第五章その4 男の約束
11月も後半に入り、いよいよ寒さに体を震わせる季節に突入する。学校でもみんな厚手のトレーナーやセーターを着込み、半袖の子なんてハルキ以外誰もいなくなってしまった。
そんなある日の放課後、一旦家に帰った俺は再びラグビーボールを持って学校のグラウンドに戻ってきていた。
子供たちも既に下校して、校舎もしんと静まり返っている。しかしグラウンドからは時折ドスッ、ドスッと鈍い音が聞こえていた。
グラウンドには既に先客がいた。ラグビーボールを手にした西川君だ。
「西川君!」
「遅いぞ小森、もう始めてるぞ」
そう言った直後、西川君は手からボールを放して鋭いキックを入れる。蹴り上げられたボールは高速で回転しながら大きく打ちあがり、30メートル近く離れた場所に置かれたサッカーゴールの上を軽々と飛び越えてしまった。
ここ最近、放課後になると俺たちは関東大会に向けての自主練習に励んでいた。週末に行われるスクールの練習だけでは絶対的に時間が足りなかったのだ。
俺と西川君は少しでも多くの時間ボールに触れられるよう、ふたりでランパスやタックルの練習に打ち込んだ。
特に熱心なのは西川君だ。フルバックに転向してからというもの、西川君は連日キックの練習に明け暮れていた。
「関東大会まで時間が無い。県大会ではなんとかなったが、今度はそううまくいかないからな」
西川君は話しながら、何本も何本も遠く離れたサッカーゴールの上を正確に通過するようグラウンドの様々な位置からボールを蹴り続けた。
小学生向けのミニラグビーのペナルティキックでは、大人のようにゴールポストを狙ってのプレースキックは行われない。地面に置いたボールを前か後ろのどちらかに蹴り出し再開するタップキックが適用されている。
しかしゴールキック、つまりトライ後のコンバージョンは存在し、これを決めればトライでの5点に加えて、さらに2点が追加される。そしてこのゴールキックを任されるのは、一般的にチームで最もキックに長けたフルバックの選手であることが多い。キックの正確性を高めておくことは、接戦でこそ結果を大きく左右するのだ。
関東地区大会は出場スクールの多さから二段階に分けて行われる。一都六県32のスクールを4チームごと8つのグループに分けてリーグ戦を行い、そのグループ内の上位2チームずつ計16チームが、1か月後のセカンドステージに進めるのだ。
そのセカンドステージでも同じく4チームでのリーグ戦を行い、それぞれのグループで1位になった4チームだけが全国大会に進出できる。
一次リーグに関しては2勝すれば突破は決まったようなもの。しかしセカンドステージは勝ち上がってきた強豪をさらに絞っていく超激戦だ。
俺たちの一次リーグの相手は群馬代表の前橋東スクール、千葉代表のさくらスクール、そして東京代表の立川スクール。この立川スクールは都内最強とも目される強豪だ。過去には日本代表選手も輩出している名門で、関東地方の小中学生ラグビーをリードしている。
一次リーグでここを倒せるか倒せないかは大きい。セカンドステージでは各一次リーグの1位と2位をそれぞれ2チームずつ選んでグループが構成されるため、1位で進出した方が格下と当たる可能性は高い。
負けられない戦いを前に自主練に励む俺と西川君。だがパス練習の最中、何の前触れも無く西川君が話しかけてきたのだった。
「なあ小森。久しぶりに『あれ』やらねえ?」
西川君が何をしたいのか察した俺は「いいよ」と返し、すぐさま足で地面に線を引き始めた。
『あれ』とは1対1でのトライ対決のこと。ボールを持って走る西川君が妨害する俺を抜けば彼の勝利、ノックオンやタックルでプレーを止めれば俺の勝利という単純なルールだ。
3年生の時、公園で西川君と対決した因縁の勝負でもあるのだが、あれ以降も何度も俺と西川君はこの勝負を繰り返している。勝敗は五分五分と言ったところだが、ここ最近は俺の方が3連勝している。
号令役がいないので、二人とも準備が整ったところで守備役の俺が「よーい、スタート!」と声を出して勝負が始まる。
俺が口を開いたその瞬間、西川君のスマートな身体がぴゅんと飛び出す。
右か左か、それともキックか。突っ込んでくる彼のわずかなフォームの変化に神経をとがらせ、俺は迎撃態勢で突っ込んだ。
そして西川君の足がくいっと向きを変える。よし、右で来るつもりだな!
すかさず俺は肉団子のような身体をばっと右に放り出し、西川君にタックルを入れた。
俺の一撃を受けた西川君は、ボールを持ったまま地面に倒れ込む。これで俺の4連勝、自己ベスト更新だ。
「はは、また負けちまったよ。お前、前よりずっと素早くなってるじゃん」
敗れた西川君はグラウンドに仰向けに寝転がっていた。だがその顔は敗れた悔しさよりも、なんだかすっきりしたような清々しさを感じさせた。
「夏合宿のおかげで嫌でも強くなったよ」
「こりゃ敵わねえな」
「そんな、西川君だってずっと――」
「小森」
俺の話を切るように、地面に倒れたままの西川君が言う。
「俺、好きな子がいるんだ」
「え!?」
突然の発言に俺は時間が止まった気分だった。
まあその相手が誰かというのは分かっているんだけれども……でも、なぜ今その話を!?
「俺はその子に好かれるためなら、死ぬほど努力した。毎日毎日、血反吐吐きそうになるほどな。スポーツで一番になれば、いつかその子もきっと俺を見てくれるって思ってな」
空の果てをぼうっと見つめながら、西川君は話した。
彼は天性の運動センスを持っているが、同時に誰よりも努力家であることは俺もよく知っている。才能と努力、このふたつが備わっているからこそ学校のスポーツ王たる西川君がいるのだ。
「それでもその子は振り向いてくれなかった。あの子にはもう好きな奴がいるんだよ、俺でも霞んでしまうくらいのすごい奴がな」
俺はびくっと身体を震わせる。
西川君は俺と南さんが既に友達以上の関係にあることを見抜いていた。ただそのことに関して逆上するとか恨んでいる様子は無いようだが、逆にその点が俺を不安にさせた。
「俺も負けないようにってずっと頑張ってきたさ。でもある日気付いたんだ、ここまで頑張れるのはそんなすごい奴をさらに超えるすごい奴に自分がなりたいからだって。その子に好かれるとかそういうの抜きに、ただ自分が強くなりたいからだって」
俺は何も言い返さなかった。
西川君がラグビーを始めた事情は俺への対抗心だったかもしれないが、今となってはそんな次元を既に通り越していたのだ。彼もまたラグビーに己の夢を託す、ひとりのラガーマンになっていた。
そして西川君はゆっくりと立ち上がる。細めだと思っていた身体もしっかりといつの間にか筋肉がつき、逞しくごつごつとしたものになっていた。
「小森、俺はバックスで日本の、いや世界のトップを取る」
そして真っ直ぐ、俺の目を睨みつけるようにして言い放つ。自分ならできるという自信と、絶対に成し遂げるという決意に満ちた、そんな眼だった。
「そこで小森、お前はフォワードで世界のトップを取れ。どっちが先にトップを取るか競争だ。そしていつか、ふたりで世界一を分かち合おう。絶対できるよ、お前みたいなすごい奴なら」
「俺もできると思うよ、西川君みたいにすごい奴なら」
俺がにっと笑って返すと、西川君も思わず笑顔になる。
そして「ああ、約束だぞ!」とふたりで力強く握手を交わしたのだった。




