第五十章その3 逆境のブレイブブロッサムズ
「わかってはいたけど……オールブラックス、強すぎる」
ハーフタイムのロッカールームで、俺たちは渇いた喉をドリンクで潤しながら焦りを口にする。
「6か国対抗戦の自分たちの試合も細部まで検証したんだろうね。裏のスペースに放り込まれてもすぐに対応してくるんだもん」
和久田君も疲れ切った様子で濡れタオルを顔に被せていた。スクラムハーフとして誰よりも長くボールを追いかけ走り回っていたのだろう、パンパンに張った足のテーピングを秦亮二に直してもらっている。
ニュージーランド代表オールブラックスの猛攻は凄まじく、前半だけでハミッシュとエリオットにより、ふたつのトライを奪われてしまった。
一方の俺たち日本が得られたのは、ペナルティゴールの3点のみ。作戦通りうまく相手の後ろのスペースにボールを蹴り込めても、すぐにハミッシュのような強力な選手が駆けつけてゴールラインの手前で止められてしまう。
7月の試合で日本にトライを決められた原因を、オールブラックスは精査したようだ。守備ラインよりやや後ろの位置にひとり選手を置き、もしもの時にはすぐ対応できるよう備えている。ラインの数的不利は個々の技量でカバーし、こちらの得点を完璧に封殺する意気込みだ。
「このままじゃダメだ、焼け石に水だよ」
ボトルの蓋を閉めた俺は、仲間たちに向き直る。
「攻め方を変えよう。ハミッシュは無視していい。そしてキックを出すのは……本当に行けると確信した時だけだ!」
そしてスコア3-17で始まった後半、俺たちは疲労の激しい数人を入れ替えて臨んだ。
前半とは異なりキックを封印し、フォワードが数人がかりでモールを形成して力押しで前に進む。南アフリカと比べればニュージーランドの選手は小柄なので、作戦自体はきついものだが決して不可能ではない。
だがオールブラックスの守備は堅かった。日本の体格自慢が突っ込んでも、ひとりひとりの高い力量で受け止められてしまう。彼らにとって相手がひとり多かろうが、さほど問題にはならないようだ。
やがて日本がトライを奪えないまま後半20分、30分と残り時間が少なくなるにつれて、観客の応援のボルテージも高まり続ける。
「このままノートライだ!」
「強いぞオールブラックス!」
聞こえる声援のほとんどは、オールブラックスの強さを称賛するものばかり。ここにいる者は皆「強いオールブラックス」を見るためにこのローズボウルに集まっている。つまり彼らは、俺たちが打ち負かされる姿を期待しているのだ。
そうは思い通りにさせるものか。そんなこととっくに気付いている日本代表は、全員が疲れも痛みも捨ててひたすらに体を張り続けていた。
そして後半30分を回ったときのこと。序盤と同じく再びラックからボールを受け取った俺に、前進守備のオールブラックス選手たちがわっと詰め寄る。
今までなら自陣をキープするため、フォワードが体格を活かして真正面からぶつかっていくのが後半における日本の戦い方だ。当然相手も俺がモール戦に持ち込むと予想しており、近くのニュージーランド選手は一斉に俺に足先を向けた。
この時を待っていた!
俺は身体を低くして前に進む……と見せかけて、すっと斜め後ろ方向にボールを素早く投げ出す。それをキャッチしたのは、スタンドオフの坂本パトリック翔平さんだ。
こちらに引き付けられていた相手選手たちが急いで首の向きを変えるその最中、坂本さんは素早くボールを足元に落とし、そして強烈なパントキックを叩き込んだのだった。
ごうっと空を切り裂いて俺たちの頭上を飛び越える楕円球、落下したのは逆サイド敵陣奥。これは終始キックを警戒していたハミッシュからもさすがに遠すぎる位置のようで、ニュージーランドゴール前を守っていた相手フルバックが対応してバウンドするボールの元に駆け付ける。
だがボールが蹴り上げられた直後、相手陣に向かって日本陣内から飛び出していくバックスが3名いたことは、ボールに気を取られた相手選手はほとんどが気付いていなかった。
日本の『新幹線』ウイング馬原さん、巧みなステップが持ち味のセンター秦亮二、そしてスポーツの天才フルバック西川君のバックストリオだ!
3人は自陣にUターンするオールブラックスメンバーを追い抜かし、まっすぐボールを持つフルバック目がけて突っ込んでいく。
まず日本代表きってのスプリンター馬原さんがタックルを決める。ボールをキャッチしたばかりで踏ん張りが今一つ効かなかったのか、相手フルバックは背中から押し倒されてしまった。
その直後、駆け付けた西川君が相手のボールを奪って走り出すが、ジャッカルのために一度足を止めてしまったせいでスピードに乗り切れていない。このままでは最高速に加速する前に、オールブラックスに追いつかれてしまう。
「こっちだ!」
だがそんな黒いジャージの集団の猛追を逃れるように先頭を走るのは、日本の秦亮二だった。
西川君は奪ったばかりのボールを一瞬の迷いもなく亮二にパスで渡す。ふわりと投げ出された楕円球を全速力のままキャッチした亮二は、西川君を抜き去ってゴールラインへとひた走った。
その数秒後、追いついた相手ウイングのエリオット・パルマーが背中からタックルを入れ、全力疾走の亮二の身体が前のめりに傾く。だがとっさに腕をピンと前に伸ばしていたのが功を奏し、亮二の腕先は倒れ込むと同時にギリギリ白線を越えてグラウンディングを成功させたのだった。
「トライ!」
響き渡る大歓声。観客席のあちこちから「ジャパーン!」の叫びが巻き起こる。
「よっしゃああああ!」
「よくやったぞみんな!」
オールブラックスからトライを奪ったぞ。それも最高の状態に仕上がっている正真正銘の世界最強軍団から!
