第五十章その6 ワールドカップの魔物
その後、日本は連勝を重ね、ついにプールB最後のアイルランド戦を迎えた。世界ランキング1桁台同士の好カードだけに、会場は開幕戦も行われたメットライフ・スタジアムと全米でもトップクラスの規模の競技場が使用される。
さすが大都市ニューヨークのお膝元だけあって9万人以上収容の観客席も朝からぎっしりと埋め尽くされており、見たところ日本とアイルランドそれぞれのジャージを着た観客はほぼ半々といったところだろうか。
「さあ、今日は負けられないぞ」
試合直前、キックオフの準備をしていた坂本さんが強く意気込むと、他の選手たちも「おう!」と改めて声を合わせた。
ここまで両軍ともに3勝1敗、勝ち点も15とまさに五分五分の状態で拮抗している。
日本もアイルランドも決勝トーナメント進出は確定させているものの、ここで勝ってプール2位になれば1試合目の対戦相手がプールA3位のチームに、敗れて3位になればプールA2位のチームになる。今後の連戦で消耗を抑えるためには、ひとつでも順位を上げてプール戦を終えた方が良い。
ちなみにプールB1位は言わずもがなニュージーランドだ。アイルランドからも4トライを奪ったオールブラックスは、全勝の勝ち点19でトップをひた走っていた。
試合開始のホーンが鳴り響き、坂本パトリック翔平さんがキックを蹴り放つ。
小細工一切なしにひたすら前に進むアイルランドの『魂のラグビー』のスピードとパワフルさには、ランキングで勝る俺たちも手を焼かされた。
全速力で突っ込んでくる相手に日本守備陣は不用意なタックルを与えてしまい、反則でペナルティキックを与えてしまう。こちらが攻撃に転じても優れた体格でしっかりと防ぎ、キックを蹴り込んでもバックス陣が素早くボールを拾ってしまうのでなかなか攻めきれない。シンプルに手強いチームだ。
試合は両軍ともにロースコアのまま進行し、10-10で後半25分に突入する。
フォワードの壁を避けて日本の守備ラインの間隙めがけて走り込む相手選手。そこに本日すでに2本のゴールキックを成功させているスタンドオフ坂本さんがとびかかり、相手を押し倒す。
だがその後、駆け付けた両軍の選手によってボールの奪い合いが発生、不運にも坂本さんはラックの下敷きになってしまった。
「いてぇ!」
悲痛なその声に日本の選手たちが一斉に離れ、言語はわからずとも状況を察したアイルランド選手は急いでボールを掻き出してバックスへとパスを回した。
同時にラックが解けて散らばるアイルランド代表。その位置には膝に手を当てて芝に倒れ込む坂本さんの姿があった。
すぐに駆け付けたいが、まだ試合は動いている。この時間、日本はひとり足りない状態で相手を止めなくてはならない。
アイルランドバックスがタッチライン際に突っ込む、と見せかけて内側にボールを戻した。それを受け取った選手は仲間が惹きつけてくれたおかげで守りの薄くなった日本の守備ライン突破を図った。
だが寸でのところで追いついた日本代表ナンバーエイトのクリストファー・モリスが強烈なタックルを入れた。日本のフィジカルモンスターと呼ばれる彼のタックルは想像以上の衝撃だったのだろう、相手選手はあと少しのところでボールをこぼし、ノックオンの反則がレフェリーより告げられる。
笛が吹かれると同時に、俺たちはだっと駆け出した。
「坂本さん!」
「大丈夫ですか!?」
