第五十二章その1 ベスト4の関門
10万の座席がほぼ満員御礼状態のオハイオ・スタジアムに、日本代表ブレイブブロッサムズと南アフリカ代表スプリングボクスのスコッド23名が入場する。
スタジアムには南アフリカからも大勢のファンが駆け付け、試合の始まる前からあちこちで応援歌が聞こえていた。国家、そして民族融和の象徴たるラグビーにかける南アフリカ国民の想いは、単なるスポーツの一競技以上の重みがあるようだ。
前回の2035年大会、日本はこの準決勝でニュージーランドに敗れて3位決定戦へと回っており、そこで南アフリカを倒して世界3位に輝いたのはまだ記憶に新しい出来事だ。この戦いを突破できれば、日本ラグビー史にとって初の快挙。俺たちはまたひとつ、新たな歴史を刻むことになる。
だが先の大会で辛酸を舐めた南アフリカのモチベーションは非常に高かった。6か国対抗戦だけに飽き足らずこのワールドカップ本番でも日本を完膚なきまでに叩きのめし、屈辱の記憶を拭い去ろうと燃え滾っているのが、一目見ただけで感じられる。
この試合、俺はベンチスタートだ。後半のどこかでフィアマルと交代し、相手のスタミナが切れたところで勝負をかける。
試合が始まった途端、南アフリカ代表は桁外れのプレッシャーで日本選手たちを押しまくった。
強靭なプロップやロックに押されて、否が応でも戦列を下げられる日本代表。そしてタイミングを見て南アフリカバックスにボールを回されると、そのフォワード顔負けの体格で日本選手たちを強引に突き飛ばして突破を図るのだ。
「通してたまるか!」
前半12分、193cm115kgのウイングを、西川君と馬原さんがふたりがかりで押し倒す。うちのクリストファー・モリスを上回るこの体格でバックスだなんて、南アフリカ代表のフィジカルは何かがおかしい。
やがて形成されたラックから日本はボールを奪おうと相手選手たちを押す。だが冗談抜きに鋼の肉体を誇る南アフリカ選手たちはちょっとやそっとではびくともせず、フォワード数人がかりで一列になった長大なラックを作ると、スクラムハーフに次のプレーに仕掛けさせるだけの距離を稼ぎ出していた。
やがてラック後方のスクラムハーフが楕円球を拾い上げる。と同時に、なんと自らキックを蹴り上げて、日本陣内奥深くへとボールを放り込んできたのだ。彼らがラックをここまで長くしたのは、キックの時間を確保するためだったのか!
「まずい、急げ!」
ベンチで俺が声をあげる。だがそれよりも先に、落下地点めがけて仲間たちはくるりと向きを変えて走り始めていた。
ボールが落ちてくる位置はゴールラインの向こう、インゴールの内側だ。日本代表の俊足自慢がだっと駆け込んで、高く飛び上がったボールめがけてひた走る。
だがスクラムハーフがどんな動きをするのかを予期していた南アフリカ選手たちは、急ぐ日本選手に先んじて次々とゴールラインの中へと侵入する。そして誰よりも早く落下地点へとたどり着いた208cmの長身ロックが落ちてきたボールをキャッチすると、そのままグラウンディングへとつなげたのだった。
「トライ!」
力と技、二つの要素を高いレベルで合わせた鮮やかなトライ。世界トップレベルの妙技の連続に、観客は大喝采を贈ってスプリングボクスの得点を祝福した。
難しい角度だったせいかコンバージョンゴールは外したものの、それでも前半12分に5点を奪われたのは痛い。こちらはまだ0点のままだ。
結局日本は得点を奪えないまま、0-5でハーフタイムを迎える。
「いてててて……なんつーパワーだ」
「6か国対抗戦の時より、もっときつくなってんじゃねぇか」
何度も何度も身体をぶつけ合ったおかげで、フォワードの選手たちはすでにボロボロの満身創痍だった。普段鍛えているから滅多なことでは音も上げないのに、ロッカールームでシャツを脱いだ彼らの身体にはあちこちに痛々しい青痣が浮かび上がっている。
「すまない太一、後半から、入ってくれないか?」
ポジションゆえに何度も相手に身体をぶつけ、自身も何十回もタックルを受けていたフィアマルも、全身至るところが青く変色している。あまりに痛いのか、ベンチに寝転がったまま起き上がろうともしない。
「ああわかった。とにかく今は安静にしてくれ」
俺はフィアマルのひどく黒ずんでしまった脚に、保冷剤を包んだタオルを押し当てる。多少は痛みが和らぐのか、フィアマルは「ふぅ」と息を吐くと同時に、苦しそうだった顔に多少の穏やかさが戻る。
「本当にこんなので、大丈夫なのでしょうか?」
そんな野戦病院さながらの光景を目にして、矢野君が怯えたように漏らす。彼は前半、俺といっしょにベンチで試合を見守っていた。
「仮にここで勝てたとしても、決勝でちゃんと戦えるのでしょうか?」
さらにぼそりと、矢野君が呟く。
実はこの試合が始まる前に、別会場でもうひとつの準決勝の試合が行われていた。その試合でニュージーランドはオーストラリアに45-13で圧勝し、既に決勝進出を決めていたのだ。この準決勝を制したとしても、最後に待ち受けるのは3連覇を狙う王者ニュージーランドだ。たとえこちらが万全の状態であっても、勝てる可能性は極めて低い。
「戦える戦えないって問題じゃない、戦うんだよ」
だが俺は矢野君の気弱な発言に対し、穏やかに諭し返したのだった。
「日本から駆けつけたみんながあんなに応援してくれているんだ、ここで負けるわけにはいかない。それに日本がこれだけ痛がってるんだ。てことは南アフリカだってダメージはかなり来ているはずだよ」
「作用と反作用みたいなもんか?」
このハードな試合でも、比較的けろっとしている西川君が茶々を入れる。
たしか物理で出てきた言葉だったかな? 今ひとつよく覚えてないけど……まあそういうことだよ!
