第九章その4 さびしい夏
その日の放課後、俺は例の階段まで南さんを呼び出した。
「話って、何?」
傾いた日差しの差し込む階段で、彼女はぎゅっと胸に手を当てていた。
「修学旅行の時に言おうと思っていたんだけど……」
言いかけて、そして躊躇する。果たして今、これを打ち明けても良いものだろうか?
何せまだ2年近くあるし、内諾はもらっているとはいえ確定した事実ではない。その時の都合でひっくり返ることだってあり得るのだ。
でも、それでも。いつかは彼女に伝えなくてはならない。
俺は覚悟を決めた。
「南さん、俺、実は中学2年からニュージーランドにラグビー留学しようかって考えているんだ」
瞬間、すべてが止まった。静まり返った校舎、かっと目を見開いて固まる南さん。
どこか遠くで鳥が鳴いている。その声だけが唯一、この空間で時が流れているのを感じさせた。
「実は関東ラグビー協会の偉い人がこの前の試合を見に来てて、是非行かないかって指名されたんだ。ラグビーがうまくなるためには絶好の話だし、ましてプロを目指すなら一番手っ取り早いと思ってる」
説明を加えるものの、南さんは相変わらず引きつった顔をこちらに向けて立ち尽くしたままだ。
スクールの皆よりも先に、南さんにだけは伝えておきたかったのに。これはもしかして、下手打ったか?
そんな不安さえも抱き始めた頃、ようやく南さんの頬が緩んだ。
「ニュージーランドか……たしかラグビーが一番強い国だよね」
そして彼女は窓辺まで歩いて外に目を向けると、顔をこちらに向けずに「どれくらいの長さ?」と尋ねてきたのだった。
「それはまだわからない。けど長ければ5年、あっちの高校を卒業するまで」
「5年か、長いなぁ……みんなはもうその話、知ってるの?」
「いや、家族とコーチ以外は南さんが初めてだよ。スクールのみんなも、西川君にだってまだ伝えていない」
「そっか」
南さんはうつむくと、しばらく黙り込んでしまった。しかし次に顔を上げた時、彼女は満面の笑みを浮かべていたのだった。
「前にも話したけど、小森君にとって良いことなら私は大歓迎だよ。ニュージーランド留学、私は応援してるから。ありがと、私に最初に教えてくれて。じゃあね!」
そしてまくし立てるように言い残すと彼女は俺と目を合わせることも無く、だっと階段を駆け下りる。
しばらくの間、俺はその場でぼうっと立ち尽くしていた。だがやがて下の階から女の子のすすり泣く声が聞こえてくると、俺は頭を押さえてうずくまってしまった。
週末、練習前のミーティングでコーチはスクールのメンバーを前についに口にした。
「小森が中学2年からニュージーランドに留学することになった」
「ええ!?」
驚く一同。どうせすぐに広まるからと、コーチにはもう話していいよと伝えておいたのだが、まだ誰も留学については話すら聞いていないようだった。
「今は準備のために頑張って英語を勉強している。まだ時間はあるが準備は大変だろう。みんな、小森をちゃんと送り出してやるんだぞ」
ミーティング終了と同時に、メンバーが一斉に俺の周りに集まる。
「マジかよすげえな」
「スーパーラグビー見放題だな、羨ましい」
「え、いつ帰ってくるんだ? なあ、帰ってくるよな?」
そして口々に色んなことを訊いてくる。それは西川君とて同じだった。
「やっぱこういうところだろうなと思ってたよ、小森のことだから」
そう言って西川君は俺の肩に手を置く。だがその手にはやたらと力がこもっていた。
「うん、西川君、なかなか言い出せなくてごめん」
「いいってことよ。だいたい先に俺の方が抜けちまうんだから、文句言う筋合いなんかねえよ。いつか約束しただろ、俺がバックスで世界のトップに立って、お前がフォワードで世界のトップに立つ。そのためにお前はひとつ近付いたんだよ、むしろ俺の方が遅れてるくらいだ。こりゃうかうかしてらんねえ、さあみんな練習始めるぞ!」
猛勉強の成果か、英検4級は余裕で合格することができ、次に俺は3級合格を目指して勉強により一層熱を入れることにした。