そして今なお倒れたまま動けないチームメイトの周りに集まり、その痛みで歪んだ顔を覗き込むのだった。
「いててて……ちょっとまずいな、これは」
痛みに身体を震わせながらも、坂本さんは俺にちらりと視線を向ける。その意図を読み取った俺は周囲の選手たちと互いに頷き合い、レフェリーに話しかけた。
選手交代。強敵相手に坂本さんほどのスタンドオフがいなくなるのは痛いが、こればかりは仕方がない。
「西川君」
担架で運ばれる直前、坂本さんは年下のフルバックの名を呼んだ。尊敬する先輩からの突然の呼びかけにもかかわらず、フルバック西川君は「はい!」とまるでわかっていたように素早く声を返す。
「アイルランドの守りは堅い。こういう時こそ君の力が必要だ」
そして痛みに耐えながらも、坂本さんはぐっと親指を立てて見せつけるのだった。
「君ならできる、任せたよ!」
「……わかりました、安心してください」
最後に汗まみれのまま笑顔を向け、坂本さんは運ばれていった。坂本さんが西川君に何を伝えたかったのか、具体的な指示は出されずともこの場にいた日本代表メンバーはなんとなくわかっていた。
その後のスクラムでボールを確保した日本は、バックスにパスをつないで相手陣奥深くまで一気に自陣を回復させる。
そしてゴール手前で展開されるはアイルランドの強固な守備ライン。勝利の執念に燃えた彼らの堅牢な守りは、オールブラックスやスプリングボクスといった世界最強クラスの選手たちでもなかなか突破できない。
そんな時、ふと後ろを振り返った俺は「あ!」と小さく声をあげた。日本ゴール手前から、フルバック西川君が単身上がってきているのが目に飛び込んだのだ。
「和久田君!」
スクラムハーフ和久田君に声をかける。だが彼も俺と同じことを考えているようで、一瞬後方の西川君に目を向けると、こちらに顔を向けてこくんと頷いたのだった。
やがて俺の手元にボールが回される。目の前で誰が守っているかなんてどうでもいい、俺はまっすぐ、アイルランド選手たちの壁めがけて突っ込んでいった。
当然ながら1発、2発とタックルが入り、俺の身体は止められる。
「こもりん!」
だがすぐに後ろからフッカー石井君が援護に加わり、地面に倒れる俺とボールを守る。これでラックが完成、日本は次の展開の準備時間を得ることができた。
アイルランドが守備ラインを整えなおす中、ボールの周りには他のフォワードも駆けつけてラックをより強固なものにする。そして最後尾では和久田君が腰を落とし、今か今かとボールを放り出すタイミングを計っていた。
ついに準備は整った。芝の上に置かれたボールに和久田君は手をかけ、さっと後方に投げ飛ばす。
弾丸のような鋭いパス。それをキャッチしたのはすでに22メートルラインまで駆け上がってきたフルバック西川君だった。
彼が何をするのか、経験豊富なアイルランド選手たちも理解しているのだろう。和久田君がボールを投げだしたその瞬間から、近くにいた者が一斉に飛び掛かる。
だが西川君に躊躇は一切なかった。彼は受け止めたばかりのボールを素早く足元に落とすと、跳ね返ったボールの芯めがけてキックを振りぬいたのだ。
チャージをしかけてきた相手の頭上を越える、高く力強いキック。高速回転する楕円球はまるでコントロールされているかのように、H字型のゴールポストのど真ん中を通過する。
直後、レフェリーのフラッグが高く上げられる。そう、ドロップゴールが決まったのだ!
