第四十三章その7 夢の決着
試合が再開しても、パープルバタフライズは相変わらずボールをキープし続けていた。
石井君や中尾さんが守備ラインを押し下げ、時にバックスに走らせて俺たちにプレッシャーを与え続ける。前に進むことよりも、まずはボールをしっかり確保する。今のパープルバタフライズの戦法は、前半の俺たちそのまんまだった。
このまま試合終了まで時間を稼ぐつもりだろう。この状況を打破するには、まず相手からボールを奪うしかない。
そんな中、ボールを受け取った秦亮二がタッチライン近くへ走り込み、得意のステップですいすいとユニオンズの選手をかわして守備ラインを切り抜けた。
すぐさまユニオンズゴール前からフルバックとウイングのふたりが駆け上がり、亮二と対峙する。ここで彼を食い止めなくてはまたしても失点を招いてしまうと、バックス陣は必死だった。
一方の俺は、そんなバックスの背後めがけて走り込んでいた。幸いにも俺の守っていた位置から今のボールの位置は、そう離れておらず、俺の鈍足でもそこまで時間はかからない。
今現在、秦亮二の近くにパープルバタフライズの選手はいない。そうなると彼はこの守備を単身で突破せねばならず、持ち前のフットワークでかわすか、キックで選手たちの隙間にボールを通さねばならない。
だが日本代表で長いこと一緒だった俺ならなんとなくわかる。亮二ならこういう状況の時、キックを好んで選択するはずだ!
読みは当たった。亮二はユニオンズバックス陣とぶつかる直前にボールを足元に落とし、芝の上を転がるグラバーキックを繰り出したのだ。
楕円球が地面を低く跳ね、ユニオンズ選手の間をすり抜ける。後逸した選手が慌てて方向転換するもすぐに亮二に追い抜かれてしまい、先にボールを拾われてしまったのだった。
しかしいくら素早さに長けたファンタジスタでも、キックと拾い上げを行なっていると多少足を緩めねばならなかった。最初からこうなるだろうと目星を付けてトップスピードで駆け込んでいた俺は、ボールを抱え込んだばかりの亮二に真横から身体をぶつけた。
亮二も俺がここにまっすぐ走って来るとは予想していなかったようだ。1.5倍はあろう体重差の前に俺は抵抗さえ許さず、ボールを抱え込んだままの亮二を横綱相撲がごとくタッチラインの外へと押し出したのだった。
「やったぞ小森!」
失点の危機を脱したことで、劣勢のままにも関わらずチームメイトは俺に拍手を向ける。ハミッシュも普段は見せないような安堵の顔を見せ、「良い判断だ、お前が味方で良かったよ」と親指を立ててくれたのだった。
その後のラインアウトでもボールを確保したユニオンズは、素早くウイングのエリオット・パルマーへとパスをつなぐ。
今まで散々攻め込まれ続けた腹いせとばかりに、守りの薄い逆サイドをだっと駆け抜けるエリオット。一気に敵陣まで侵入した彼は、オールブラックス随一の俊足とフットワークで相手ウイングを振り切ったのだった。
だがまたしても、ゴール前を守っていた西川君が最後に立ちはだかる。彼は自身も全力で駆けながらエリオットの足の向き、視線、手の動きまですべてを注視し、次にどう動くのかを丁寧に見極めていた。
ラガーマンとしてはやや細身ながら卓越したフィジカルの持ち主である西川君だが、その最大の武器は相手の動きを先読みし、即応して身体を動かせる観察眼と反応速度だ。大男ぞろいのラグビーの世界において彼以上の運動能力を持つ選手は決して珍しくないものの、それでも西川君が他の追随を許さないのはこのどんな相手にもすぐ対応してしまう驚異的な順応力のおかげだろう。前の人生でもハマの点取り屋としてホームランを量産できたのは、筋力以上に投手の配球を見抜くセンスがずば抜けていたからに他ならない。
エリオットの俊足か、西川君の鉄壁か。両者互いに全速力で距離を詰めながら、ぎろりと鋭い視線を交わす。
「エリオット!」
だがそこに思いがけぬ横槍が割り込んだ。
なんとラインアウトに参加していたハミッシュ・マクラーセンがセットプレーの終了と同時に全力でエリオットの近くまで駆け上がり、彼のやや後ろすぐの位置までつけてきていたのだ。ついさっきまで俺といっしょに逆サイドで並んでいたのに……うちのナンバーエイトの最高速度はバックスでも目を見張るレベルの猛スピードだった。
西川君と一対一の勝負を挑むかと覚悟していたであろうエリオットは、すぐさま狙いを切り替える。西川君を引き付けたところで、ふっと斜め後方のハミッシュに楕円球を投げ渡したのだ。足を一切を緩めずに走り込んでキャッチしたハミッシュは、スピードに乗ったまま110kgの身体でまっすぐゴールを目指す。
だがさすがは西川君、彼はハミッシュにボールが渡された瞬間にステップを踏んで進行方向を切り替え、ゴールに走り込むハミッシュに渾身のタックルを喰らわせたのだった。フルバックの強烈な一撃にハミッシュは顔を歪めるも、それでも前進を止めはしなかった。
