第四十九章その3 ベテランの執念
ワールドカップ前の6か国対抗戦に向けて、網走市内の練習場に移動した日本代表候補40名あまりは早速汗を流していた。
「おらぁ!」
背番号15のフルバック西川君は、40メートル以上離れた位置からゴールポストのど真ん中めがけて地面に置いたボールを連続で蹴り込む。
ラグビー選手としては細めだった西川君も20代後半を迎えてから、すっかり競技に順応した身体つきに様変わりしていた。分厚い胸板にがっしりとした腰回り、特に四肢は巨木のように太く逞しい。
その脚から放たれるキックは強烈の一言。野球のホームランのように、蹴り上げたその瞬間に「あ、これは入ったわ」と周囲を黙らせてしまう不思議な迫力があった。
「絶好調だな、西川」
近くで見ていたスタンドオフ坂本パトリック翔平さんも小さく驚きながらも拍手を贈る。
「まだ坂本さんには敵いませんよ」
そう謙遜しながらも、当の西川君はまんざらでもない様子だ。
西川君と坂本さんという世界クラスのキッカーがふたりもそろうのは、日本ラグビー史全体を見つめ返しても初めてのことだろう。このふたりの才能を活かさない手は、日本代表にとってないはずがない。最近の試合では距離は短くとも角度が難しい時には坂本さんに、遠距離の場合は西川君にと状況に応じて蹴り分けていた。
「いいや、俺はもうピークを過ぎてる。今は西川がキックのエースだよ」
絶対に他人には見せないようなキラキラした瞳を向けられながら、自虐的に坂本さんが話していた時だった。
「ははは、坂本ももうそんな歳か」
ふたりのやりとりに口を挟んだのは、ちょうどスクラム練習の休憩に入っていたフランカー進太郎さんだ。
「歳って……進太郎さんまだバリバリでしょ」
大口を開けて笑う進太郎さんに、坂本さんは苦笑いを向ける。
俺よりふたつ学年が上の坂本さんは今年で31歳、進太郎さんは早生まれではあるが学年はさらにひとつ上だ。ふたりともリーグ全体で見ても既にベテランと呼ばれる年齢に突入しており、ワールドカップ出場もギリギリといったところだ。もしかしたら4年後は、候補としての招集すら叶わないかもしれない。
「まだバリバリ? ちょっと違うなぁ」
進太郎さんはわざとらしくふふんと鼻を鳴らす。そして坂本さんの隣に立つ西川君に顔を向けると、「西川、よーく覚えとけよ」と話し始めたのだった。
「誰だって30超えたら努力ではもうどうにもならないものがあるって、自分の限界を嫌でも意識し始める。特に俺たちスポーツ選手はな。でもな、それを受け入れてすっと身を引くヤツがいれば、意地でも食らいついて若いのに混じってラグビー続けるのもいる。どっちがカッコいいかはそいつ次第だが、俺はずっとやってる方が好きだ」
そして進太郎さんは握り拳を強く振り上げる。それはまさしく「我が生涯に一片の悔い無し」のポーズだった。
「だから俺はいつまでもこの身体が限界迎えてもラグビー続けてやる。ジジイになっても日本代表に居座り続けてやるぜ」
何が「だから」なのかはよくわからないが、進太郎さんらしい発言だった。この人ならあと100年くらい、余裕で生きそうだな。
ですが進太郎さん、そのポーズは拳王様が昇天された時にされたものであって、そういう決意とはまるで意味が真逆のような気がするのですが……。
2週間後、ついに南半球6か国対抗戦が始まった。
そして初戦、東京の国立競技場を埋め尽くす6万8000の大観衆に見守られながら、日本代表はオーストラリアと一進一退の攻防戦を繰り広げていた。
前回自国開催で準優勝と古豪の実力を世界に見せつけたオーストラリアは、今年の大会でさらにひとつ上の順位を目指していた。ワールドカップの前哨戦ともいえるこの6か国対抗戦も、いつも以上に気合を入れている。
だがそれは俺たちとて同じ。特にまだ出場経験の無い若手選手たちはワールドカップに向けての最終選考も兼ねていると思うと、リーグ戦とは比にならないモチベーションで相手にぶつかっていった。
オーストラリアは優れたフィジカルに加え、十八番の素早いパス回しで日本を翻弄する。時折キックも織り交ぜて、縦方向に素早く攻め込むラグビーを展開する。
しかし体格面では劣りながらも、パープルバタフライズ所属の選手が大半を占める日本代表は仲間同士でクセや力量を実によく把握し合っていた。自分たちの布陣の弱点もよく理解しており、むしろ守りの薄いエリアに相手をわざと走り込ませて一斉にボールを奪い返すという思い切った作戦も成功させてしまう。
そして相手の妨害により進路をふさがれても、このタイミングならやや右後ろに仲間がいるはずだとノールックパスでボールを回して対処する。声を交わさずとも互いの意図が読み取れるまで高めたチームワークは、自分たちで見ても驚くほどだった。スーパーラグビーで日々世界トップクラスの強敵相手に鍛練を積んできた日本選手たちは、世界での戦い方を確実に身に付けていた。
