第五十二章その3 今だから言えること
「誰がこんな展開を予想していたでしょうか。ラグビーワールドカップ決勝戦、絶対王者ニュージーランドに挑むのは、プールBを2位から勝ち上がってきた日本。予選プールで首位を取れなかったチームが決勝戦まで上がってきたのは、2019年大会以来20年ぶりの出来事です!」
翌朝、テレビのニュースでスポーツコーナーを担当するアナウンサーはエキサイティングした様子を一切隠すことなく、早口でまくし立てていた。
「ニュージーランドは皆さんもご存知の通り、史上初のワールドカップ3連覇を狙うラグビー王国。そのオールブラックスの偉業に待ったをかけるのは、今回が決勝初挑戦の日本。その日本も決勝トーナメントでフランス、イングランド、南アフリカと世界の名だたる強豪国を次々と打ち破っており、勢いは止まるところを知りません」
「なんだかすっげー大げさに言われてる」
ホテルのロビーに設置された大型テレビを眺めていると、嬉しさと同時に気恥ずかしさも覚える。
「いいじゃんいいじゃん、思う存分おだてられておこうぜ。俺たちそれだけのことしてるんだし」
朝っぱから甘ーいチョコレートをバリバリとかじりながら、西川君はけらけらと笑って言った。この人は強心臓というよりも、ただの超ド級のマイペースなだけじゃないかと思えてくる今日この頃だ。
「あ、またひとつすごいニュースきた」
そんな西川君の隣でタブレット端末をいじっていた和久田君が、あっと声をあげる。
「決勝戦見るために、総理大臣が急遽アメリカまで飛んで来るんだってさ」
「え、マジで?」
まさかまさかと近付く俺に、和久田君は「ほらここ」と画面を見せつけた。
映し出されていたのは日本の新聞社のニュースサイトだ。たしかに見出しには『首相、ラグビーW杯決勝戦は現地で観戦』とでかでかと書かれている。
「一大事だからね。ニュージーランドの首相もアメリカまで来るらしいよ」
「そういえば決勝戦にはアメリカ大統領も見に来るんだったっけな。すげえな、3国のトップがラグビーのために集まるのか」
さすがの西川君も驚きを隠し切れないようだ。これぞまさにスポーツ外交、即席で首脳会談開けるな。
その後、準備の整った俺たちはバスに乗り込み、オハイオ州に隣接するミシガン州アナーバーへと移動する。お隣の州と言っても5時間以上の長旅だ、やはり国土の広いアメリカは日本とはスケールが違う。
だがこれほど辟易させられる長距離移動もこれが最後だと思うと、妙な寂しさも感じられるものだ。俺たちはバスの車窓から広大な農地を眺めて、この大陸ならではの風景を目に焼き付けるのだった。
やがてアナーバー市に到着した日本代表は、ホテルに荷物を下ろす前にミシガン・スタジアムへと立ち寄った。
決勝戦の舞台でもあるこのスタジアムの観客席数はなんと10万7000。アナーバー市の人口が12万足らずであるから、ほぼそれと同数がすっぽり収まる規模になる。普段、ここはミシガン大学のアメリカンフットボールの試合で使われており、アメリカ全土でも最大級の競技場として知られている。
「なんて……でかさだ」
コートの中心に立った俺は、ぽかーんと口を開いたままぐるりと身体を一回りさせた。平地に観客席のスタンドを建造するのではなく、土地を掘り下げて真ん中にフィールドを作ったという構造上、まるで窪地に立って四方八方上から覗かれているような気分になる。こんな不思議な感覚は初めてだ。
「人工とは思えないくらい、とても良い芝だ。こりゃあどれだけ走っても疲れないね」
誰よりも走りまわるスクラムハーフというポジション柄か、和久田君は強く踏んだり靴の裏をこすらせたりして芝の感触を確かめる。
全米だけでなく世界が注目するこの地でラグビーがプレーされるということが、ラグビーという競技の歴史においてどれほどの意味を持つのか。決勝戦が行われるその時、ラグビーは真の意味でグローバルなスポーツになると言ってもよいだろう。
ちなみに決勝戦のチケットは10万円以上の値が付いているプレミアシートから、選手が蟻のようにしか見えない端っこの座席まで、すべて完売しているという。つまりこの見渡す限りの観客席も、当日すべてが人で埋め尽くされるのは決まったも同然ということだ。
