第四十六章その2 キャプテン小森!?
「え、俺ですか!?」
自分を指さしてぎょっと固まる俺に、血まみれのテビタさんは小さく頷く。
「チームを支えるプロップとして、お前が他の選手をよく見てプレーを選択していることは皆もよく知っている。加えてレフェリーと交渉できる語学力も堪能だ」
テビタさんの横たわる担架が、メディカルスタッフによって担ぎ上げられる。だが140kg超の彼を運ぶのは相当骨が折れるのだろう、大の男4人がそれぞれ四隅をつかんで慎重に持ち上げていた。
「そして世界の強さを最も長く経験しているのもお前だ。お前ほどキャプテンにふさわしいヤツはそういない」
そう言い残してテビタさんはコートを去る。両軍の観客はその健闘を讃え、盛大な拍手を彼に贈っていた。
俺も他の選手たちと一緒にテビタさんを拍手で送り出すが、突如のキャプテン指名に頭がいっぱいで、とても今から気合を入れなおして切り替えようという発想に至らなかった。
当たり前だろう、俺はキャプテンの経験が乏しい。
試合中、ヘッドコーチがベンチに座らないラグビーにおいて、キャプテンはチームで最も権限と責任を持つ存在にあたる。レフェリーに意見を求めたり、判定について話し合えるのは15人の中でキャプテンただひとりだけだ。
クラブや学生時代で正規のキャプテンが退場した時、代わりに引き受けたことは何度かある。だがそれらはいずれもごく短い時間、それも片手で数えられる回数だけだった。
日本代表でもテビタさんがコートに立たない場合は、代わりに中尾さんや坂本さんといった国内リーグで活躍している選手がキャプテンを引き受けている。俺が日本代表でキャプテンを務めたことは一度として無い。
そんな経験の浅さで、本当に俺にキャプテンが務まるのか? しかもワールドカップで、よりにもよって超強敵イングランド戦で?
「ど、どうしましょう?」
声を震わせながら、俺は中尾さんと坂本さんを振り向く。だが当のふたりは互いに顔を合わせ、深く頷き合っていたのだった。
「小森君がキャプテンか。良い指名だと思う」
坂本さんが言うと、中尾さんも「だよな」と199cmの高さからこちらを見下ろす。
「俺もいつか小森ならキャプテンを任される日が来るだろうなとは思っていた。それが今日ってのは予想外だったけれども」
ええっ、何言ってんのこの人たち?
挙動不審に手を伸ばす俺を見て、坂本さんは「心配いらないよ、小森君のキャプテンシーは俺を超えている」と微笑みかける。
「ああ、しんどくなったらいつでも代わってやる。心してぶつかって砕けろ!」
中尾さんもそう励まし……ているのかこれ?
結局半分押し付けられるような形でキャプテンを引き継いだ俺は、レフェリーにその旨を伝える。レフェリーはそれを了承すると、先ほどテビタさんに突っ込んできた相手フランカーに向き直ってレッドカードを提示したのだった。
顔面蒼白のまま頭を抱える相手選手。だがこの裁定にはイングランドの仲間たちも仕方ないと納得するしかないようで、渋々レフェリーに従っていた。もちろんこのジャッジに関しては、観客からのブーイングも一切起こらなかった。
イングランド代表がひとり退場し、14人となった。これに伴った選手交代は無いようなので、相手はこれからスクラムを7人のフォワードで組むことになる。テビタさんには悪いが、日本にとってはまたとないチャンスの到来だ。
「まさかこんなに早く交代がくるなんて」
まだ心身の準備が整っていなかったのか、テビタさんに代わってコートに立った矢野君は動きがガチガチだった。
「ラグビーでこういうことは珍しくないよ、いつでも出られるように身体は常に温めとかなきゃ」
珍しく和久田君が注意を飛ばす。そのせいか、矢野君は余計に萎んでしまったようだった。
さて、試合は日本のペナルティキックで再開となるが、自陣からゴールポストを狙うのは必殺シュートでもない限り不可能だ。ここはラインアウトを選択するのが無難だろう。
キッカー坂本さんは呼吸を整えると、パントキックでボールを大きく蹴り上げる。飛び上がった楕円球はゆっくりと縦方向に回転しながら相手陣22メートルラインを越えると、ゴールより10メートルほど手前でタッチラインから外に出る。
「ほないくで!」