後半、俺はフィアマルと入れ替わる形でコートに立つ。
スコアは13-10で日本がリード。このまま逃げ切りたいところだ。
その直後、相手選手がフォワードからバックスへと守りの薄い位置へボールを回す。
「そこだ!」
誰にボールが渡るのかを見切ったのか、守備ラインから飛び出した進太郎さんは相手選手がボールをキャッチした直後にとびついてタックルを入れた。
まさかの速攻に、相手はなすすべもなく倒される。すかさず進太郎さんは倒れた相手の抱えるボールに手をかけて引っ張った。
反射的に、相手はボールを強く抱え込む。だがラグビーでは自分の足で立てない状態にある選手は、すぐにボールを手放さなくてはならない。
「ノットリリースザボール!」
審判が試合を止め、観客から喝采が起こる。ジャッカル大成功、相手の反則により日本はペナルティキックを獲得した。
「いいぞ進太郎!」
仲間からの称賛に、進太郎さんは「ははは、どんなもんだ!」とお決まりの豪快な笑い声で答えた。
ここから蹴り放たれた坂本さんのキックは、相手陣22メートルラインを越えたところ見事にタッチラインを割る。これで俺たちは相手ゴールの10メートルほど手前絶好の位置でラインアウトのチャンスを迎えたのだった。
「2、1、4!」
タッチの外に出た石井君が仲間だけに意味の伝わるサインを声に出して、敵味方に分かれたラインの中間にボールを投げ入れる。
俺と矢野君のプロップコンビに支えられ、中尾さんがの199cmの身体が空高くに飛び上がる。その高さは5メートル近くあるだろうか、中尾さんは迫りくる相手ロックに競り勝って、高速でスクリュー回転するボールをきれいに両手でキャッチを成功させた。
それをスクラムハーフの和久田君……ではなくナンバーエイトのクリストファー・モリスめがけ高い位置から放り投げる。文字通り2階の高さから落ちてきたボールをしっかりと受け止めたクリストファーは、まだセットプレー直後で戦列の整っていないオーストラリアゴールめがけ一目散に走り出す。
「負けるかー!」
筋骨隆々の見た目通り、彼の肉体の強靭さは日本代表でも随一だった。追いついた相手フルバックのタックルを真横から喰らうものの、彼は軽くふらつくだけでさらに数歩進み、最後は倒れ込むようにしてゴールラインの真上にグラウンディングを決めたのだった。
「よっしゃあ!」
吼えるクリストファーの元に仲間たちが駆け寄る。
なんとオーバー30の活躍で、相手を突き放す見事なトライ!
「おっさんブロッサムズが何だ、おっさんだろうが若造だろうが日本は勝てるチームなんだよ!」
進太郎さんの雄叫びに、主に三十路組の選手たちが「そうだそうだ!」と同調する。
その後坂本さんのキックで着実にスコアを稼ぎ、最終的に日本代表は23‐13で難敵オーストラリアを撃破したのだった。
「いやいや、みんな今日は美味い酒が飲めるぞ!」
ロッカールームに戻ってきたメンバーたちは、試合直後とは思えないほど全員が浮足立っていた。
だがかつては足元にも及ばないと思っていたオーストラリアから、しっかりと実力で勝ちを得られている。それは日本代表が強くなった何よりの証、大切な連戦で白星発進を決めた喜びは長い長い苦戦の時代を体験してきた俺たちにとっては何にも勝る酒の肴だった。
……こういうところがおっさん臭いような気もするけど、まあここは黙っておこう。
「西川、今日は最高に気分が良いからいつもよりペース上げていこう! 何飲みたい?」
「坂本さんが勧めてくれるのなら、俺何でもいけますよ!」
坂本さんの提案に西川君もノリノリで答える。
「そういえばー、他の試合はどうなったんだー?」
その時、ベンチに座ってドリンクを飲んでいたクリストファーが、ふと思い出したように周囲のメンバーに尋ねた。
「ああ、まだ見てなかったな。どうなったんだろう?」
いけない、自分たちの勝利のことで頭がいっぱいだった。日本代表は一斉に各自のスマホをタップし、ネットニュースにつなぐ。
実は日本対オーストラリアの試合が始まる直前、別会場で行われていた他国同士の試合がひとつ終了していたのだった。この6か国対抗戦では週に1回土曜日に3試合をこなし、6週間かけて総当たりのリーグ戦を行うのが一般的なレギュレーションとなっている。
自分たちの試合に集中するため、俺たちはあえてその結果を聞かないことにしていた。だが試合も終わった今なら、そんなこと気にする必要はない。
「へ?」
だがニュースサイトを開いた途端、日本代表は全員が言葉を失う。そして寒気を感じるほどの恐怖に、ぞぞぞと震えあがるのだった。
その見出しにはこう書かれていた。『オールブラックス、世界ランキング2位の南アフリカを34-3で完膚なきまでに打ち倒す』と。