準2級以上を受けるにはまず3級に受からなくてはならない。ここから先は一歩一歩、階段を上っていかなくてはならないのだ。
そして訪れた夏休み、金沢ラグビースクールは今年も菅平へと合宿に向かった。
「小森、お前ずっと本読んでて酔わねえか?」
「うん平気」
バスの中でも、俺はずっと英語のテキストを読んでいた。耳にはイヤホンをはめて英語の会話例を聞き流している。
英語はとにかくどれだけ勉強したかがモノを言う。そう言う点では練習量が強さに、強さが結果に直結するラグビーと同じだな。
そんな努力の甲斐あってか、最近は簡単な読み物なら辞書が無くとも読破できるくらいには英語力が身についた。いつかは就職したての頃に一時期ハマってたスティーブン・キングを原文で読んでみたいものだ。
そして俺たちはいつもの合宿所に到着した。ここも4回目になるとすっかり見慣れたものだ。
「久しぶり、みんな元気だった?」
経営者のおばちゃんが出迎えると、メンバーが「お久しぶりです」「またお世話になります」と元気に挨拶してバスを降りる。
「あらあんた、前よりもっと大きくなって!」
俺がバスを降りた時、おばちゃんは感激してくれた。どうやらおかわりキングの俺の雄姿を覚えていてくれたようだ。
荷物を抱えてバスを降りた一行は、合宿所のロビーに移動する。そこで部屋の割り振りを聞かされると、最後にコーチが言い放つ。
「部屋に荷物片付けたらすぐに玄関に集合だ! 明日早速練習試合だから、気合い入れて練習するぞ!」
今年もいよいよ、地獄の菅平特訓が始まってしまった。
「ふう、しんどかった」
「布団、気持ちいい。僕もう寝る」
その夜、夕食を終えたスクールのメンバーは部屋に戻ると、敷かれた布団の上に次々と倒れ込んだ。
昼間の練習でボロ雑巾になるまで絞り取られた面々に、修学旅行の夜のように遊ぼうと言い出す気力はかけらほども残されていなかった。
それでも俺は布団に寝転がって原文で書かれた『エルマーのぼうけん』の本を開いていた。寝る前の読書の習慣は歯磨きと同じで、すっかり身についてしまった。
ちなみにこの『エルマーのぼうけん』、有名な児童書ではあるが原文だと結構読み応えがある。一文一文が案外長いので、どこに修飾語がかかっているのか常に考えなくてはならない。これをすらすらと読めるレベルになれば、俺にも相当英語力が備わったと自慢できるだろうな。
熱心に英語の文面を目で追いかけていたときのことだった。
「なあ小森」
突然横から近付いてきた西川君が、持っていた本をばっと取り上げたのだ。
「お前、最近南と連絡とってるか?」
「取ってるよ、ちゃんと」
せっかくいいところだったのに、俺は返せとばかりに西川君に手を伸ばす。
だが痛いところを突いてくるのはさすが西川君か。あの日留学のことを打ち明けてから、俺はなんだか南さんから避けられている気がしてならなかった。
いや、日常の会話はちゃんと受け答えしてくれるし、メッセージを送ってもきちんと返事してくれる。だがなんとなく、彼女は俺の前ではずっと笑ってばかりでまるで本心に蓋をしているように思えて仕方が無かったのだ。以前は喜怒哀楽遠慮なくさらけ出していたのに。
西川君ははあとため息を吐くと、首を振りながら言った。
「連絡取ってるからいいってもんじゃねえだろ。伊藤も言ってたぞ、南はお前がいなくなるのが寂しいけど、お前を悲しませないで送り出そうとしているんだって」
聞きながら俺はじろっと彼を睨み返す。そこで西川君はぷっと吹き出してしまった。
「と、そんなのは言われなくてもわかってるだろうな。本当、伊藤もお節介焼きだよ。でもな小森、南のことはちゃんと気遣ってやれよ。寂しいのとお前に頑張ってもらいたいのとごちゃごちゃになってるだろうからな。こういうの、たしかジレンマって言うんだっけ?」
そう言うと西川君は手にした本を俺の枕元に置いた。そして部屋の隅の照明のスイッチにてをかけると、部屋にいた全員に聞こえる声で高らかに話し始めたのだった。
「みんなそろそろ寝ろ。明日の相手は伏見桃山、全国大会3位の超強豪だからな」




