第五十二章その4 最終決戦
幼い頃から夢に見続けながら、どうせ夢でしかやってこないと思っていたことは誰にだってある。
だが今は違う。俺だけではない、ラグビーに携わるすべての人間が切望し続けてきた栄光の瞬間が、ついに手の届く位置まで近づいているのだ。
超満員のミシガン・スタジアムには、10万7000人のラグビーファンが世界中から集まっていた。彼らは大地を揺らさんばかりの大喝采をあげ、ファンファーレとともに現れる俺たちを歓迎する。
ラグビーワールドカップ2039アメリカ大会決勝戦、対戦カードはニュージーランド、そして日本。
2列に分かれてコートに入場するニュージーランド代表オールブラックスと日本代表ブレイブブロッサムズ。両者の間にはワールドカップのロゴが描かれた台座が設けられ、その上には金色に輝く優勝杯ウェブ・エリス・カップが鎮座されていた。
「実物、初めて見ました……」
俺の後ろに続いて入場していた矢野君がぼそっと呟く。
素材は金メッキの銀製だそうだが、俺たちラグビー選手にとっては単なる高価な貴金属以上の価値がこのトロフィーにはある。このカップは大会を制した国が次のワールドカップまでの4年間、手元に置いて保管し続けねばならない。いわば世界の頂点に立つ者だけが手にすることを許される勝利の証である。
俺たち日本はこのカップを手にする6か国目のチームになるんだ。太陽の光を反射して輝く優勝杯を目にすると、不安な気持ちなどすべて消え去り、決意を新たにしてしまう。
両国が国歌斉唱を終え、互いにひとりひとりと握手を交わす。
「決勝で太一と戦えるなんて、僕嬉しいよぉ」
ニカウが俺の手を両手で包み込む。
「俺もだよ、決勝の相手がニカウで本当に嬉しいよ」
「小森」
そんなニカウの後ろで手を伸ばして待っていたのは、205cmの長身ロックことローレンス・リドリーだった。
「まさか後輩のお前らと敵同士、こんな長い付き合いになるなんてな」
「そっくりそのまま返すよ。さっさと後輩に道を譲って、ローレンスはもう中尾さんとアニメでも見ててよ」
「そりゃだめだ、ラグビーも萌えもどっちも譲らん」
そう冗談を言い合う一方で、俺とローレンスは互いに抱き合ってこの決勝戦で戦える喜びを爆発させようという今にも衝動をぐっとこらえていた。
「正々堂々、全力でぶつかってこい。俺たちも真正面からぶつかってやる」
ウイングのエリオット・パルマーも俺にこちらに向ける。
「言われなくたってやってやるよ」
俺はその手を強く握り返し、ふたりでにやっと不敵な笑みを交わした。
「太一、お前ならここまで来ると思っていたぞ」
そしてキャプテンにしてナンバーエイトのハミッシュ・マクラーセン。彼は一瞬の間の後、俺にすっと手を差し出した。
「約束だからね、ここでオールブラックスを倒すまでが」
「ははは、やれるもんならやってみやがれ。この試合……いや、勝負が最高の戦いになることを期待している」
全員と握手を交わした後、両チームは互いのサイドに分かれる。普段ならここでキックオフだが、今日は相手がオールブラックスだ、日本代表がコートの上に横一列に並んでいる間に、相手は古代の歩兵のような三角の陣を形作る。
集団からニカウが前に出る。そして握手の際のにこやかな笑顔は完全に消え失せ、百戦錬磨の戦士のような形相とともに雄叫びをあげたのだった。
「Ho ri te!」
俺たちは互いに強く肩を組み、相手をじっと睨み返す。
オールブラックスの代名詞、ハカ。これはその中でも特別な試合でのみ演じられる「カパオパンゴ」だ。
「Ka tu te ihiihi,Ka tu te wanawana,Ki runga ki te rangi e tu iho nei, tu iho nei, hi」
さすが決勝戦、オールブラックスの23名は今まで一度も見せたことの無い凄まじい気迫で腕を鳴らし、地面を殴りつける。これほどまでに戦意をみなぎらせた彼らを前にすれば、たとえ飢えたライオンや激昂したトラであってもすごすごと退散してしまうだろう。
「ビビってんのか?」
俺の隣で、西川君が声をかける。たしかに普段の俺ならば、ひええと言って怖気づいてしまっていただろう。
だが今日は違った。俺は「いいや」と首を小さく横に振ると、ニヤッと笑った。
「逆だよ。むしろどうやって倒してやろうかってわくわくしている」