両軍が2列に分かれたところで、フッカー石井君が合図とともにボールを投げ入れる。それに合わせて俺と矢野君はふたりがかりで中尾さんの身体を空高へと素早く持ち上げた。
飛んできたボールを中尾さんはしっかりとキャッチする。そして彼がボールを抱え込んで地面に降り立つと同時に進太郎さんやクリストファーら日本代表フォワード全員が中尾さんの後ろにわっと集まり、総動員でモールを形成したのだった。
相手チームもこれを見越していたのか俺たちがボールをつかむと同時に7人のフォワードが結集し、一塊になった俺たちの前進を巨大な壁になって阻む。
ここはゴールも近く、トライを狙うのに絶好の位置。しかも相手フォワードはひとり少なく、押し合いになると人数で優る日本に分がある。
あとは押し込むだけだ! 俺たちは歯を食いしばり、全身の血液が沸騰するかと思うほど力を振り絞って抵抗する相手にプレッシャーを与えた。
だがどういうわけか、相手はまったく後退しない。全身あらゆる筋肉をフルパワーで稼働させても、相手フォワードは同等以上の力で押し返してくるのだ。
しかも驚いたことに、イングランド代表フォワードたちはまだ余裕があるようだった。全員190cm以上のフィジカルエリート、特にナンバーエイトのベンジャミン・ホワイトに至ってはうちのクリストファー・モリスが小さくに思えてしまうほどの益荒男だ。
正直侮っていた。なんて馬鹿力なんだ、イングランド!
一向に動かないモールに業を煮やしてか、レフェリーからボールを出すよう指示が出される。
「ダメだ、回そう!」
苦し紛れに絞り出した俺の声に、最後尾でボールを抱えていたスクラムハーフ和久田君が「よしきた」と飛び出し、逆サイドめがけバックスへとパスを回す。
自慢の弾丸パスは見事につながり、バックスの選手たちはひとり、またひとりとパスを回しながらゴールめがけて走り込む。
だがモールで押し通そうという作戦を急遽変更したことで、日本代表のポジショニングはいささか中途半端感がぬぐえなかった。結局途中で相手バックスに追いつかれてタックルを喰らい、止められてしまう。せっかくのチャンスを、俺たちはものにできなかったのだ。
逆にボールを奪ったイングランドは危険なキックを封印し、ヨーロッパ屈指のフィジカルでゴリゴリと日本の守備ラインを後退させていく。そして何度も受けては止めて、受けては止めてを繰り返すうちに、俺たち日本代表は自陣ゴールすぐ前まで押し込まれてしまっていた。
あと少しでも退いたらゴールという、まさに背水の陣の場面。そんなときにボールを回されたのは、よりにもよってイングランドの怪物ベンジャミン・ホワイトだった。
彼は目の前で和久田君が守っているにもかかわらず、ボールを抱え込んで身を低く屈めると、そのまままっすぐ突っ込んできたのだ。どうやら自分よりも体格の小さな彼を、弾き飛ばしてでもトライを決めようと考えたらしい。
だがこれしきの体格差でへこたれるほど、うちのスクラムハーフは甘くない。ベンジャミンよりもさらに低く屈みこんだ和久田君は、相手の腰にしっかりと腕を回してえぐり込むようなタックルを入れたのだった。
器用な和久田君だからこそ使いこなせるのがこの超低姿勢のタックルだ。一見不気味にも見えるこのプレーは、ラグビー選手としては小柄な彼があっけなく長身の相手をひっくり返すことからニンジャと呼ばれ恐れられていた。
しかしさすがはベンジャミン、重心を狙った和久田君のタックルを受けながらも、踏ん張って2本の足を折り曲げることなく耐えしのいだのだ。
だがこうなることはある程度予想していた。ベンジャミンの動きが鈍くなった今の内に、横は急いで彼に駆け寄り、そしてとびついた。さらに後ろには矢野君も続き、連続で身体をぶつける。
俺と矢野君の計260キロ超の重量にはベンジャミンも耐え切れなかったようで、彼はその場に前のめりで倒れ込むと、その場にボールを落としてしまった。
「ノックオン!」
レフェリーが試合を止める。なんとかノンストップの連続攻撃を終了させ、日本代表選手たちはほっと安心して息を吐いたのだった。
しかしここは自陣深く。日本ボールのスクラムで再開と言っても一切安心はできない。
