第十五章その1 こいつ、ものすごいアホだから
翌日、ラグビー部の練習は休みだった。ニュージーランドでは平時は各自が自主練に励み、部活の時間には実戦に即した試合形式の練習のために時間が割かれることが多い。
だが俺は授業が終わった後、学校のラグビー場でハミッシュの紹介したキックの名手と顔を合わせていた。
「へー、お前が太一?」
現れたのは金髪碧眼で身長も高く、顔立ちならばイケメンと評するに値する少年、ジェイソン・リーだった。
ジェイソンはカナダのバンクーバーから来た留学生で、俺よりひとつ年上だ。ラグビー部ではU-15チームのフルバックを務めているものの、練習場所も違うために今まで話す機会が無かった。
こんな女子からモテそうな容姿でありながら、ハミッシュからはものすごいアホと言われていたのは意外だ。とはいえこっちはハルキという日本産の特級アホをずっと間近で見てきたから、多少のアホでは驚かないぞ。
「ハミッシュも変なこと考えるなぁ、プロップにキックを教えてくれって」
面倒臭そうに頭を掻いていたジェイソンはコート脇のベンチに腰を下ろし、そのままスマホを取り出していじり始める。
「えっと、まずは何をしたら?」
「あー、蹴ってたらその内前に飛ぶようになるから、とりあえず蹴っとけ蹴っとけ」
そしてスマホの画面から目を離すことなく、あしらうように手で俺を追い払ったのだった。
なんつーテキトーな教え方。本当にこの人、キックの名手なのか?
だがハミッシュは「あいつはたぶん最初はやる気を何も出さないはずだ。でもひとつ、絶対にやる気を引き出す方法がある」と強く話していた。
俺は未来のスーパースターの言葉を信じ、パントキックの練習に打ち込んだ。
10分ほど、キックを蹴ってはボールを拾うのを繰り返す。その間ジェイソンはずっとスマホをいじっては時折ぷっと吹き出していた。何か面白い画像でも見てるのかな?
「おおーい、太一!」
その時、俺を呼ぶ声に俺もジェイソンも顔を上げる。ジャージ姿のアイリーンが笑顔で手を振りながら、こちらに近付いてきていたのだ。
「今日も頑張ってるわね。はい、これ頼んでたやつ」
彼女は持ってきたスポーツドリンクを俺の目の前に突き出す。
俺は「ありがとう」と受け取ると、よく冷えたドリンクをコートの外の芝の上に置いた。
「あとジェイソンだっけ? 太一に練習教えてくれてありがとう、はいこれあなたにも」
屈託のない笑顔のまま、アイリーンはもう一本持ってきたドリンクをベンチに座るジェイソンにも差し出した。
「あ、どうも」
ぽかんとした表情のままドリンクを受け取るジェイソン。スマホを持った左手からは完全に力が抜けていた。
「じゃあ私、今日はネットボール部の練習あるから。後でね!」
そして俺たちは走り去る彼女の背中を見送った。
その後ろ姿が見えなくなるや否や、腰掛けていたジェイソンは凄まじい勢いで立ち上がった。
「おいおいおいおいおいおいおい」
そして欽ちゃん走りにも似た妙なフォームで俺の前まで迫ると、ぐいっと顔を近づけるのだった。
「今のめっちゃ可愛いコ、何者だ?」
「うん、うちのホストファミリーのアイリーンだよ」
ジェイソンの目がぎらっと光る。
「なるほど、ホストファミリーか!」
そして彼は突然、手櫛で髪を整え始めたのだった。
「よし太一、口で言うより実際に見せた方が早いだろ」
そして人が変わったようにやる気を見せるジェイソン。顔つきも声もさっきのものぐさな雰囲気は吹き飛んでいた。
なんつーあからさまな……この人、ある意味ハルキ以上の逸材だよ。
ちなみにハミッシュ曰くジェイソンの扱い方は「とりあえず女の子の目があればやる気見せる」だった。事前にアイリーンに「財布忘れたから代わりにドリンク買っといて」とメッセージを送っておいたのだが、ここまで効果覿面とは。
「太一、キックてのはどのポジションでも役立つスキルだ。フォワードでもキックができるヤツは試合で活躍できるからな」
そう話しながらジェイソンは手に持ったラグビーボールを真っ直ぐに落とす。
彼はそれを足の甲に軽くぶつけて垂直に跳ね返させると、なんと続けて膝や爪先でポンポンとリフティングさせてしまったのだ!
こんな楕円球を思うがままに操れるなんて、俺はここまでボールの扱いに長けた人物を見たことが無い!
