現代は「可能性の宗教」を持っていると言えるのではないか、とある時、ふと思った。可能性というものが前方に広がっているという観念が現代の底には横たわっている。そうして、これは、私が尊崇する悲劇の概念と丁度、相反する。その事についてメモしておこうと思う。
現代人は可能性というものが好きである。エンターテインメント作品にはこれがしばしばよく使われる。よくあるタイムループものは、この可能性というものをうまく使っている。過去を振り返れば、もっとうまくやれたような気がする。今の自分は駄目かもしれないが、やり直せればもっといい場所に行けるかもしれない。あるいは今の自分にも未来の可能性は開かれていて、選択を間違えなければ素晴らしいものになれるかもしれない。
Aという道が駄目ならB、Bという道が駄目ならC。可能性という名の宗教は、そのどこかに答えがあると考えようとする。どの道かに答えがあり、過去に遡って正しい答えを得る事ができるーーこれがエンタメ作品の枠組みになっているのを我々はしばしばよく見る。しかし、果たしてこの観念が正しいのかと、人は問わない。こうした時間感覚は、神がいたような時とは違う時間感覚として、現代人の信仰になっている。これは進歩主義とも一致する考え方だろう。正解があり、選択肢があり、どこかに抜け道や正しい答えがある。人為的に考えられた「試験」という制度もまたこうした考え方に則っている。ところが、本当に人生がこういうものでできているかどうかはわからない。…いや、私はそんな風にできていないと確信しているが、それを人に伝えるのは難しいだろう。
例えば、三浦春馬という役者が最近自殺したが、その自殺についてあれこれ推測が立っているらしい。陰謀論のようなものもあるようだ。人は、三浦春馬のような、「誰がどう見ても成功者」という人がはっきりした理由もなく自殺する事に対して当惑を覚える。なぜなら、三浦春馬のような「スター」は我々の社会の正解、答えであるにも関わらず、その正解が自ら死に赴くと、なんだか我々の信仰を否定されたような気になる。だからこうした死は、我々の宗教からは除外しておきたいものなのだろう。
問題は、可能性というものが前方に広がっているという考え方では、エンタメ作品しか出てこないという事である。物語・文学・ドラマの領域においてこれは問題である。本当はこの考え方は現実そのものの孕む問題でもあるがそれは後で触れる。先に、フィクションの話からしておきたい。
エンターテインメントは基本的に、現在肯定である。欲望充足でもあるが、その欲望は自己を客観視したものではなく、自己の内部にあるものを外部に延長するようなものである。未来について人はあれこれ語るが、未来には未来の権利があり、それを未来の人々(その時の「現在」人)の為に取っておく事は決してしない。あくまで、未来は現在の延長であり、我々の手に届くものでなければ気がすまない。過去も同じで、戦国武将を現代の通俗観念で彩って満足するというのは、どこにも行こうとしない現代人の心性をよく示している。彼らは動かない。動かないまま、未来も過去も「今」に引きつける。こうして毎年毎年、変革を謳っていないがら何一つ変わらない閉塞した現代人の世界が現れる。
タイムループものでは、大抵、取り返しのつかない現在から過去に戻って、「今」を矯正する話になる。結局、帰るのは今である。今を良くする為に、過去に戻り、過去からまた現在に戻ってくる。そうすると、今は新しい今となって、肯定されるべきものとなる。これは私などの考える悲劇の概念とは矛盾する。
可能性というのは選択肢である。現在から未来に、過去から現在に向かっても、そこに道があり、どこかが正解だとする時、我々は知らず、時間を空間的なものとイメージしている。そうしてその空間は操作可能なものであるとされる。こうして空間化された時間は、次第次第に我々の手に負えるものになっていく。壮大な話はいくらでも紡げる。どれほどゲームやアニメに世界滅亡、世界救済の話が描かれただろうか。だがそこに真の壮大さがないのは、それが収斂されるのは結局、我々の欲望だからだ。我々は自分達の内部にあるものを相対化する目を失っている。そうしてそれを時間や空間に延長していく行為が「クリエイティブ」と呼ばれる。
こうした世界観は、悲劇というものは程遠い。村上春樹の小説に常にラノベ的な雰囲気が漂っていた事と、最近の彼が、消費社会の肯定と自己の救済を一致させたのは偶然ではない。村上春樹には悲劇というものの本質がわからなかった。というのは、彼にとって文学は技巧的なものであって、現実と闘う為の道具ではなかったからだ。闘う必要がない時、人はそこにどのようにでも愉楽を見出す事ができる。我々は偉大なロシア文学が数々の検閲、数々の現実的抑圧の中で紡がれたのを知っている。そこでは愉楽を紡ぐ余裕はなかった。彼らにとって文学は、彼ら自身の阿鼻叫喚であり、生そのものだった。
