第四十六章その1 1位を賭けて!
「うん、今朝シドニーに着いたよ」
イングランド戦の3日前、シドニー市内のスタジアムの屋外。練習の休憩時間に俺はスマホを耳に当てながら「そっか、ようこそオーストラリアへ!」と冗談ぽく言った。午前の練習を終えてスマホを覗くと、亜希奈さんから無事オーストラリアに到着したとメッセージが届いていたのだ。
「で、ホテルのチェックインは午後だから、今は荷物だけ預けて早速市内観光してるよ。オペラハウスではお父さんが『ここでゴジラがマグロ食ってるヤツを倒したのか』って感激しちゃってさ」
何それ、俺が知らないだけで一部界隈じゃ常識なの?
「あ、お父さん? ちょっと代わるね」
「太一くん、私たちまで誘ってくれてありがとう!」
スピーカーからの声が男のものに変わる。亜希奈さんのお父さん、つまり俺の義父に当たる人だ。
「いえ、楽しんでいただけているようで、僕としても嬉しいです」
すっかり慣れ切った様子で、それでいて畏まりながら俺は答える。
せっかくのワールドカップだからと、俺は南一家全員をオーストラリアまで招待していた。2つ年下の弟も現在は大学院1回生で、「姉ちゃんのお祝いだってのに学校なんて行ってられっか!」とゼミをサボってついてきたそうだ。
「これからどちらへ?」
「イングランド戦まではシドニーにいるけど、その後はオーストラリア各地を巡ることにしているよ。エアーズロックは死ぬまでに一度は見ておきたいからね」
広大なオーストラリアは都市も観光地もそれぞれが大きく離れている。移動には飛行機を利用しなくては、とてもではないがやっていけないだろう。
「いいですね、僕も試合が無ければついていきたかったですよ」
羨ましいなぁ。ラグビーワールドカップの会場はシドニーやメルボルンと南東部に集中しているので、大会期間中にエアーズロックのある内陸部まで俺たちが行くことは無い。
その後、電話を切った俺はスタジアム併設のクラブハウスの中に戻る。昼食を終えたメンバーが午後の練習まで仮眠をとっているのだろう、食堂にもロビーにも日本代表選手の姿はすっかり見られなかった。
俺も仮眠室へ向かうため、階段を上る。だがその途中、上のフロアから男の話し声が聞こえてきたのだった。
「ああ、バイバイ」
踊り場にいたのは、スマホを使っていたキャプテンのテビタさんだった。ちょうど通話を終えたところのようで、階段を上ってきた俺と画面をタップしながら目を合わせる。
「お、見られちまったか」
にっと笑うテビタさん。
「ご家族ですか?」
「ああ、そういうお前も婚約者だろう?」
俺はへへっと笑って返す。こんな疲れ切ったときに外に出るなんて、電話以外用が無いことはお見通しのようだ。
「小森、家族っていいもんだぞ。守るべきものがあると、どんな困難でも乗り越えてやるぜって思えてくる。俺がキャプテン続けられたのも、嫁さんとチビたちのおかげだよ」
彼の言うことは、俺もよくよく実感していた。亜希奈さんとの婚約が決まって以降、俺はさらにラグビーに対して真剣に向き合え、もっと強くならなくてはとより一層モチベーションを高めた気がする。
母は強しとはよく言うが、それは父も、子供がいなくても同じだろう。
「テビタさんもご家族が見に来られるんですか?」
「おう、今度のイングランド戦はみんなで見に来るぞ。家族の目の前であいつらの鼻をへし折ってやるのが今から楽しみだよ」
こういう物言いが実にテビタさんらしい。
「俺が出られるのはこのワールドカップで最後だろうからな。最近セットプレーがどんどん辛くなってきてな」
「そんな、まだまだ」
「いいや、わかるんだよ。口じゃ偉そうなこと言ってるが、実際身体はあちこちガタがきてる」
キャプテンの表情に哀愁が浮かぶ。激しい接触をともなうラグビーは選手生命がかなり短く、20代後半をピークにして以降は落ちていくというのが一般的だ。30歳を前後に引退を表明する選手も少なくない。
現在30歳のテビタさんはいわばギリギリの状態。経験と技術でカバーしてるものの、フィジカル面では前回大会より衰えていることは周囲の人間も薄々感づいていた。
「まだ頼りないところもあるが、次の大会までには矢野もしっかりと育ってくれているだろう。これで安心して引退できる」
どこか遠いところを見つめながら話すテビタさんに、俺は何と言うべきか言葉が思い浮かばなかった。そんな俺のことなど知ってか知らずか、キャプテンは改めて「小森」と呼びかけてきたのだった。
「次の日本のフォワードは、お前にかかってる。俺がいなくなった後、みんなを引っ張っていってくれ」
静かながら、物を言わせぬ威圧感とともに話すテビタさん。その姿を前にすると、俺は「はい」と答える他なかった。
ついにイングランド戦当日。
他の予選プールでは続々と順位が確定する中、最後に全勝同士の直接対決で決定するというドラマチックな展開は世界の関心を集めているそうで、オーストラリア国内のテレビ番組でもどちらが勝つかをコメンテーター同士が激しく言い争っていた。
「俺たちは実力の100%……いや、120%を絞り出さねば勝てないだろう」
試合直前、スタジアムのロッカールームで円陣を組みながら、キャプテンのテビタさんは訥々と語る。
「イングランドの目標は優勝だ、プールCで1位を取っておきたいのは相手も同じ。最強のメンバーを最高の状態でぶつけてくるはずだ」
選手たちは皆口を噤み、キャプテンの声に耳を傾けていた。この試合、楽なものにならないことは誰もが覚悟していた。
「だがそんなこと知ったこっちゃねえ、日本からやって来たみんなの目の前で勝ちを挙げて、1位で決勝トーナメントに乗り込むぞ!」
怒号のような掛け声とともに、「おお!」と声をそろえる選手たち。そして気合を高めた面々は、大歓声に迎えられてコートに入場したのだった。
2022年に建て替えられ、2023年の女子サッカーワールドカップにも使われたシドニー・フットボール・スタジアムの4万5000の観客席は、日英両国のファン、そして地元住民や世界のラグビーファンが押し掛け残らず埋め尽くされていた。
今日、このどこかに亜希奈さんがいる。そう思うと俺はコートに立っているにもかかわらず、観客席をきょろきょろと見て彼女の姿を探してしまった。
「あ!」
ふと最前列で日本代表のジャージを着た女性の姿が目に飛び込む。赤子と3歳くらいの男の子を連れているのは、テビタさんの奥さんだ!