「す、すごい……」
「だろ? よく言うだろ、ボールは友達ってな」
そして最後は地面にボールを落として一度跳ねさせると、力強いドロップキックを振り抜いたのだった。30mほど離れたゴールポストのど真ん中を、きりもみ回転したラグビーボールが通過する。
たった十数秒の出来事だが、ジェイソンが卓越した技術の持ち主であることは嫌でも納得させられた。
「すごいよジェイソン!」
俺はお世辞抜きに感激した。こんなすごいプレイヤーがハミッシュ以外にもいたなんて。
ジェイソンも照れ隠しするようにへへっと笑いを浮かべると、小さく話し始めたのだった。
「実は俺、ラグビー始めたの9歳になってからなんだよ」
彼の口にした年齢に、俺は驚かされてしまった。
ここに留学に来るような生徒の中では明らかに遅い。ニュージーランド人のほとんどは小学校に上がる前からラグビーボールを触っているが、留学生の場合はより本気度も高いのか、それよりも早くからラグビーを始めた子が大半だ。
「けど4歳の頃からサッカーやってたから、キックなら誰にも負けねえよ」
「そんな上手いのに、なんで……」
なんでラグビーに転向したの?
そう言いかけたところで俺は慌てて口を塞ぐ。ここでそれを訊くのは余計なことだと勘付いたのだ。
しかしジェイソンは「よくぞ聞いてくれました」とでも言いたげに、にやっと笑みを浮かべたのだった。
「そりゃお前、サッカーよりラグビーの方がより世界の舞台に立てるからだよ」
そう言い切ってどんと自分の胸を叩く彼は、揺ぎ無い自信とプライドを醸し出していた。
「スポーツするなら俺は世界の大会に出場したい。で、国を越えて世界のスターに成り上がるんだ。そのためにはサッカーよりラグビーの方が良いと思った、だからラグビーを始めたんだよ」
意外に思うかもしれないが、カナダはラグビーの古豪である。
現在はワールドカップ出場ラインをギリギリ死守しているティア2の位置に甘んじているが、まだ参加国が16チームだった頃の1991年の第2回ワールドカップではルーマニア、フィジーとの試合を制してベスト8に進出している。
2000年代前半まではスコットランドやアルゼンチンといったティア1の国からも勝利を収めるなどラグビー界において一定の存在感を放っており、今でもワールドカップには毎回出場しているのがカナダ代表だ。
一方のサッカーカナダ代表が2024年現在時点でワールドカップに出場できたのは、1986年メキシコ大会の1回のみ。世界を目指すならラグビーの方が手っ取り早いというのは、ある意味で正しい。
この転向について俺はどうこう言うつもりはない。ラグビーを始める動機が何であれ、今の彼が優れた選手であることに変わりはないからだ。
「ただな、唯一の誤算は……」
堂々と胸を張るジェイソンの顔がほんの少し曇る。
「サッカーワールドカップ、次から出場国が増えるんだよね」
彼が何を言いたいのか察した俺は、ぼそっと付け加えた。
「そうなんだよおぉおおおおお!」
直後、ジェイソンは芝の上に崩れ込んだ。
サッカーワールドカップは2022年カタール大会まで全32か国だった出場国が、次回の2026年カナダ・メキシコ・アメリカ大会ではなんと48か国まで大増枠される。しかもカナダは開催国枠のおかげで予選無しで出場決定というボーナスもついているのだ。
さらにこの大会以降も出場国は48か国のまま維持されるので、カナダの所属するCONCACAF(北中米カリブ海サッカー連盟)からの出場枠も3.5か国から6か国まで増えたままになる。これまでメキシコやアメリカ、コスタリカといった強敵に阻まれていた出場の夢にも、一気に手が届く範囲に近付いてしまったのだ。
「まさかラグビーに乗り換えた直後に開催国決定して、おまけに出場国まで増えるなんて思ってもいなかったぜ。でも今さらやっぱやーめたってサッカーに戻るのもカッコ悪いし……」
このままサッカーを続けていてもきっと大成できたであろうに……ジェイソンは決断のタイミングが悪すぎた。
しかし彼はすぐに立ち上がると、またしても俺に涼しい頼れる兄貴の顔を見せる。
「でもラグビーが好きなのは本当だぜ。ニュージーランドに来たのもより強い相手と戦える環境を求めたからだし、強くなるためなら血反吐吐くくらい練習してるからな。カナダ代表としてラグビーワールドカップに出場する夢はずっと変わらねえよ」
彼の百面相っぷりに、俺はつい「ははは」と笑わされてしまう。アホはアホでも、ジェイソンは気持ちの良いアホだった。
「よし、じゃあ本格的に始めるか。いいか、まずパントキックのコツはだな――」




