第五十二章その5 俺たちのスクラム
後半、日本はニュージーランド相手に果敢に攻め込み続けていた。
ボールを持てばとにかく走り、タックルを受ければ仲間へとつなぐ。そして受け取った仲間はすぐに走り出し、ひたすらオールブラックスの守りを掻い潜ることに注力していた。
だが相手もハミッシュの作ったリードを何としても守りたいのは同じ。人間離れした怪力を発揮し、死に物狂いで日本選手の突進を食い止め続けていた。逆にこちらからボールを奪って一気に日本陣内まで攻め入ってしまうこともあったが、そこは西川君らバックス陣の活躍でなんとかゴールを割らせずに守り抜く。
試合は再び反則のほとんど起こらない、身体のぶつけ合いが展開され続けていた。当然スコアも0-3のまま動かず、ただただ時間だけが過ぎ去る。
そして75分。これまで死力を尽くして魂を燃やしてきた両軍は、すでに全員が立っているのもやっとというほどへとへとに疲れ果てていた。それはかのハミッシュとて例外ではなく、両手で膝をつかみ肩で息を吸うその姿は、頬がげっそりとが痩せこけているようにも見えた。
だがこの時、日本は22メートルラインの内側まで攻め込まれるピンチを迎えていた。俺たちは守備ラインを展開し、必死に相手の攻撃を防ぎ続ける。
もうどれだけのフェーズを重ねたのだろう、ボールを受け取ったニカウが身を低く落とし、日本の防衛線を打ち破るべく真っ向から身体をぶつけてくる。体重145kg超の猛突進だ。
「通さん!」
その大相撲の力士と遜色ない一撃を、俺は自身の身体をぶつけて食い止めた。それでもなおじりじりと後退させられるものの、すかさず横からクリストファー・モリスも加わり、追加のタックルをお見舞いする。
「う!」
今のは良いところに入ったようだ。ニカウは一瞬苦しそうな声をあげると、その手からポロリとボールを転がり落としてしまった。
「ノックオン!」
「よくやったぞ小森、クリストファー!」
レフェリーが試合を止めるなり、進太郎さんがガッツポーズで駆け寄る。この危機の最中、スクラムを奪うことができたのは大きなチャンスだろう。
だが時間はもう残されていない。日本のフォワード陣はすぐさま集まり、組み合う準備を終える。対するニュージーランドは追われる身という焦りからか、少し気が立っているように見て取れた。
「クラウチ、バインド……」
がっしりと互いのシャツをつかみ、俺は右プロップであるニカウの頭と自分の頭をこすり合わせる。
「セット!」
そして合図とともに、8人と8人が全身の力を前に押し出してぶつかり合ったのだった。
フロントローなら負けてはいないが、それ以外の選手も含めれば体重はニュージーランドの方が有利。当然俺たちはその圧力に耐えながら、自分たちのボールを確保せねばならない。
やがて俺の目の前で、和久田君がそっとボールを転がし入れる。オールブラックスはそのタイミングに合わせて、今まで隠していた力をぐっと発揮してより一層強く俺たちを押してきたのだ。
だが相手がそう来ることは最初から分かっていた。俺たちは彼らが力を込めるとほぼ同時に、持てるすべての力を振り絞って押し返したのだ。
その時、ボールを奪おうと下半身の力加減を変えていたせいか、相手フッカーの足元がぐらつく。そして一瞬の後、バランスを崩した相手フッカーは前のめりに倒れ、スクラム全体を崩してしまったのだった。
「コラプシング!」
ホイッスルが吹かれるとともに、10万7000の会場が大いに沸き立った。
「いっしゃああああ!」
「みんな、すげぇよ!」
俺たちは言葉にならない言葉を挙げて、互いに抱擁を交わす。なんとこの大一番で、相手の反則を奪ったぞ!