「勝負は後半だ。あの練習の成果、見せてやろう!」
そして後半、フィアマルたちに代わって俺と矢野君がコートに立つ。矢野君も多少は気がまぎれたのかむっと口を強く閉ざして気合をみなぎらせてはいるものの、その一方でどことなく無理矢理自身を鼓舞させているような雰囲気もあった。
後半一発目から、南アフリカは惜しげもないアタックで日本守備ラインをじりじりと後退させる。
特にボールを持った相手ロックは、わざと俺たちのような大柄な選手たちのいるところに突っ込んできて足止めし、その隙にバックスに回して守りが薄くなったエリアに攻め込んでくるのでタチが悪い。
そしてもう何度目だろう、自分よりも30cm近く背の高いロックがボールを抱え、俺と石井君の立つちょうど真ん中めがけて走り込む。
「おっとぉ!」
「抜かさへんでぇ!」
すぐさま俺と石井君のコンビで飛びつき、その巨体をがっしりと受け止める。が、同時に相手はうまく身体を捻らせ、後方の仲間にボールを投げ渡してしまったのだ。
「しまった!」
不覚だった、オフロードパスを回されてしまった。俺と石井君がロックもろとも地面に倒れ込むその脇を、ボールを受け取った相手スタンドオフがだっと駆け抜ける。
守備ラインの後ろはガラガラだった。相手は目前に迫ったゴールラインだけを見て、ただ一目散に全力で走る。
だがそこに、突如ふたつの人影が飛びつき、相手選手の前進を食い止めたのだった。
日本代表ナンバーエイトのクリストファー・モリスと、フルバックの西川君だ。ふたりはほぼ同時に相手スタンドオフに身体をぶつけ、それぞれ上半身を前方と後方からがっしりと拘束した。
足を止められた相手は倒れようにもふたりに無理やり立たされて倒れることもできず、パスを送ろうにも上半身を固定されているので腕を振ることもできない。そのままずるずると押され引っ張られ、強引に歩かされてしまうのだ。
ふたりがかりのプレーに相手スタンドオフはなすすべもなく、結局そのままタッチラインの外まで押し出される。
「ふたりとも、ナイスプレー!」
起き上がった俺は駆け付け、「寄り切り」を決めたふたりとハイタッチを交わす。最後にボールを持っていたのは相手選手、つまりここは日本のラインアウトで試合再開となる。
「へへっ、この前キムから教わったタックルのコツとジェイソンから教わったフルバックのポジショニングがよ、なんかうまくハマっちまったみてえだ。気持ち良いもんだな、これも」
さすがに今のプレーは疲れたのだろう、ぜえぜえと息を切らしながらも西川君は実に爽やかな顔で答えた。だがすぐに、彼は俺とクリストファーの顔を見比べて尋ねた。
「ようやく俺たちのラインアウトだな……おいフォワード、セットプレーは万全だろうな?」
「もちろんだー、この前あんなに練習したんだもんなー」
クリストファーは嫌なことでも思い出したかのように、歪めた顔をこちらに向ける。俺は「だよねー」と苦笑いを浮かべ頷き返した。
前半は相手のペースに乗せられてセットプレーを取られてばかりいたが、ついに待ちに待ったチャンスの到来だ。このラインアウトで、何が何でも取り返さなくてはならない。




