第四十九章その2 巨星、去る
6月、スーパーラグビーのシーズンを終えた俺は、日本ラグビー協会からの招集を受けて北海道へと飛んだ。毎年恒例の6か国対抗戦に向けて、そしてワールドカップ出場の31人を選定するための日本代表合宿だ。
女満別空港に到着すると、すでに先回りしていた取材陣が一斉にカメラとマイクを向けた。
「小森さん、テストマッチに向けて調子はいかがですか?」
「もちろんばっちりです。ワールドカップでは世界の頂点を目指します!」
キャリーバッグを転がして到着ロビーを横切りながら、俺は得意げに言い放つ。
だがこれほど強気に発言しながらも、その心は決して平静とは言えなかった。
フルコンタクトスポーツであるラグビーは全身の筋肉を酷使する。試合ごとに1週間は間を空けないと身体の調子が戻らない球技なんて他に無いだろう。
そんなハードワークに長年耐え抜いてきたこの身体も、蓄積したダメージには抗えないのだろう。常にどこかに痛みを抱えていてテーピングをしなければとてもコートには立てないし、最近は鍼治療も頻繫に受けている。俺が選手として第一線で活躍できる時間も、そう長くは残されていない。
前回大会でテビタさんが話していたことの意味を、俺は自らの身体をもって体感していた。
「小森さん、よろしいですか?」
外で待つバスに乗るために建屋を出ようロビーを歩く最中、取材陣の中から若い女性リポーターがマイクを持ってこちらに駆け寄る。
「どうぞ」
俺はペースを落としながらも、歩く足を止めずに答えた。女性は俺の隣を歩きながら、顔の前にマイクを突きつける。
「ニュージーランド代表ハミッシュ・マクラーセン選手が、今大会を最後にオールブラックスを引退すると発表しました。同じ学校の後輩として、ハミッシュ選手の引退についてどう思われますか?」
俺の足がぴたりと止まる。ちょうど建屋から出ようとしていたところでセンサーが反応したのだろう、自動ドアのガラス戸がウィーンと大きく開け放たれるものの、それをくぐる手前で俺は立ち止まってしまった。
「へ……初めて聞きました。それ、本当ですか?」
「はい、つい先ほどニュージーランドで行われた記者会見で、本人の口から話されました」
「まさか……」
頭が真っ白になるって、本当だったんだな。俺は感情が湧き起こっているのかすらわからないほど茫然自失として、言葉を失ったまま立ち尽くすしかなかった。
ショックだった。あのラグビーをするために生まれてきたようなハミッシュが引退だなんて。天性の超人である彼が衰える姿など、とても想像することができない。
だが一方で、俺の心の奥底では「ああ、彼にもついにこの時が来てしまったのか」という諦観にも似た感情が存在していた。
ハミッシュは俺よりふたつ年上で、現在31歳だ。今なおラグビー界のトップスターであることに変わりはないのだが、下の世代からも続々と超一流選手が現れるオールブラックスにおいて、10年以上不動のナンバーエイトを守り続けるために並みならぬ努力と苦労を重ねてきたことだろう。
「うん、その取材会見……見てみます」
こんな状況でコメントもクソもあるか。俺は空港前に横付けされたバスに走ると、荷物を預けて急いで乗り込んだ。そして座席に腰を下ろすなりカバンからタブレット端末を取り出すと、機内モードを解除してネットにつないだのだった。
やはり事実のようだ。ニュージーランドのスポーツニュースサイトを見てみると、ハミッシュの会見が速報で報じられている。会見の様子も短い動画でまとめられて公開されていた。
「それにしても……このタイミングで発表なんてなぁ」
恐る恐ると震える指を伸ばし、画面をタップして動画を再生させる。同時に、画面の中でハミッシュは卓上マイクに向かって話し始めたのだった。
「オールブラックの血を入れ替えるためにも、私はこのワールドカップ2039年大会を最後にニュージーランド代表を引退するつもりです」
絶えずパシャパシャと焚かれるカメラのフラッシュ。記者の誰かが感極まってしまったのか、泣き叫ぶような声も聞こえる。
「ですがご安心ください、思うようなプレーができないから引退しようとは欠片も思っておりません。私はこの大会を自身のラグビー人生の集大成と考えています」
だがそんな記者の反応を待ち構えていたかのように、ハミッシュはにやっと口角を上げる。そしてよく通る声で高らかに言い放ったのだった。
「未だ何者も成しえていないワールドカップ3連覇を、置き土産といたしましょう。北米大陸で開かれる最初の大会、覇者は我らオールブラックスです!」
記者たちから「おおっ」と歓声があがる。
2031、2035とワールドカップ連覇を成し遂げたニュージーランド代表は、今大会で前人未到の3連覇に挑む。当然、これはただの大言ではなく、実現し得るだけの実力あっての発言だ。実際に去年、一昨年の南半球6か国対抗戦で、ニュージーランドは2年連続の全勝優勝を果たしている。
圧倒的な強さでニュージーランドが世界を蹂躙するのか、意外な国がウェブ・エリス・カップをかっさらっていくのか。世界中のスポーツ好きが関心を向けていた。
だがひとまず、俺は不思議な安心感に包まれていた。日本代表にとっては喜ばしいことかもしれないが、あのハミッシュが衰えていく姿なんて見たくもなかった。やはり彼は、誰よりも強くあってほしい。
ちょうどその時、バスにぞろぞろと人が乗り込む。次の飛行機が到着したのだろう。
「よう小森」
「久しぶりだな」
会見を見て精神的な余裕を取り戻してきたのだろう、全国から集まる日本代表候補にも俺は「よう!」と陽気な挨拶を返していた。
「いででで」
その時、車内の誰かが声をあげた。
「あー、まだ腰治ってなかったのか?」
「そうなんだよ、全然痛みが引かねえ。本当、ここ2年くらいで一気にこういうの増えたんだよ」
そのやりとりを聞いた途端、俺は苦笑いを浮かべたまま固まってしまった。
現在の日本代表候補は、30歳前後の選手の割合が他国よりも大きい。進太郎さんや中尾さん、クリストファー・モリスや馬原さんといった世界でも名をはせる選手がその世代に集中しているのが原因だろうが、年齢による衰えが顕著なラグビーではかなり異質なことだ。
おかげでネットでは「おっさんブロッサムズ」だの「オールドジャパン」だのと呼ばれている。そもそも俺自身も29歳とラグビー選手としてベテランと呼ばれる一歩手前くらいの立場なのだ。
「……世代交代か」
今まで間近で見てきた光景が、ついに自分たちにも来てしまったか。
そして同時に思うのだった。ハミッシュだけではない、このワールドカップは俺自身にとっても、キャリアの総決算になるだろうと。