ハミッシュは腰に腕を回す西川君を引きずると、最後はゴールの白線の上に倒れ込んでボールをグラウンディングさせたのだ。堂々のトライ成功、試合終盤の値千金の得点だった。
「いよっしゃあああ!」
沸き立つ観客、選手たち。ピンチでしっかりと決めたスーパースターの偉業を、俺たちは手放しで称賛する。
その後のコンバージョンゴールも成功し、スコアは17-16でユニオンズが逆転。そこから両軍とも得点は得られず、プレーオフ準決勝は無事終了したのだった。
試合後の懇親会、クラブハウスで開かれたアフターマッチファンクションは今日の激闘を両軍がたたえ合う非常に和やかなムードに包まれていた。
「小森ぃ、お前またまた重くなりやがって。お前のおかげでどれだけのラガーマンが泣いたと思ってるんだこの野郎、相撲部屋に弟子入りするつもりか?」
ビール片手に俺の腹をつんつんとつつく西川君。見た目の割にあまり酒には強くないようで、日焼けしたように赤くなった顔をとろけさせていた。
「おい西川、だいぶ酔いが回ってるぞ。ほら、茶でも飲んでアルコールを薄めろ」
「あ、どうも進太郎さん……て、これウイスキー!」
普段は絶対に見ることのできない西川君のノリツッコミに、周りの選手たちはぎゃははと声をあげて笑う。ちなみにすでに酔っている人に余計に酒を与えると大抵ろくでもないことにしかならないので、絶対にマネしちゃダメだぞ!
そんなこんなで敵味方分け隔てなく仲良く話す選手たち。だがその時ふと視線を変えた俺は、周りのメンバーのことなどまるで目に入っていない様子でひとり壁にもたれかかる和久田君を見つけたのだった。
和久田君は何度も首を振ったり足を鳴らしたりと落ち着かないようで、何杯もグラスを傾ける。そしてもう片方の手には、まるですがりついているかのようにしっかりとスマホが握られていたのだった。
そんなこの場にあまりにも似つかわしくない様子だったので、俺以外にも不思議に思う選手はいたようだ。そしてちょうど前を通りがかったローレンス・リドリーが上の空な和久田君に気付くと、その顔を覗き込みながら首を傾げて尋ねたのだった。
「和久田、どうしたんだ? さっきからそわそわして」
「うん、実は今日……」
学生時代のキャプテンの呼びかけに、和久田君が口を開いたその時だった。彼の握りしめていたスマホが、突如振動し始めたのだ。そしてローレンスのことなどまるで無視するかのように、電光石火の手さばきで画面をタップする。
「う……」
和久田君の手からグラスが滑り落ちる。ガラスの割れる甲高い破砕音が会場に響き、和気藹々と談笑していた他の選手たちも皆一様に話を中断して和久田君に目を向けたのだった。
何事だ!?
たちまち不穏な空気に包まれる。だがそんな心配は杞憂に過ぎなかった。
「生まれた!」
どっと大粒の涙を流しながら、和久田君がスマホの画面をローレンスに向ける。
急いで駆け寄った俺たちが見たものは、くたくたに疲れきって病院のベッドに横たわったままにこりと微笑むアイリーンの姿、その隣には生まれたばかりのしわしわの赤ん坊が、産着にくるまれて寝かされていた。
「3200グラムの男の子だってさ!」
そう、去年結婚した和久田君は、つい先ほど父親になったのだった。6月が出産予定だとは聞いていたが、よりにもよって今日だったなんて。
この吉報には日本だけでなくニュージーランドの選手たちも大いに感激し、本日一番の拍手と歓声で息子の誕生を祝ったのだった。
「おめでとう!」
「これで秀明もパパの仲間入りだな」
「奥さんも子供も、大切にしてやるんだぞ」
「うん、ありがとう、みんなありがとう!」
涙でぐしゃぐしゃになった和久田君はみんなから手を引っ張られる。そして気が付けば大男たちから胴上げされ、会場の宙を舞っていたのだった。
もちろん俺もこのバカ騒ぎの一員に加わる。かけがえのない仲間に幸福が訪れることが、自分にとってもこんなに嬉しいことだなんて思いもしなかった。
3回ほど和久田君の85kg超の身体が投げ上げられ、祝いの胴上げが終了する。そこからはすでに子供のいる選手たちが集まって本日デビューの新米パパに子育てについてのアドバイスを送る。そんな先輩たちのありがたい言葉を、和久田君はうんうんと頷き返して真剣に耳を傾けていた。
「ああ、俺も早く結婚してぇ」
そんな3学年下の和久田君を尻目に、ビールをがぶがぶと飲み干した進太郎さんがアルコール臭い息をまき散らす。
「兄貴は先に相手見つけろよ。その顔見ても逃げていかないような奇特な人を」
そして毎度のことながら、弟の亮二から辛辣なコメントが跳ね返ってくるのだった。そういえば進太郎さん、少し前まで帝王スポーツの山倉さんに積極的にアプローチ仕掛けてたみたいだけど……あれ、どうなったんだろう?