そしてついに決勝戦が始まった。大歓声の中キックオフを務めたのは、日本代表スタンドオフ坂本パトリック翔平さんだ。
坂本さんが高く蹴り上げたボールは、ローレンス・リドリーによってキャッチされる。だがすでに駆け込んでいた切り込み隊長ことフランカー進太郎さんのタックルで押し倒され、両軍の選手によりラックが形成される。ニュージーランドは仲間にボールをつないで突破を図るものの、身体を張った日本フォワード陣によって進軍を阻まれていた。
そこから続いたのは、実に反則らしい反則の滅多に起こらない驚くほどクリーンな試合だった。
このような試合では、ひとつの反則が命とりになることは誰しもが理解している。だからこそタックルひとつも素早く、かつ丁寧に決め、倒された仲間がノットリリースザボールを取られないようすぐにメンバーが駆け付けてサポートする。
せいぜいノックオンでスクラムが行われる程度だが、それですら普段の試合に比べれば格段に少ない。そしてスクラムでも互いにマイボールを守り抜かんと相手のプレッシャーに耐えきってしまうのだ。
反則が起こらないのでペナルティキックも非常に少なく、ペナルティゴールどころかラインアウトでさえも滅多に見られない。そして両軍とも規律に従って素早く守備陣を展開するので、隙を見つけて突っ込んできた相手にも対応してボールを奪い返していた。
前半終了時点で得点は互いにゼロ。ラグビーの試合では非常に珍しいことに、スコアボードには0-0が表示されていた。決勝戦でなければ、せっかちな観客なら帰ってしまっていたかもしれない。
「ふう、あいつら全然通してくれやしねぇ」
ロッカールームで秦亮二が身体をタオルで拭きながら吐き捨てる。彼自身何度も敵陣までボールを運びながらトライを奪えきれないでいるので、相当なフラストレーションを募らせているのだろう。
「ホンマやで、あんまりにも試合が動かん過ぎて精神的に良ぅないわ」
石井君がドリンクボトルから口を離して辟易したように言う。同点の緊張が40分間ずっと続くというのは思った以上にきつい。追うか追われるか、どちらかに立った方が精神面では楽とも言える。
思えばオールブラックス相手に同点で食らいついているというとんでもない状況であるにも関わらず、ロッカールームにはなんとも居心地の悪い空気が漂っていた。
「俺たちが今これだけしんどいなら、相手もきっとそう思ってるはずだよ」
ドリンクを飲み終えた直後、ベンチに腰かけていた俺は口を開く。やや気分が沈みがちだった仲間たちはふと顔を上げ、視線をこちらに向ける。
「一瞬でも気を抜いたらすぐ攻め込まれるけど、それはニュージーランドも同じだ。俺たちも粘って守り続ければ、いつか相手も隙を見せる。その時こそトライをもぎ取る最大のチャンスだ!」
「それもそうだな」
いち早く立ち直ったのは、真っ先に不満を漏らしていた秦亮二だった。
「何で気付かなかったんだろ。あのオールブラックスに1点も入れさせてねぇんだぞ。あいつらにとったら赤っ恥もいいとこじゃねえか」
「そうだぞ弟よ、俺たちは勝てる!」
進太郎さんものっかる。彼の明るい声が皆に活気を与えたのか、他のメンバーたちも「俺たちは勝てる!」と声をそろえ、ロッカールームはたちまち賑わいを見せたのだった。
「っしゃあ、後半もこのままいくぞ!」
そして0-0のまま後半が始まった。今度はニュージーランドのキックからスタートだ。
相手キッカーの蹴り上げたボールは高く、滞空時間の長い理想的なものだった。
空高くに打ち上ったボールを確保するため、俺は落下地点に移動すると203cmのサイモン・ローゼベルトの身体を高く持ち上げる。これで相手が走り込んできても、まずボールを奪われることは無い。
だがその瞬間、サイモンの身体越しに俺の目に映ったのは、相手陣内から猛スピードで駆け上がってくるふたりの大柄な選手の姿だった。
「え!?」
まるで猛牛のようにまっすぐこちらに走ってくるのはニュージーランド右プロップのニカウとロックのローレンス・リドリーだ。
彼らはその体格に見合わぬ驚異的なスプリントで日本陣内まで駆け込むと、ちらりと一瞬空を見上げる。そして俺とサイモンのすぐ目の前で立ち止まると、なんとニカウが素早くローレンスの腰をつかみ、そのままぐっと持ち上げてしまったのだった。
俺もサイモンもニカウとローレンスよりは身体が小さい。ふたりのロックが空に腕を突き出した時、高くまで伸び上がったのはローレンスの方だった!
