To be continued
普段起きる時間よりも早く少女の金切り声をBGMにして、おっさんは一日を強制的に迎えさせられた。
「テメェ、ふざけんな!洗濯は別にしろって言ってんだろうがッ」
男口調の汚い言葉でおっさんを罵るのは、今年高二のこの家の娘だ。
最初の子であり、女の子ということで幼少期、録に父娘の絆を育めなかったのをおっさんは悔やんだ。
「すまない。父さん昨日は夜中に帰って来ただろう。飲み会で一張羅のスーツが汚れてしまって、急いで洗ってしまいたかったんだよ」
「だから知らねえっつってんだろうがッ!だったら二回に分けりゃいいだろ」
「一緒に洗わないと勿体ないだろう?」
「口答えすんじゃねえよ。テメェ次やったらぶっ殺すからな」
__娘から殺害予告を受けてしまった。気をつけねば。
「いつまで廊下で突っ立ってんのよ……あなたが居るだけで家が辛気臭いんだから早く会社にでも行ってちょうだい」
不意に妻が後ろから現れる。
居心地が日に日に悪くなるとは思っていたが、まさか自分が原因だったとは……妻と娘には悪いことをした、と、おっさんは世の中の父親とはおおよそかけ離れた負け犬根性を発揮していた。
おっさんは昨夜のうちに自分で炊いていた米を半合茶碗によそい、納豆を混ぜただけの簡素な朝食を手早く済ませると、身支度をして家を出る。
出社する間際に、玄関先に映った姿見をチラリと見る。
そこには、瓶底眼鏡をかけ、白髪混じりのボサボサの髪の毛をした中年男性が写っていた。
なんとも情けない自分の姿に、おっさんは大きな溜息を一つ吐いた……。
*
「オイ、オイオイオイ……何度も言わせないでくださいよぉ。うちの部署はそんな雑用まで手が回んないからおたくに頼んでんでしょ。ったく、使えねぇジジイだなあ」
一回り下の部下に叱責される。
仕方なかった。おっさんは肩書きは係長だが、雑務全般を受け持つ総務の更に雑用。同じ部署の部下にさえ、命令されるような典型的な駄目上司。
打って変わって男は、花方である営業部の主任。
まだ二十代にも関わらず、出世街道を邁進している期待のホープだ。
___彼は私よりも何倍も苦労している筈だ……私が言われたことをしっかりとこなせれば叱責されることもない。
おっさんに染み付いた奴隷根性は、部下に罵倒されようが払拭されるほど甘いものではなかった。
「なんですか、あの態度……酷いですぅ。係長は駄目なりに頑張っているのに……」
同じ総務の沢尻由美子がおっさんを労いにくる。
とても心根の優しい娘で、いつもこうやっておっさんを慰めてくれる。と、おっさんは思っていた。
実際には、歳不相応な色気と、類まれな美貌で会社の若い連中の性欲を掻き立てる魔性の女で、そんな自分を自覚しまくっているが故に、理想の部下を演じているだけなのだが、おっさんにはそんなこと知る由もなかった。
__私を肯定してくれる数少ない部下だ、大切にせねば……。
「ありがとう、沢尻君。でも大丈夫。私は私の仕事に誇りを持っているから」
おっさんは、由美子にそう言って微笑みかけた。
部下に情けない姿を見せたくない、というおっさんの精一杯の強がりだが、勿論由美子には届かない。
むしろ、せっかくこの私が慰めてやったのに、なに平気ぶってんだこの駄目鏡、と内心めちゃくちゃ馬鹿にしていた。
「い、いえ……係長がそう言うなら私は全然……じ、じゃあ失礼しますぅ」
おっさんの勘違い発言に"きもっ"と思いながら、由美子は自分の作業机に戻りパソコンを打ち込み始めた。
今日もおっさんは、全国の冴えないサラリーマンの業務を凝縮したかのような絶望的に悲哀に満ちた日常を過ごしていった。
「ただいま……」
ガチャリ、と会社から支給された社員寮の扉を開ける。
いつも通り返事は無かった。
しかし、いつもと違うのは、帰ってきて妻も娘もいなかったことだ。
大方、二人で外食にでも行っているのだろう。
おっさんは、作り置きしているであろう晩飯を一人で食べるため、リビングの明かりをつけた。
「……」
おっさんは絶句した。
一人で晩飯を食べるのはいつものことだった。
それは、妻と娘がいようが変わらない、おっさんの日常。
しかし、今日は晩飯すらなかった。
どれだけ邪険に扱われようが、晩飯だけはしっかりと作ってくれていた妻。
今、唯一おっさんが感じることが出来た愛情が終わりを告げた。
おっさんは晩飯の代わりに、卓上に置いてある封筒を手に取る。
___やはり、か。
おっさんが中身を一瞥すると、中には緑色の紙が入っていた。
同封されている手紙を読む。
要約すると、おっさんとの生活に嫌気がさしたので、離婚したいという内容だった。
おっさんは離婚届の記入欄を淡々と埋めていき、先程脱いだばかりのよれたコートを羽織り、我が家を後にした。
おっさんが夜の街を歩いていると、不意に、スーツ姿のチャラチャラとしたキャッチに声をかけられた。
「おじさん、うち良い娘入ってますよー」
おっさんは迷った。
もう十数年近く足を運んでいない大人の社交場。
しかし、おっさんは踏みとどまる。
金を気にしたわけじゃなかった。確かに金も持っていないが、年頃の女性と会話する、という一点がおっさんの気持ちを萎縮させた。