悲劇は、必然的な推移発展でなければならない。これが現代の人間にとってもっとも理解し難い事だろう。実際、私もこれを理解するのに随分苦労している。小林秀雄も言っているが、悲劇には抜け道は許されない。「あの時こうしていたら良かったのに」。この言葉が出てくるようではいけない。彼が悲劇に陥ったのは、彼が望んだ必然でなければならない。人は偶然の連鎖で死ぬ事はあるし、人生とはまずそんなものだろう。電車一本ずれていたら、もう十分家を早く出ていたら、あの時、電話に出ていなかったら……などなど。現実には偶然が分岐を形成しているように見える例は無数にある。しかし悲劇には抜け道があってはならない。必然的な推移から主人公は破滅しなければならない。
例を上げるなら、漱石の「こころ」がわかりやすいだろう。「こころ」の先生が自殺するのは、彼自身が望んだようなものであるように見える。先生がKと三角関係になったのは偶然ではない。先生が仕組んだものにすら見える。ではなぜ、彼は不幸を避けようとしなかったか。いや、仮に自分が相手を騙した事に悔恨を感じたとしても、その観念をどうして征服しようとしなかったのか。幸福になろうとしなかったのか。先生は結局、自殺する。だがそれは先生が、ある人生を望んでいたからだ。それは彼にとって、必然的な人生だった。偶然による幸福ではなく、必然による不幸を彼は無意識にも望んでいた。その帰結があの終わりであるから、我々はあの作品に深い感銘を受ける事ができる。
現代の人間にとって、こうした悲劇が理解できないのは、先の可能性の問題もそうだが、利害が絡んでいるからとも言える。利害と可能性の問題は深く絡み合って、現代の人間の根底を成している。要するに「得」をしたいのだが、「得」の果てに答えがあるというのが、現代人の信仰と言える。「君の名は。」にわかりやすいが、自分達の恋愛が成就すると共に、ついでに世界も救うという都合のいい話が、人々のお気に入りである。そこでは必然性の問題は廃棄され、世界は偶然性に満ちており、その中で正しい答えを選べば正しい人生、正しい生き方ができるとする。そしてその行き先は、現代の幸福=快楽との価値観に見合った恋愛という要素に結論されていく。恋愛というのが、自己に対する他者の肯定として、そうして自分達の内側にあるものの無際限の肯定として、いかにフィクションの領域で乱用された事か。
私が読んだギリシャ悲劇の解説本に、「オイディプス王」の事を指して、オイディプスが悲劇に陥ったのは彼に落ち度があったからではなく、彼が人間であったからだ、と書いてあった。オイディプスに何か失敗があったから悲劇に陥ったのではない。彼は人間であり、人間の限度というものから逃れられなかったからこそ、破滅したのである。このような偉大な劇をギリシャ人が描き得たのは、彼らが独特な神概念を持っていたからだった。神という概念があるからこそ、人間の限界、人間の極限を描くという文学の至高にまで到達する事ができた。神という絶対が、人間の相対を描き出すのである。神が消え、絶対的な観念が我々の外側から消えた時、我々は世界を合理化した。そしてそれが実現した世界で我々は途方に暮れた。彼にはもはや彼を満足させる何もなかったからだ。
可能性というのは一種の広がりである。広がっていき、ところどころにある幸福に立ち寄り、気持ちよくなったり、得をしたりして、また違う道をたどっていく。それは広がりであるから限界がない。現代の芸術が中途半端なものにとどまらざるを得ないのは、人間の内部にあるものが外部化していく過程しか知らない為に、それを見る「他者」がいないためだ。広がりには限界がないから、終わりもなければ始まりもない。タイムループものの作品はある終末、人間の限界を描き出すものではなく、むしろ永遠を渇望されているところの「日常」を肯定するものでしかない。
そこでは日常という偽の永遠を肯定する為に様々な技術が駆使されているに過ぎない。人間の限界をより高い所から描くのではなく、人間の中にあるものを外部に押し広げ、それら全てを「我々色」に染める為のものである。そうして我々は幸福である事を望みつつも、それが少しかき乱される不幸を楽しむ。それがスパイスのように作用して、かえって我々の安楽が心地良いものとなる。我々の認識は動かない。どこにも行かない。その代わりに、その「我々」にようやく到達する物語を我々は楽しむのである。その迂路が物語を形成するように思えるのである。我々は座して、自分達を肯定してくれるものをただ待っている。
悲劇はそのようなものではない。悲劇はだから、神という概念、あるいは人間を越えた概念と協力関係でできあがる。カント「純粋理性批判」のアンチノミーを、『知性の悲劇』と名付けるのであれば、カントが人間理性の限界を知る事ができたのは、彼が人間理性の外側を信じる人だったからに違いない。しかし、信仰は哲学ではない。だからはしごは外されて、我々には純理論としての哲学だけが残る。我々は哲学だけで哲学を割ろうとする。そこで必然的に、探求の道は迷いの森へ入っていく。