この得点は単なる1トライ以上の価値があった。バックス3人組は相手ゴール内で互いに肩を組んで飛び跳ね、守備ラインを引き付けていたフォワードたちも互いに抱き合って余すところ無く喜びを露わにしていた。
さらにこの直後、坂本さんがコンバージョンゴールを決めてさらに2点を追加する。これで10-17、トライを奪えば同点に追いつける7点差だ!
ここで点差を縮められたことに焦りを覚えたのか、残り10分を切ったこのタイミングでオールブラックスのプレーが精彩を欠き始める。単純なノックオンやハイタックルが立て続けに起こり、日本はついに相手陣手前まで攻め込んでしまったのだ。
そしてついに80分のホーンが鳴った時、俺たちは相手守備ラインをゴール前まで追い詰め、フォワードによる肉弾戦を展開していたのだった。
ここでボールを失えば、即座に日本の敗北が決定する。だがこの壁を突破してグラウンディングできれば、同点で終えることができるのだ!
「負けてたまるか!」
楕円球を抱え込んだ俺たちは言葉にならない言葉を叫びながら、すべてのエネルギーを前に進むことだけに使ってオールブラックスの男たちへと突っ込んでいった。
そして俺の隣で、矢野君がボールを抱えた時だった。このプレーで決めようと決心した俺は、飛び出した矢野君のすぐ後ろを追走した。
矢野君の身体は白線を踏む前に相手選手によって止められる。俺はそこで絡んできた相手にすかさずタックルを入れ、モールを成立させた。
もう少し、もう少しだ。このまま押し込めば日本の得点だ!
他の仲間たちも俺や矢野君の背中を押して密集を相手ゴールに向かって進める。だが相手も俺たちの狙いを見透かしているのだろう、素早く集まって日本に対抗した。
そしてハミッシュ、ニカウ、ローレンスとニュージーランドきってのフィジカルモンスターが密集に加わったときのことだった。
「そぉら!」
ニュージーランド選手たちが一斉に、同じタイミングで力を込めて押し返した。その衝撃はまるで自動車の正面衝突、押していたコンクリートの壁が突如こちらに向かって動き出してきたような抗いようもない凄まじいパワーに、俺たちはなすすべもなくはね返される。
直後、レフェリーが長いホイッスルを吹き、試合が終了した。日本がモールを崩す反則を犯したことで、プレーが途切れたと判断されたのだ。
ローズボウルを包み込む盛大な拍手と大歓声、9万の観客は「オールブラックス!」の名を連呼する。
「はは、あと少し……だったのに」
俺は腰からへなへなと崩れ、芝の上にぺたんと座り込む。
敗れた……ワールドカップ初戦、優勝のためには勝っておかねばならないこの試合で。
もちろん予選プールは勝ち点制なので、この試合だけで順位が決定するわけではない。だが格上ニュージーランドがこれからの試合でポイントを取りこぼすとは考えにくい。事実上、日本のプール戦1位突破は不可能になったと言える。
ワールドカップの出場国が24カ国に拡大されて以降、プール戦1位になれなかったチームがベスト4以上に進んだことは無い。俺たちの優勝の可能性は、大きく遠ざかってしまったと考えてもよいだろう。
呆然と観客席を見つめる俺。せっかく同点に持ち込めそうだったのに……まるで身体から魂が抜けてしまったかのように、俺は自分の身体を動かすことができなかった。
「太一、冷や冷やしたぜ」
だがその時、俺の目の前にすっと立った人物が話しかける。その顔が焦点の合わない目に移り込んだ瞬間、俺は「あっ」と声をあげて飛びかけていた意識を取り戻す。
ハミッシュ・マクラーセンだ。あの世界のスーパースター、ハミッシュ・マクラーセンがこちらに向けてそのでっかい手の平を差し出していたのだ。
「ここまで熱くなれた試合、もしかしたら俺のラグビー人生で初めてかもしれねえ。こんな最高の試合に付き合ってくれて、ありがとうな!」
にかっと笑みを見せるハミッシュに、俺もついふっと頬を緩める。そしてこちらも手を伸ばし、「俺もだよ、ありがとう」と握手を返したのだった。
「また決勝戦で会おう。お前たちならきっと勝ち上がってこれるさ」
屈託ない笑顔を向けてハミッシュは話す。
「で、その時こそぐうの音も出ないほど徹底的に負かしてやるよ」
「それはこっちのセリフ。待ってなよ、ニュージーランドの新聞で『ミシガンの悲劇』って載ることになるからね」
「はは、おもしれぇ冗談だな」
そして俺たちはふたりそろって豪快に笑い飛ばす。
つい今さっき負けてしまって窮地に立たされているとは思えないほど、この時の俺の心境は晴れ晴れとした爽やかなものだった。




