第十四章その5 秘密の朝練習
未来のスーパースターであるハミッシュ・マクラーセンの自宅は、公園からすぐ近くにあるそうだ。昼間は他の利用者も多く自由にボールを使えないので、いつも人の少ないこの時間に練習に来ていたらしい。
実戦により近い形にするため、俺はハミッシュの横に並んで走りながらパスを回し、それをドロップキックで狙った位置に落とすという練習を繰り返す。やはりサポート役がいるのといないのとでは大違いのようで、ハミッシュは試合でも見せたことのないような笑顔を浮かべていた。
「なるほどな」
一通り練習を終えて公園のベンチに座って休んでいた時のことだ。自分の体格以外で誰にも負けない武器が欲しいと話してみたところ、彼は思いのほかすんなりと相談に乗ってくれた。
「後半になっても走れる奴はどこでも重宝されるが、さすがにプロップにそれ以上を要求するのはなぁ」
ハミッシュは俺の突き出た腹にちらっと眼を向ける。体重の重い選手は持久力やスピードを犠牲にしているので、どちらも両立させるのは現実問題として難しい。
だが彼は俺の石柱のような太い脚を見ると、そうだと言わんばかりに口角を上げた。
「そうだな、俺が試合中にされて一番困るのはキックだ」
そして改めて話し始める。俺は彼の話に耳を傾けて無言で頷き返した。
「ラグビーは陣取り合戦だ、流れが一度相手に渡ったらなかなか取り戻せない。だがキックは一発でそれを変えることができる」
ハミッシュの言うことはまったくもってその通りで、試合中もう得点されるかと思ったらキックひとつでピンチを切り抜けられたという経験は数えきれないほどある。逆に相手を追い込んだところで思わぬキックを決められ、せっかく攻め込んだのに自陣を大きく後退させられるということも珍しくない。
「キックを使えば相手の守備が堅くても、裏までボールを送ることができる。そこにバックスを走らせればそのままトライすることも可能だ。ゴールラインまで追い込まれた時にもタッチラインの外に大きく蹴り出してクリアすることもできて、お前にさえボールを渡せば何とかなるだろうとチームに安心感を生む。リスクもあるが、戦術の幅が一気に広がるのがキックの利点だ」
ハミッシュは手元にあったボールをひとつつかんで立ち上がる。そしてそのまま手を放して足元に落として一度地面にバウンドさせると、それを大きく蹴り上げたのだった。
大きく空に舞い上がったボールは離れた場所に建てられていた照明の柱にカーンとぶつかると、そのまま何度も地面を跳ねまわってやがて動きを止めてしまった。
「そしてドロップキックがうまくなれば、どこからでも3点を狙えるからな。突っ込んでくるだけでなく自分から点を取ってしまうフォワードは敵にとって脅威だ」
「キックかあ……」
俺は顎に手を当てて考える。実はキックはそこまで得意ではないのであまり試合でも使わないようにしていたのだが、たしかに使いこなせるかそうでないかでまったく違う。
「プロップはキックをあまり使わないイメージがあるが、だからこそ唯一無二の武器になる。お前はパワーは十分あるだろうから、足の技術を磨いてみろ。また新しいプレースタイルが開けるぞ」
しかし彼の心強い一言は、躊躇していた俺の背中を押してくれた。年齢も2つしか違わないはずなのに、俺の目には彼は幾度も死線を潜り抜けてきた歴戦の猛者のように映った。
「うん、ありがとう!」
新たな指針がひとつ、明確に見えてきた。
今までキックはなるべく避けてきたのだが、世界レベルの強敵を相手にしていく上ではそんな甘えなど通用しない。ここを伸ばしていくことで、俺はさらにひとつ上のレベルに到達できると確信した。
その後、俺は朝のジョギングの途中で必ず公園に立ち寄るようになった。すでに自主トレをしているハミッシュから、キックの極意を教えてもらうためだ。
「楕円球は重心を前に押し出すように蹴り上げるんだ、じゃないと狙ったところには飛ばないぞ」
俺はボールを手から放して地面に落ちる前に蹴り上げる練習をしていた。この蹴り方をパントキックと呼ぶ。
しかし楕円球を狙い通り蹴るというのはなかなかに難しい。落下の途中で傾いたりするので、まっすぐ蹴ったつもりが大きく横に逸れてしまう。
「太一、せっかくだからこれ使ってみろ」
見かねたハミッシュが地面にそっと置いたのは、赤色の用具だった。
「これって、キックティー?」
ボールを地面に置くときに使う台座だ。楕円球はそのままだと地面に置くと横向きになって蹴りにくいので、この台座に乗せることで蹴りやすい縦向きに固定することができる。これを使うのはトライを決めた後のコンバージョンキックなど限られた場面だ。
実はラグビーにおいて、キックの方法は4種類存在する。
ひとつは今俺が練習しているパントキック。コントロールがしやすく陣地を回復するために敵の頭を越えて大きく蹴り上げる時に使用される。
ふたつめはグラバーキック、地面を転がるようボールを蹴る方法だ。相手の裏をかいて地面を転がして守備ラインを切り抜ける場面で活用する。上手い選手は蹴り方を変えることで、規則的にまっすぐ転がしたり不規則に弾むボールを生みだしたりできる玄人向けの職人芸でもある。
そして得点狙いのドロップキック。一旦、地面にボールを落としてから蹴り上げるというもので、パントキックとは地面に落とすか落とさないかという点で別物になっている。一度バウンドさせるのでコントロールは難しいが、ドロップゴールはこの方法でないと得点として認められない。
最後は地面にボールを置いて、助走をつけて蹴り上げるプレースキック。トライ後のコンバージョンキックや、反則時のペナルティゴールで見られるキックだ。ハミッシュの用意してくれたキックティーはここで利用される。
ちなみにトライは5点であるが、その後のコンバージョンキックでは2点、ペナルティゴールでは3点、試合中のドロップゴールは3点が加算されるので、キックの上手い選手ほど得点機会に恵まれるのは言うまでもない。
「キックの感覚を体に覚えさせるんだ、試合では使わなくても重心を蹴るというイメージはこれで身に付く」
ハミッシュの親切さに、俺は感激して「ありがとう!」と笑顔で応える。
だが彼は今一渋い表情のまま、うーんと悩んでいるようだった。なかなかうまくならない俺に業を煮やしているのだろうか……いたたまれない。
「あと、キックのことなら俺よりもスタンドオフやフルバックの方が詳しいからそっちに訊いた方がもっと色々と……そうだ、あいつなら教えてくれるかもな」
何を思いついたのか、ハミッシュはポケットからスマホを取り出す。
「あいつ?」
「ああ、お前にキックのことをレクチャーしてくれそうなヤツに、ひとり心当たりがあるんだよ」
なんと頼もしい。
一見ストイックでとっつきにくい印象だが、実は親切で世話好きなのがこのハミッシュ・マクラーセンという男なのだろう。本当に、感謝してもしきれないよ。
「ただ気をつけろ」
だが突然、彼はスマホを操作していた手を止めた。そしてぐいっと俺に顔を近づけ、忠告するように言った。
「こいつ、ものすごいアホだから」