「どないしよ? 相手は7人やけど、さっきのモールみたいに押し返されるかもしれへんで。さっさとバックスに回そっか?」
束の間の休息に浸っていたところで、石井君が話しかける。関西弁のおかげで陽気に思えるが、石井君は驚くほど冷静に試合の流れや相手選手の特徴を観察しており、その指摘も非常に有益なものばかりだ。
だが俺は「いいや」と首を横に振る。そして「このまま押し込んでいこう」と強く言い切ると、日本代表フッカーの顔を見つめ返した。
「イングランドはさっきまでフォワード中心の勝負を仕掛けてきたから、俺たち以上に疲れているはずだ。さっきは負けたけど、今なら勝てるかもしれない。人数の差は時間が経てば経つほどはっきり表れる」
目をぱちくりと瞬きさせる、驚いたような石井君の顔。そのつぶらな瞳に俺はつい吹き出しそうになりながらも、さらにこう続けた。
「それに俺、このメンバーで負けるとは思えないよ」
途端、石井君は「せやな」と試合中とは思えないスマイルを浮かべる。そして「みんなー!」と雄叫びで他のフォワードに呼びかけたのだった。
「このスクラム、気合入れていくで! キャプテンこもりんの初陣や!」
「おお、やってやらあ!」
「負けてられっかよ!」
続々と起こる仲間たちの声。スクラムひとつでここまで盛り上がるの、久しぶりかもしれない。
その後、俺の読みは的中し、このスクラムで日本は見事相手のコラプシングを誘った。そこからは坂本さんがペナルティキックでセンターライン付近まで丁寧にボールを蹴り戻し、日本はこの絶体絶命のピンチをしのいだのだった。
「ふう、なんとか抑えた」
ロッカールームのベンチに座り込み、俺はスポーツドリンクを喉に流し込む。
なんとも長い前半だった。慣れないことしたせいか、40分が倍以上の長さに思える。
前半は互いに0-0と、スコアレスのまま終わった。これといったミスも無かったので、俺の日本代表初キャプテンはなんとか務まっていると言ってよいだろう。
「それにしても……」
俺はボトルから口を離すと同時に、冷たい溜息を吐き出す。
本当に俺が、キャプテンなんかしててよいものだろうか?
今のところなんとか失点は防げているものの、得点も奪えていない。プール戦首位突破を目指す日本は、この試合を引き分けで終えるわけにはいかないのだ。
そんな大切な試合なのに、こんなペーペーがキャプテンだなんて……。
「小森、キャプテンやってみてどうだ?」
そんな俺の心情を察したのか、どこからともなく現れた中尾さんが隣に座り込む。
「ええ、プレッシャーで死にそうです」
「はは、誰だって最初はそういうもんだ」
「それはそうでしょうけど……なんで俺だったんでしょう? 正直な話、中尾さんや坂本さんみたいに経験豊富な方もたくさんいらっしゃるのに」
ほとんど恨み節のように聞こえるだろうが、これが今の俺の正直な心境だ。
「俺がキャプテンやってたのは、昔から周りより背が高くて目立つってたからってだけだ。シャイで繊細な俺は、本当の意味ではキャプテンに向いているタイプじゃない」
ぼりぼりと頭を掻いて答える中尾さんを、俺はじっと目を細めて睨みつけた。シャイで繊細とか、どの口が言ってんだか。
しかし彼は俺が自分でもわかるくらいに失礼なことをしているのを無視し、「なあ小森」と話を続けた。
「俺はお前ならこれから日本代表の正規キャプテンも務まるだろうと思っている。何せお前はキャプテンとして一番必要にもかかわらず、一番難しいことをあっさりとこなしちまっているからな」
「必要なこと?」
「ああ、でかい声で発破をかけるだけがキャプテンの仕事じゃない。かといって実力でも、語学力でもないんだ」
言いながら中尾さんは自分の胸をどんと叩く。
「みんなを、そして自分を信じることだ」
カッコついたでしょ、とでも言いたげにドヤ顔を決める中尾さん。
だが不運にもロッカールームはちょうど静寂に包まれていたところ。突如飛び出したいかにもなセリフに、周囲の選手たちは皆唖然として中尾さんに顔を向けていた。
周囲の視線を一身に受けた中尾さんはやがてぷるぷると震えだす。
「自分で言っといて……めっちゃ恥ずかしくなってきた」
そして両手で顔を隠すと、199cmの身体を小さくうずめてしまったのだった。