「横浜からみんなも来るってさ。ハルキもお店臨時休業にして、おじさんと常連さん引き連れて応援に来るみたいだよ」
「そうかー、ハルキも来るのかー」
その日の夜遅くのこと。移動の疲れで皆が早めに自室に戻る中、俺はひとちホテルのバーのカウンターに腰かけながら、スマホで亜希奈さんと会話を交わしていた。
ワールドカップ期間中は家族といえど直接顔を合わせることはできないが、電話は制限されていない。俺は彼女と頻繫に通話しており、特に試合の前日と終わった夜には、絶対にこちらから電話をかけるようにしていた。連戦と移動とでとにかくしんどい2か月間だが、ここまで耐えてこられたのは大切な家族の声をこうやって聞いていられたからかもしれない。
「ハルキのお店も試合になるといつも満員で、立ちながらラーメン食べてる人もいたみたいだよ。それでもやっぱり決勝戦だけはアメリカで応援してやるんだって、なんとかチケット手に入れたみたい」
日本が現在ラグビー一色に染まりつつあることは、このアメリカにいてもありありと伝わっていた。ニュースで見た限りでは、日本国内各地にパブリックビューイングが設けられ、大都市だろうと田舎の地方都市だろうとどこでも人でごった返しているそうだ。ティア1の試合ともなれば渋谷のスクランブル交差点には大勢の熱狂的なファンが集まり、ハロウィンか年越しカウントダウンかと見まごうほどの賑わいに包まれるという。
だがそんなお祭りも、あともう数日で終わる。最高潮の盛り上がりを迎えながら、一抹の侘しさも同時に孕んでいるのが大会の最終盤というものだ。
「金沢スクールのみんなもクラスのみんなもアメリカまで来るってさ。みんな、太一が世界のてっぺんに立つところを見に来るんだよ」
「そうか、みんな……」
楽しそうに話す亜希奈さんとは対照的に、俺はなかなか言葉が続かない。どういうわけだろう、決して苦しいわけではないのに、さっきから胸がぎゅっと締め付けられるような、それでいて快い感覚が全身を駆け巡っているおかげでむずむずと落ち着かないのだ。
「どうしたの?」
俺がいつもとは様子が違うことを電話口だけで感じ取ったのか、亜希奈さんが心配そうに尋ねる。
「いや、何でもないよ。ただ……ホント今更なんだけどさ、俺、みんながいてくれたからラグビー続けられたんだって、改めて思ってるんだよ」
「みんな?」
「うん、みんな。両親も友達も、金沢スクールのみんなもオークランドのみんなもクラブのみんなも。そして亜希奈さんに亮太郎も」
つい先ほどの歯切れの悪かった自分とは打って変わって口に表したい感情が次々と浮かび、思いつくがままに饒舌に話し出す。
「俺がラグビーのプロを目指したのもみんなが俺を応援してくれたからだし、日本代表を選んだのもみんなとラグビーしたいと思ったからなんだ。誰かがいないと俺自身だけじゃここまで頑張ってこられなかっただろうなって、そうなると日本代表として決勝戦まで勝ち上がることも無かっただろうなって。だからさ……」
俺はここで一呼吸置く。電話の向こうの亜希奈さんは何も言わず、次の言葉を待っていた。
「今だから言えるよ。ずっと俺といっしょにいてくれて、本当にありがとう。そしてこれからも、ずっとずっとよろしくね」
そう言い終えた途端、全身を駆けまわっていた妙な気分がすっと抜けていく。ずっと募らせていたこの想いを伝えられて、本当に良かった。心底そう思える瞬間だった。
「はい、こちらこそ」
そんな俺の想いに応えるように、亜希奈さんは畏まったような丁寧な声でゆっくりと返す。
まるで結納の時みたいだな。そんなことを思った途端、なんだかこっぱずかしい気分がぶわっと湧き上がり、誰かに見られなかったかときょろきょろと周囲を見回してしまった。
その後もいくつか話題をはさみ、そろそろ通話を切ろうかという雰囲気が漂い始めた時のことだ。
「あ、そうそう。言い忘れてたんだけど」
亜希奈さんが思い出したように言うので、俺は「うん?」と訊き返す。
「『先生』も決勝戦見に来るんだって。仕事忙しいから、当日の朝ベルリンからプライベートジェットで」
「あの人、今何やってんの!?」
俺が前の人生からは想像もつかないことを成し遂げたように、幼馴染イチの秀才である彼もまた、とんでもないことを成し遂げているようだ。




