第四十七章その1 カパオパンゴ
翌日、コートに立った俺たちはスタジアム・オーストラリアに集まった8万を超える大観衆の声援をその身に受けていた。
「日本と戦えて嬉しいぞ」
「よろしくねぇ、太一ぃ」
国歌斉唱を終えた後、対戦相手ひとりひとりとすれ違いざまに握手を交わす。上下黒のジャージを着たハミッシュやニカウは、いつもよりさらに何倍も強そうに見えた。
ベスト4まで勝ち進んだワールドカップ2035年大会、準決勝の相手は昨日南アフリカが敗れたおかげで世界ランキング1位に返り咲いたニュージーランドだ。
言わずと知れた地球上最強のラグビーチームである彼らは走・攻・守すべてが一級品であり、加えて戦局に応じた自由自在なパス回しとキックを得意としている。日本が彼らに勝てたことは、有史以来一度として無い。
しかしフィジカルで問答無用に圧倒してくるスプリングボクスよりも、まだ戦術面でつけ入る隙のある分オールブラックスの方が日本にとっていくらか戦いやすい。俺たちはここで勝っておかないと、次はもっとしんどい戦いになる!
やがて相手チーム全員と握手を済ませる。いつもならここで、スタメンを外れたメンバーがすぐにベンチへ移動するところだ。
だが今日は違う。何せ相手はオールブラックス、お決まりのあれを忘れてはいけない。
ニュージーランドの選手31名が魚鱗の陣と同じ三角形に並ぶ。対面する俺たちも誰に言われるまでもなく、スコッドに入った23人全員で肩を組んで横一列に並んだ。
「くるぞ」
隣の中尾さんがぼそっと呟くので、つい俺は彼の肩を強くつかんだ。オールブラックス恒例のハカだ。
ニュージーランド代表選手たちが仁王立ちしてかまえる中、189cm145kgの巨体を揺らして右プロップのニカウが前に出る。いつもの温和な彼はどこへやら、プロになった後に施した両腕のタトゥーを見せつけながら瞳孔を大きく開き、足がすくむほどの殺気を放っていた。
水を打ったかのように静寂に包まれるスタジアム。ニカウはそれに応えるように息を大きく吸い込むと、叫んだのだった。
「Ho ri te!」
スタジアムに響く咆哮。他のオールブラックスメンバーも「Hi!」と呼応する。力強い男たちの叫び声に、観客は盛大な拍手を贈った。
だが一方の俺たち日本代表はというと、最初にニカウが声をあげたその瞬間に「ええ!?」と全員で隣の者同士視線を交わしたのだった。
「Kapa O Pango kia whakawhenua au I ahau!」
歌詞の意味はオールブラックスよ、国をひとつにさせてくれ、というもの。まさに自らを鼓舞するための戦士たちの儀式だ。
ニュージーランドには2種類のハカがある。「カマテ」と「カパオパンゴ」というもので、後者はワールドカップの決勝戦など100%本気で戦う時にしか使われない。
そして今俺たちの目の前で演じられているのは、まさしくその「カパオパンゴ」だったのだ。
日本がオールブラックスに「カパオパンゴ」を歌わせたのは、200年のラグビーの歴史の中で初めてのこと。言い方を変えれば日本代表は史上初めて、一切手加減無しのオールブラックスと戦うという意味でもある。
「ぞくぞくするな」
プレッシャーという言葉と無縁のはずの中尾さんの身体が、小さく震えていた。武者震いなのか、オールブラックスのウォークライに恐怖を覚えたのか、あるいはその両方か。
その後、俺をはじめとした控えメンバーがベンチに引っ込み、コートの上には日本代表の15人とオールブラックスの15人が残される。そしてホイッスルとともにボールが蹴り上げられ、決勝進出を賭けた戦いが始まったのだった。
「くそ!」
ロッカールームに帰ってきた途端、西川君は目についたベンチをガンと蹴りつけた。
だがその場にいた者は誰も彼を咎めようとはしなかった。彼が悔しがっているのは悔しがるほど相手と競り合えていたからではない、思い通りのプレーを何もさせてもらえなかった自分たちがあまりにも腹立たしかったからだ。
試合開始早々、ニュージーランドはフランス顔負けのパス回しを披露し、日本にボールを一切触れさせなかった。
まっすぐ向かってくるかと思えば後ろに、右に回すかと思えば左にと日本は終始翻弄され続け、自慢のスタミナも無駄に走り回されて消費させられてしまう。
途中でなんとか隙を突いたウイング馬原さんがトライを1本決めたものの、相手のラインアウトで押し込まれたのとエリオット・パルマーの独走でトライ2本を奪われ、前半終了時点でのスコアは17‐8だった。
後半からはそれまでプロップに入っていたフィアマルとテビタさんに代わり、俺と矢野君がコートに立つ。
テクニックで優るニュージーランドに対してフレッシュなフォワードをそろえた日本は肉弾戦を演じ、ラックでボールをつなぎながらじりじりと自陣を前に進める。
そしてある時、ラックから取り出したボールを回された坂本さんがニュージーランド陣内にスペースを見つけ、すかさずパントキックで相手の裏へとボールを蹴り込んだのだ。
いち早く飛びついたのはウイング馬原さんだった。
馬原さんは海外から『シンカンセン』と呼ばれる俊足を発揮し、ニュージーランドの選手たちを置き去りにしてコートを走り抜ける。
よし、独走ランだ!
誰もがトライを確信し、観客からも大歓声が湧き起こったその時、真横から飛び掛かってきたフルバックの全力のタックルを馬原さんはその身に受けてしまい、グラウンディングしようと前に突き出していたボールを手から滑り落としてしまったのだった。
落胆する観客の声に、俺たちも「そんなぁ」と肩を落とす。ここであと一歩を決めきれなかったことが影響したのだろう、ここから日本は肉弾戦でもニュージーランドに押し込まれる一方。結局80分の試合で俺たちが奪えたトライは前半の1本だけで、最終的に32‐11で敗れてしまったのだった。
イングランド、ウェールズと優勝経験のあるチームに連勝して、夢のワールドカップ制覇も視界に入ってきたところに、全力で頭を殴られたような気分だ。まだまだ世界トップとは実力の差はあると自覚していたものの、いざこうも現実を突きつけられるとへこむものがある。
だがこれで終わりではないのが準決勝だ。来週行われる決勝戦、その前日に開かれる3位決定戦で、俺たちは最終順位を決めることになる。
「最後の相手は……南アフリカか……」
誰かが呟いた途端、ロッカールームがしんと静まり返る。
2015年のワールドカップで、日本と南アフリカは歴史上初めて対戦した。そして日本が勝ってしまったことは、ブライトンの奇跡として今もラグビー関係者や古参スポーツファンの間で語り継がれている。
そして劇的な大金星から20年。日本はワールドカップでも親善試合でも、一度として南アフリカに勝つことができないでいた。
優勝を逃した相手のモチベーションがどの程度かはわからない。しかしそんな屈辱の歴史からか、20年経った今でも日本相手には最強メンバーをぶつけてくるのが南アフリカのやり方であり、2度もワールドカップの舞台で敗れることは彼らにとって何としてでも避けたい事態だろう。
「みんな、これから一週間、みっちり練習だ!」
やがて誰も口を開かない中で、テビタさんが立ち上がった。
「最後に負けて終わるのはもうコリゴリだからな。次は今日がかわいく思えるくらい、しんどい試合になるぞ!」