「もらったぁ!」
競り合いを制したのはニュージーランドだった。不安定な体勢ながらローレンスはにやりと不敵に微笑みながら地面にするすると降り立つ。
「ナイス!」
そこに駆け付けてきたのは相手ウイングのエリオットだった。彼はローレンスが地面に足を着ける前に放り投げたパスを受け取ると、その俊足をフルに発揮してまだ戦列の整っていない日本陣内に飛び込んだ。
進太郎さんと亮二の秦兄弟が止めに入る。が、彼らの身体が触れる寸前、エリオットは斜め後ろ方向に「頼んだ!」とパスを送って難を逃れたのだった。
そのエリオットからのパスを受け取ったのは、機関車のごとく力強く走るハミッシュだ。彼はバックスでも十分通用するほどの走力で秦兄弟の壁を突破すると、その直後に横から走り込んできたクリストファー・モリスのタックルを片腕一本でいなしてさらに前へと進み続けたのだった。
なおも走り続け、ついに22メートルラインを突破するハミッシュ。
「ここは通さねぇ!」
だが彼の行く手には西川君や馬原さんなど、3名のバックスがゴールを守っている。体格では勝るとはいえスピード自慢の3人が相手では、さすがのハミッシュでもこの防壁を単身で突破できる可能性は極めて低い。
むしろここは日本がボールを奪い返すチャンス。前線に出ていた俺たちはくるりと向きを変え、ハミッシュの背中を追った。
だがその時だった。西川君めがけてまっすぐ走り続けていたハミッシュは突然、なんと手にしていたボールを足元に転がしてしまったのだ。
「あっ!」
会場にいた誰もが声をあげる。そして一瞬の後、地面をバウンドしたボールにハミッシュの右足が蹴り込まれたのだった。
激しく回転しながら、宙に舞い上がる楕円球。ボールは日本ゴール内のH字型のゴールポストにまっすぐ吸い込まれ、そして無情にも2本の柱のど真ん中を通過してしまったのだった。誰が見ても疑いようのない、ドロップゴール成功だった。
「ナイスキック!」
「ハミッシュ最高!」
やや退屈気味だった観客のボルテージが、一瞬にして最高潮にまで達する。だが得点を決めた当の本人は、涼しげな顔で大観衆に手を振って応えていた。後半開始早々、試合の均衡を崩したのはニュージーランドが世界に誇るスーパースターの一蹴りだった。
「くそ、してやられた!」
ゴールの前で西川君が地面を殴りつける。俺も「あちゃー」と頭を手で押さえながら、血の気の引いた仲間たちの顔をひとりひとり覗き込むことしかできなかった。
この後半開始1分という短い時間で、俺たちはオールブラックスの底力と、ハミッシュ・マクラーセンという男が世界のスーパースターと呼ばれる理由を、嫌というほど思い知らされていた。
トライが困難と見るやすぐさまドロップゴールに切り替え、そして成功させてしまう優れた判断力と技術、そして度胸。すべてが一級品、これこそまさにハミッシュがハミッシュたる所以。
これから40分の間に、俺たちはこの地上最強の男たちに逆転して勝利をつかみ取らねばならない。