「やったぞ西川! 今日のヒーローはお前で決定だ!」
西川君が小さくガッツポーズを取っているところに、フランカー進太郎さんが両腕を広げて抱き着いた。今の一瞬で進太郎さんが日本全国の女性ラグビーファンを敵に回してしまったような気もするが、まあそこは考えないでおこう。
そこから日本はアイルランドの攻撃を耐えしのぎ、13-10でギリギリ勝利を挙げたのだった。
「プール2位、おめでとう!」
その夜、ホテルに戻った日本代表数名は進太郎さんの部屋に集まり、激闘を制した記念の酒盛りに興じていた。
今日は試合後の反省会を開いた後、連戦の疲労を癒すために今日、明日と自由時間が設けられている。選手たちは軽い自主トレに励んだり、昼寝をしたり仲良い者同士でどこか食べに行ったりと思い思いに過ごしていた。
負傷退場した坂本さんの怪我も大したこと無いようなので、来週の1試合を休めば復帰できるそうだ。俺たちに今できることは、ばっちりとコンディションを整えて決勝トーナメントを迎えることだった。
さて、俺たちの所属する予選プールBは本日すべての試合が執り行われ、以下のように順位が確定した。カッコ内は勝敗と勝ち点を表している。
1.ニュージーランド(5勝・24)
2.日本(4勝1敗・19)
3.アイルランド(3勝2敗・16)
4.ジョージア(2勝3敗・9)
5.韓国(1勝4敗・4)
6.ウルグアイ(5敗・1)
上位の顔ぶれはまあ予想通りだろう。ニュージーランド代表は日本戦以外すべての試合で4トライ以上を決め、ボーナスポイントを荒稼ぎしていた。
そんな中で韓国代表がワールドカップ初の白星を挙げたことは、今後のラグビー普及途上国の発展を大きく後押しすることだろう。いつか母国にラグビーを広めたいと話していたキムは、その夢を叶えたのだ。
「なぁ、アメリカフランス戦始まるで」
ビール瓶片手にテレビに目を向けていた石井君が言うと、他の仲間たちも「どれどれ?」と画面の前に群がる。
やはり開催国有利の日程になることは仕方ないことと割り切るしかない。現在プールAで2位を争うアメリカとフランスの一戦は、予選プール最終戦としてこの時間から開始される。
日本代表の決勝トーナメント最初の相手はプールAの3位チーム、つまりはこの試合の敗者になる。そのために俺たちとってもこの試合の結果は注視すべきもので、さっきまでビールをがぶがぶ飲んでいた面々も試合開始と同時にぴたりとその手を止めてしまった。
過去の実績を見ればフランスが勝つだろうというのが大方の予想だ。上り調子とはいえ、アメリカ相手なら主力メンバーを休ませながらも十分に勝ちが見込める。
フランスの変幻自在のパス回しに、大雑把ながらもパワーで食らいつくアメリカ。ボールの保持ではフランスが上回っているものの、ゴール寸前でアメリカの巨漢選手が食い止めるという展開が続いていた。
「アメリカやるなぁ」
「ああいうパワーのある選手、日本にももっと現れてくれないかなぁ」
そんな会話をのん気に続けている間にも前半が終了し、やがて後半も半分が経過してしまった。
後半30分時点、スコアは17-21でフランスがリードしているものの、わずか1トライでひっくり返せるほどの僅差。
なんだか嫌な予感がする。口にせずとも皆が同じことを考えているのだろう、全員がしんと黙り込んだままじっとテレビに目を向けていた。
そして後半36分のことだった。フランス選手の動きを見切ったアメリカのウイングが、相手がパスを出した瞬間に走り出す。そして仲間の手に渡る直前に、投げ出されたボールを奪ってしまったのだった。
「うえ!?」
一斉に声をあげる日本代表選手たち。そんなビール臭い声をあげていることなど知る由もなく、アメリカ代表ウイングはひたすら走り抜け、なんとゴールラインを越えてトライを決めてしまったのだった。
「まさかの!?」
まさかのアメリカ逆転勝利!
コンバージョンゴールも成功させたアメリカは残り時間もボールをキープし続け、ついに24-21で強豪フランスに勝利してしまったのだった。
「なんでやねん、よりによって」
石井君が頭を抱える。メンタルの強さに定評ある彼でも、戸惑いは隠せないようだ。
この試合でアメリカが勝ったことにより、俺たちのベスト12の相手はフランスになってしまった。大会の盛り上がりとしては最高かもしれないが、この想定外の事態で一番割を食うのは他でもない俺たち日本代表なのだ。
「これさ、今日負けた方が良かったんじゃ?」
秦亮二がへへっと苦笑いとともに言い放つも、咎める者は誰もいなかった。
結果論ではあるがそういうことになる。失礼ではあるが格下のアメリカが相手になるだろうと確信していたばかりに、俺たちは頭をハンマーでどつかれたような気分に陥っていた。
甲子園には魔物が潜むと聞く。だがそれは往々にして、あらゆる分野でも言えることなのだろう。