おっさんは妻と娘にボロ雑巾のように扱われていた日々を思い出す。
___金を貰おうが、こんな駄目オヤジと話したい女性などいないだろう。
おっさんの二十年近い結婚生活は、若い頃はそこそこにモテていたおっさんの自信を根こそぎ奪っていっていた。
「遠慮しま__「おっぱいならどーっすか?」」
食い気味でキャッチが言った。
おっぱい。確かに魅力的だった。
妻とレスになって十数年、おっさんは女体に飢えていた。
しかし、おっさんは踏みとどまった。
「やっぱり遠慮しま__「三千円ぽっきり」お願いします」
おっさんは踏み外した。
「ご新規様、入りもわぁぁすッ!!」
「らっしゃっせェェエ!!!」
もはや、絶叫に近いハイトーンボイスでおっさんの入店を告げるスタッフ達。
おっさんは気恥ずかしさを感じながら、案内された席に座る。
店の規模は小さく、女の子も数えるほどしかいなかった。
おっさんは自分以外に客がいないことに気付いたが、平日なのでそんなものか、と思い取り敢えず生ビールを注文した。
「お客さん、初めてですよねぇ」
露出の多いドレスに身を包んだ、ギャル風のキャバ嬢がおっさんに問いかける。
「はい……恥ずかしながら一人で来てしまいました」
「そうなんだぁ。私も今日からなんですぅ。愛華って言いまーす。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「リアクションかたぁい、もっとリラックスしよ……?」
愛華がおっさんの太腿に白い手を置く。
それだけで、おっさんの鼓動は思春期のように早鐘を打った。
ドキンチョ、ドキンチョ、と繰り返される自分の鼓動が、愛華に伝わらないかとおっさんは焦った。
四十も半ばに差し掛かったおっさんが、年甲斐もなく若い女性に興奮している様を気取られたくはなかったからだ。
「ハァァッスルタァァアイムッ」
唐突に、特徴的なハイトーンボイスが店内に響き渡る。
ムーディ調のBGMが打って変わってアップテンポな曲に変わった。
愛華が、その細い指をドレスの肩紐にかける。
ハラリ、と均整の取れた程よい大きさのおっぱいがおっさんの眼前に現れた。
まるで、ロールプレイングゲームにでてくるスライムのようにたゆんたゆんなそれは、男を堕落させるモンスターだ。
「きて……いいよ?」
おっさんは吸い込まれるようにモンスターにたたかいを挑んだ。
だがしかし、おっさんの装備していたヒノキの棒の攻撃力は最低値で、一つもダメージを与えることなく返り討ちに遭うのだった。
「ちぇんめッ、金持ってねえってどぅゆーことダッツァ、ぁあん!?」
巻き舌とハイトーンボイスの合わせ技がおっさんの鼓膜を揺らした。
既に、暴行を加えられ戦意が折れていたおっさんが、それでも戦々恐々としながら蚊の鳴くような声で抗議する。
「いや、しかし、た、たしかに三千円ぽっきりだと……」
「だぁかぁらぁ!!そりゃ、タックス代だっつってんだルォ、ああん!?」
おっさんは恐怖した。揉め事を起こさないように過ごしてきた自分にとって未知の経験だった。
「か、勘弁してください……三十万なんてとてもとても……」
「今からコンビニのATMでおろしてくいやっ!ああん!?」
「……いや、しかし「いけやぁぁあッッ!!!」」
「いぃいかせていただきますぅ」
おっさんの心は折れた。ポッキーのようにポッキポキに折れまくったのだった。
税別で三十万もの大金を払ったおっさんは、無事に解放され、飲屋街の外れにある雑居ビルまで来ていた。
おっさんは、重い足取りで階段を登っていく。
ビルは八階建てで、おっさんの目的地は屋上だった。
エレベーターで昇がった方が早いが、おっさんは一歩一歩踏みしめるようにして、階段を登っていった。
「はぁ……はぁ……」
おっさんの呼吸音が静かにこだまする。
さっき暴力を振るわれた後遺症で、身体中がギシギシと鈍い音をあげながら痛みを増していく。
しかし、おっさんは構わずに歩き出す。
おっさんは、妻と娘に思いを馳せていた。
___私に嫌気がさしたから、か……。
妻の離婚をしたがる理由が、そんな抽象的なものじゃないのは知っていた。
妻にはおっさんの他に男がいたのだ。
その男は妻子持ちで、おっさんと知り合う前から男女の仲だった。
当然のように、娘もおっさんの実の子ではなかった。
しかし、おっさんにとったら些細な問題だった。
おっさんは、妻も娘も愛していたからこそ、どのような形でも一緒にいてくれていることが嬉しかった。
だが、それも今日で終わりを迎えた。
思い出を懐かしむようにして登り続け、遂に目的の場所へと辿り着く。
錆びて赤茶けたドアノブに手をかけ、ギィーーという金属音を響かせながら扉を開いた。
おっさんは、屋上の柵まで歩いていくと、丁寧に靴を脱ぎ、胸ほどの高さにある柵に手をかける。
おっさんは何とか柵をよじ登り、そして___飛び降りた。
こうして、冴えないおっさんの人生は幕を閉じたのだった____。
ーーーーーーーーーTo be continuedーーーーーーーー
ーーーーーーーーーYES or NOーーーーーーーーーー