反射的に、俺はちらりとテビタさんに目を向けた。そこにあったのは愛する家族が見守る中、闘志をむき出しにして相手選手たちをにらみつけるテビタ・カペリの姿だった。
そして各人がポジションに就くと、日本のキックオフでイングランドとの試合が始まった。
さすがはイングランド、試合開始早々激しい当たりで日本をじりじりと後退させる。そうやって日本選手を引き付けながら、時折背後にキックを蹴り込んではバックスやフランカーを走らせて一気に攻め込むというのが彼らの戦術だった。
作戦としては非常にシンプル。だがそれゆえに身体をぶつけて対処するしかないという、高い実力を前提とした戦い方だ。日本は蹴り込まれたボールを相手よりも先に確保し、その後素早く攻撃につなげることが肝要だった。
相手の猛攻をしのぎながら、なんとかボールを奪っては前進する日本。試合は0-0のまま、前半10分を迎えていた。
「いいぞ、我慢比べは日本の方が上だ!」
試合中聞こえてきたテビタさんの激励に、俺たちのやる気も俄然高まる。超強豪イングランド相手に、日本は互角に渡り合えていた。
だがその直後のことだった。
ボールを確保していた相手が、日本の守備ラインの裏めがけて山なりのパントキックを蹴り込んだのだ。本来ならばもっと飛ばしたかったのだろう、ボールは高く上がったものの距離は出ず、落下地点の近くにいたテビタさんは守備ラインから後方へ飛び出すと、ジャンプしながらキャッチしたのだった。
しかしその時、ボールを確保せんと全速力で走り込んできた相手フランカーが、背を向けたテビタさんと激しくぶつかってしまったのだった。
「あ!」
ほんの一瞬の出来事なのに、まるでコマ送りの映像を眺めているかのようだった。空中に跳び上がっている最中に背中から相手の突進を受けたテビタさんはパチリと目を開き、何もできぬまま身体を傾ける。やがて彼の巨体は、顔面から芝に倒れ込んでしまったのだった。
どよめく観客。レフェリーも即座に試合を中断させると、選手たちは敵味方関係なくテビタさんの周りに駆け寄った。
「おい、大丈夫か!?」
「しっかりしろ!」
うつ伏せになったままピクリとも動かないテビタさんの身体を、俺たちはそっとひっくり返す。
「う!」
周囲の選手たちが思わず口を塞いだ。うつろな目をしたテビタさんの頭部からは、真っ赤な鮮血がどくどくと流れ出していたのだ。
「急いでメディカルスタッフを!」
坂本さんが声をあげるとほぼ同時に、レフェリーは無線で連絡を入れる。大なり小なり試合中の怪我が多いのがラグビーだが、それでもこの怪我はかなりひどいものであると誰もが一目で判断がつくほどだった。
「テビタ、聞こえるか!?」
仲間の必死の呼びかけに、テビタさんはようやく瞬きをしながら「お、おう」と弱く答える。意識はあるようでほっとしたが、それでも予断は許されないだろう。
俺はちらりと観客席に目を向けた。この位置からではよく見えないが、テビタさんの奥さんも今は肝をつぶされるような気分で見守ってくれていることだろう。
「この調子だと俺は今日もう無理だ……矢野を入れてくれ」
「はい、わかりました。テビタさん、今はあまりしゃべらないで」
運ばれてきた担架にテビタさんの巨体が移される。その隣に付き添いながら、坂本さんは声をかけ続けていた。
「小森」
だがそんな坂本さんの忠告を無視して、テビタさんは一際大きな声で俺を呼んだのだった。
「お前に頼みがある」
激痛に顔を歪めながらも必死で訴える鬼気迫る表情。その圧倒的な気迫に、周囲の者は身体に障るからと野暮なことは誰一人言えず、俺自身も「何でしょうか?」と尋ね返すしかなかった。
「お前が一番適任だ……この試合、俺の代わりにキャプテンを頼む」