悲劇は必然的な推移を持っていなければならない。抜け道があれば、それは「人間の可能性」へと意識が傾き、「どうして〇〇しなかったのか」という問いへと変わってしまうからだ。悲劇は人間の本質を描くものでなければならないが、その為には可能性の道を塞がなければならない。可能性という抜け道があれば、それは終端を持たないものになってしまう。我々は偉大な作品を読んだ時、全てが言い尽くされたという言いようのない気持ちを味わうのだが、それに比べると実人生は常に途上で、中途半端で、ずっと続いていくものに思える。なぜかと言えば、そうした作品には人間の先にあるものが絶えず意識されており、そこから照射されてくる光で人生が影として映し出されるからだ。人生の内部とは違う所から光が指してくるからだ。そうでなければ「全てが言い尽くされた」という感慨を得る事はできないだろう。
可能性の宗教は答えを探し求める。それは利害概念と絡み、答えや選択肢があるという結論に落ちていく。法律に反しない限り、金を取れる状況で取らないのは現代の宗教に反するわけである。様々な選択肢があり、どこかに答えがあり、それは大衆の通俗観念の集積する「タレント」や「テレビ」になっていくのは見やすい部分である。
「我々の幸福」に到達する為の無限の選択肢を提供するエンターテインメント作品は、我々の「今」からどこにも出ていかない。だから、どこにも出ていけない自分達をも認識できない。一方で、悲劇のようなものがもしあれば、それはどこかに行こうとするが故に、ある一点にとどまって先に行けない人間という種を視認する事となる。このような達成がなぜ過去に成され、今には成されないのか、私にはよくわからない。歴史というのは逆行しているのだろうか? 現代人が様々なものを達成したとうぬぼれた時、まさにそれ故に彼らは破滅の種を巻いていたと未来の歴史家は書くのではないだろうか?
しかし、問題は我々が自分の破滅そのものをどこまでも認識できない事である。必然であり、不幸である人生を我々は認識できない。苦痛に満ちた死によって彩られた人生はただ彼岸の神のみが慰めの吐息をかけられるのだが、神を殺した以上、我々は自分達で自分達を慰めなければならない。こうして我々は永遠に此岸に釘付けにされたまま、自分達が此岸にいるとも気づかず、歴史の頂点に登りつめたとうぬぼれ、諸方に向かって「我々は正しい、我々は勝利者だ」と怒鳴り散らすのである。その遠吠えは空間に虚しくこだまし、誰からの返答もない。それ故に我々はかえって、一層力強く、一層虚しく自分達の勝利を喚き散らす。今こそが歴史の頂点、今こそが最高の時、今こそが最高の幸福だと。応答なき対話をごまかすかのように。
こうして我々は知らず見えない奈落を落ちていくが、それを見るものが何一つとして存在しないのが我々に残された唯一の悲劇だ。それを描き出す存在はどこにもない。観客のいないドラマを演じている下手な役者とでも言えるだろうか。これらの人ーー我々に残っているのは、もはやただ”消滅”だけだろう。なぜなら、見る者がいなければ見られる者もいないからだ。そこにはドラマはなく、ただ無限の空白のみが控えている。その空白を我々は絶えず饒舌と賑やかしによって埋めていこうとする。賑やかしを永遠にしようとして、かえって時間というものを我々は殺していく。
死ぬ事ができない生物はやはり生きる事もできないに違いない。このなんだかよくわからない生物は、砂浜で、自分のつけた足跡を丹念に消していっている。そうしてやがては彼自身も消す事になる。その遊戯は自分自身の抹消を見事やり遂げ、最後にはただ波音が残るだけになろう。彼らには時間もなければ空間もなかった。あるのは無限であり、だとすると終点も始点もない彼らはそもそも何でもなかったという事になる。
人々は不安に背中を押されて、みんなが見ているものを見て、みんながしている事をしようとしている。「みんな」でなければ不安なのだ。みんなが崖から身を投げれば、自分一人でいるのが怖いから身を投げるだろう。死ぬよりも孤独の方が彼らには遥かに怖いのだ。こうして全ては消えていくが、それを書き留めるものはもういない。我々は遠い過去に自分達が訴えかけるものを既に消し去っていた。我々はただ自分というドラマを演じる奇妙な一生物でしかない。これを勧告する者も諌める者も誰もいない。裸の王様は消えていく。もう誰もいない。そうして誰もいないという事も、もう誰にも言いようもない。
これを書いた後、ベルクソンを読んで若干考えが進みました。ベルクソンは、時間というのは空間化できないという事を言っています。
現代のエンタメ作品が目指すのは、空間なのではないか。真の時間ーーベルクソン的な時間とは違うものを目指していて、そこに齟齬があるのではないか。
真の時間というのは、現に彼が生きる事によって体感するものでしかないから、人々がエンタメ作品に見ようとしている、時間の空間化、つまりは通俗的な生とは違います。この齟齬に現代社会はこれから落ち込んでいくのではないか、と考えています。