「急げ、もう時間ないぞ!」
だが興奮で吼えることしかできないフォワードとは違って、バックス陣は冷静だった。キッカー坂本さんが駆け付けてフォワードを叱りつけたので、俺たちは「お、そうだった」とまだ試合が終わっていないことを思い出す。
その後のペナルティキックを坂本さんはタッチラインの外まできれいに蹴り出し、俺たちは一気に自陣を回復させる。センターラインを越えた位置からのラインアウトだ。
「いくで!」
二列に分かれる両軍の間で、石井君は緊張した面持ちでボールを掲げる。
実は先ほど、日本はラインアウトで一度ボールを奪われている。なんとか失点は防いだものの、ケチがついてしまったプレーにみんな慎重になるのは当然だ。
石井君は丁寧にボールを放り込む。空中高くに放り舞い上がったそれを、俺と矢野君ふたりがかりで支え上げられた中尾さんはしっかりと確保した。
「任せたぞ!」
すかさず中尾さんは、後方で走り出していたスクラムハーフ和久田君にパスを回す。そこから放り出された和久田君お得意の高速パスはあっという間にウイングまでつながり、日本はたちまち敵陣まで攻め込んだのだった。
ボールを持って疾走するはウイングの馬原さん。あと少しでトライ……というところで相手フルバックに止められはしたものの、日本はゴールライン手前までボールを持ち込むことができた。
そこからもボールをキープし続けた俺たちは、とにかく相手に体当たりをかまし、ただただゴールを越えることだけを目的にプレーを続けていた。フォワードだけではない。バックスもいっしょになって突っ込んでいく。フルバックからは西川君も上がり、攻撃に参加していた。
もうすぐ80分が経過する。確実に仲間につなげるため、パスやキックは使わない。それは相手もわかっているようで、すべての戦力を守備に回していた。
そして西川君がボールを持ち、相手選手に突っ込んでいったときのことだ。大柄な相手が西川君の身体をつかみ、そこに進太郎さんが駆け付けて西川君の援護に入ったことでモールが形成される。
だがそこに別のニュージーランド選手が慌てて飛び込み、真横の位置から進太郎さんに身体をぶつけてしまったのだ。
「オフサイド!」
すぐにレフェリーが試合を止める。途端、会場にはハミッシュのドロップゴールを超えて、この日一番の大歓声が巻き起こったのだった。
なんとまたしても、日本が反則を奪ったのだ!
「いよっし!」
自らも拍手して喜ぶ日本代表。それとは対照的に、オールブラックスの面々はまさかこの場面でと渋い顔を浮かべていた。
「西川、でかしたぞ」
「進太郎さんのおかげです」
モールから解き放たれたふたりが互いに拳を突き合わせる。
一方で俺はうーんと顎に手を当てて考え込んでいた。最後の場面、どう攻めるべきか。
「小森君、どうする?」
「ラインアウト、いくか?」
和久田君と中尾さんが声をかける。たしかにここでトライを狙うなら、ラインアウトが定石だろう。
だが今日は相手ロックのローレンス・リドリーが絶好調だ。さっきは幸運にもうまくいったとはいえ、この試合全体でラインアウトの成功率を考えると避けた方が良い。
「いっそのこと、ペナルティゴールで延長戦狙おうか?」
坂本さんも提案する。彼のキックスキルならば、ここで3-3の同点に持ち込むのは余裕だろう。
だが今の俺たちも相手も、すでに度重なる身体のぶつけ合いで消耗し切っている。もう5分とて戦い続ける体力は残されていない以上、今この場で決着をつけるしかない。
正真正銘のラストプレーだ。最も皆を昂らせて勝利を手にする選択を、キャプテンは決断せねばならない。
「みんな、ありがとう。でも、ここは俺の提案に乗ってほしい」
俺を取り囲む14人。その一人一人の顔を見つめ返すと、俺は口を開いた。
「スクラム、いこう!」
その瞬間、80分経過を告げるホーンが会場に鳴り響く。相手ゴール5メートル手前でスクラムトライを狙う。それこそが今の俺たちにできる、最良の勝ち方だった。
一見無謀に思えるかもしれないが、決して勝算が無いわけではない。先ほどのスクラムで、日本は相手から反則を奪えている。つまりスクラムで押し勝てるほどまで、相手は弱ってきているということだ。
そして試合終了間際でオールブラックスもかなり疲労がたまっているようだが、俺たちにはまだ一応は全力をスクラムを組めるだけの自信はあった。何せ世界中どのチームよりも過酷と評される、地獄の網走合宿を乗り越えてきたメンバーたちだ。そのタフさは並大抵のものではない。
そう思ったんだけど……どうかな?
ちょっとカッコつけて言ってみたものの……みんなはどう思ってくれただろう?
今さらになってそんな不安が沸き上がり始める。だが一瞬の間の後、日本代表選手たちは「いいぞ、その心意気だ!」とどっと沸き立ったのだ。
「言うと思ってたよ!」
「やっぱ小森はこうでなくっちゃな!」
そして俺の身体をバシバシと叩き、すぐさまフォワードたちはスクラムの隊列を作り始めた。
「すぐ対応できるように俺たちは散らばっておく。絶対にトライ、奪いに行こうな!」
西川君はそう言って俺に拳と突き出す。俺は「任せな!」とその拳を突き返してスクラムの中に加わった。
対するオールブラックスは全員が信じられないと言いたげに目を丸めている。ただひとり、最後尾で不敵な笑みを浮かべるハミッシュを除いて。
そして白線の手前すぐの位置で、フォワード8人とフォワード8人の密集が頭をすり合わせる。その脇には楕円球を抱え、スクラムハーフ和久田君が腰を低く落として立っていた。
「クラウチ」
レフェリーの声に、選手たちは全身の神経を尖らせる。
「バインド……」
そして互いに相手の身体をつかみ、フォワード全員が息を止めた。
「セット!」
途端、16人の持てる力が一瞬にして解放される。
「押し込めー!」
「いいぞいいぞ!」
なんという強烈なプレッシャー。ニュージーランドもこのスクラムで負けまいと、ボール投入前から先ほど以上のパワーで押し返してきていた。
だが日本の8人はここで勝負をつけるべく、歯がすり減ってもかまわないほどに足先から骨髄の中まで、全身の筋肉をフルに使って前へ前へと力を押し込み続ける。
なんとか俺たちが耐えているところで、ようやく和久田君がボールを転がし入れる。既に相手は全力を使い果たしているのか、フッカー石井君がボールを足で受け止めた時でもこれ以上強く押し込んでくることは無かった。
よし、それならば今こそ反撃の時だ!
「みんなー、もっと踏ん張れー!」
全身にすさまじい圧力がかかる中、俺はなんとか声を絞り出して皆に呼びかけた。相手は先に仕掛けてきたおかげで、俺たち以上にへばっている。トライを決めるなら、今しかない!
そんな俺の声が届いたのか、俺が一歩前に足を進めると、つられて全員が足を前に出した。そのパワーに相手は怯まされたのか、ニュージーランドの8人全員が一歩後退する。
「あと少し、あと少しだ!」
「いいぞ日本、このまま前に進め!」
湧き起こる大歓声に混じり、観客が俺たちに声をかけている。その声に力をもらい、俺たちはさらに一歩、二歩と前に進んだ。
「行ける、このまま行ける!」
耳元で和久田君が呼びかける。聞きなれた仲間の声はさらに勇気を与えてくれたようで、フォワード8人はより一層強く相手を押し込んだ。強固なニュージーランドの壁が、さらに一歩後ろに下がる。
「ジャパン! ジャパン! ジャパン!」
いつの間にか数万人の観客が、声をそろえてジャパンの名をコールしている。彼らは皆、俺たちの奇跡のトライを待ち望んでいるのだ。
そうだ、今ここでスクラムを組んでいるのは、何もフォワード8人だけではない。今、相手を押し返す俺のこの右肩には、1987年のワールドカップ初出場から歴代の日本代表全員、そして俺たちの勝利を祈るすべての人々の想いがかかっているのだ!
「うおおおおおおおおお!」
地鳴りのような雄叫びとともに、俺は自らの上半身で相手を押し返した。組み合っていたニカウがのけぞるような形になり、オールブラックス全体が大きく後退する。
今だ!
相手の力が緩んだところで俺がさらに足を進めると、石井君も矢野君も同じく身体を前に押し込む。そのフロントローを後ろから押し込むのは中尾さんとサイモンのロックコンビ、さらに後ろをフランカーとナンバーエイトが支え、日本フォワード陣はひとつの巨大なブルドーザーのようになっていた。
俺たちの圧力に耐えきれず、ついにオールブラックス選手たちが立ち上がった。一度重心の上がってしまった相手を押し込むことなど、もう恐れるに足りない!
「押し込めぇえええ!」
全員が全員、チームを、そして自らを鼓舞するような声をあげる。そこから後は早かった。勢いのままに相手を押し退けたフロントローがついに白線を突破し、ナンバーエイトのクリストファーがキープしていたボールを拾い上げる。そして自らの身体を投げ飛ばすようにして前に突き出すと、ゴールラインを越えたすれすれの位置にボールを叩きつけたのだった。
同時に鳴り渡ったのは、トライ成功を報せるホイッスル。
そう、俺たちのスクラムは、ついにオールブラックスを打ち破ったのだった!




