第四十一章その3 ここが総力戦
「ワールドカップで決着とか、運命じみたものを感じるな」
入場前、相手センターのスティーブン・ニルソンもやる気十分といった様子だ。決勝トーナメント初戦を控えたオーストラリア代表ワラビーズの士気は高い。
格下と思っていた日本に6か国対抗戦で引き分けに持ち込まれたのは、オーストラリアにとってどれほどの屈辱だったか。おそらくは地元のメディアから散々な扱いを受けたことだろう。その悔しさを晴らすため、国民の失望を招かないためにも、日本に大差で勝利することは歴史あるワラビーズの絶対事項だった。
5万の観客に見守られながらのキックオフで始まってからというもの、試合はオーストラリアの長い長いボールキープが続いていた。
「パス!」
「ほらよ!」
あっちかと思えばこっちに、追いついたと思えばすぐに後方に。オーストラリアは完璧とも呼べる素早いパス回しで、俺たちにタックルの狙いを定めさせないでいた。
「そこだ!」
相手の動きを読んだ中尾さんの鋭いタックルがついに決まった。199cmの長身の直撃を受け、ボールを抱えていた相手選手の身体がぐらりと傾く。
しかし地面に倒される直前、相手は絡みつく中尾さんの腕から逃れるように身体をひねらせると、後方から走り込んできたスティーブンに向かって強引なオフロードパスを送ったのだ。
力なく投げ出されたボールを、駆け付けたスティーブンがしっかりと受け止める。そしてもつれ合う二人の脇を全速力で通り抜け、日本の守備ラインを突破したのだった。
直後、ゴール前を守っていたウイングとフルバックがダブルタックルで食い止める。なんとかトライは防いだものの、ほんの一瞬のスキを突かれた日本は一気に自陣深くまでボールを運び込まれてしまった。
「良くやった、スティーブン!」
追いかけてきた仲間がラックを形成し、地面に置かれたボールをワラビーズが守る。日本は彼らの足先や視線の動きを注視しながら、ゴール前まで下がって戦列を整えた。
相手スクラムハーフによりつなげられたボールをキャッチしたのは、身長205cmはあろうオーストラリア代表ロックだった。彼はその巨大な体躯をスピードに乗せて突進をしかけるも、すかさず飛びついた日本代表選手ふたりがかりのディフェンスに阻まれてしまう。
だが他の相手フォワードも素早く集まり、日本ゴールすぐ目の前という危険な位置でオーストラリアボールでのモールが出来上がってしまったのだった。
急いで密集に参加した俺は、地面にずんと根を張ってオーストラリアのプレッシャーを押し返す。だがゴールまであと少しまで迫っている相手の覇気は、日本をはるかに上回っていた。身長190cmを優に超える男たちが結集させた凄まじいまでのパワーに圧倒され、俺たちの足元でべりべりと芝生がめくりあがる。
必死の抵抗も虚しく、10人以上が群がったモールはじりじりと日本ゴール内へと押し込まれてしまった。そして白線を越えると同時にボールを持っていた選手が崩れ落ちるようにグラウンディングを決め、日本は先制トライを奪われてしまったのだった。
前半が終わった頃、スコアは11―3になっていた。当然、リードしているのはオーストラリアだ。
「8点かぁ……そんなに大きな点差ではないんだけれども」
ドリンクから口を離して俺はひとり呟く。
「時間が経つにつれて日本の守備が堅くなってるな。トライ取られたのも最初の1本だけだ、後半いけるぞ!」
前半の激しい攻防戦でへとへとに疲れ果てている選手たちに、キャプテンが声をかけて励ます。
だが、そう振る舞う本人の眼は少しも笑っていなかった。
トライ1回では追いつかない8点という差。ラグビーなら接戦と言える程度の差だが、オーストラリアから1本でもトライを挙げることの難しさは全員が痛感している。それはキャプテンとて同じだった。
やはりオーストラリア代表ワラビーズの強さは別次元だ。しかも今日のスコッドは次のニュージーランド戦を見据えてか一部の主力選手が登録されておらず、スタメンも控え選手が中心と万全の構成ではない。
一方の俺たちは現時点で最強の布陣を敷いており、次戦のことなど考える余裕すらない。とりあえず今日のこの勝負に勝つことだけに注力している。前半だけでも調子が悪いと思った選手は遠慮せずに交替している。
ぶっちゃけた話、仮にここを突破できたとしても、次の試合の結果は目に見えていた。
この人生最大の山場において、日本代表として最後の試合という覚悟で挑むキャプテンの姿を見ると、胸が何かにつかまれたかのように痛み出す。
ジェローン・ファン・ダイクという南アフリカからはるばるやってきたナンバーエイトの名を、なんとしても後世に残したい。瞬間的に、そんな想いがどっと押し寄せてきたのだった。
「亮二」
俺は近くで汗を拭っていたセンターを呼んだ。
「タイミングが来たら、キック出すけどいいか?」
亮二のドリブルが実戦に通用するレベルまで高められているのか、俺も把握しきれていない。だが、この膠着状態を打ち破るには、彼の新しいスキルは必要だった。
「いいぞ、いつでも来い」
亮二の返答には、一瞬のためらいも無かった。彼はすでにドリブルを成功させるだけの自信を備えている。
「ありがとう。ここぞって時、頼んだよ」
「任せとけ」
俺たちはぐっと拳を突き合わせる。チャンスは数少ないだろうが、必ず巡ってくると信じて。
そして後半が始まる。日本はフッカー石井君など消耗の激しいフォワード3名を入れ替えたフレッシュな顔ぶれだが、オーストラリアは次戦ニュージーランドに備えてかプロップを1名交替させたのみだった。
試合が再開するなり、オーストラリアは得意のパス回しに体格自慢のフォワードの縦へのアタックを交えた多彩な攻撃で俺たちの体力をじりじりと奪う。
だがこういった展開は覚悟の上、強豪国の多彩な攻撃展開に対抗するために日本にできることはただひたすら走って食らいつくのみ。それを成し得るスタミナを獲得するため、俺たちは世界一過酷という地獄の日本代表合宿をこなしてきたのだ。
そして10分ほど経った頃、相手選手たちの足が鈍り始める。次戦のことも踏まえてメンバーを絞らざるを得ないオーストラリアの運動量は目に見えて落ちていた。
これは良い流れだ。このまま日本が粘り続ければ、ワンチャン追いつけるかもしれない!
ついにチャンスは訪れた。オーストラリア陣内でパスを回していた相手に進太郎さんが鋭いタックルを入れた際、相手選手の手からボールがこぼれ落ちてしまったのだ。
「ノックオン!」
「進太郎さん、ナイスゥ!」
日本の誇る猛獣に、チームメイトから賛辞が贈られる。
やや距離はあるものの、ゴールを狙えない位置ではない。このスクラムでボールを確保できれば、一気に逆転を手繰り寄せられる。
「クラウチ、バインド……」
スクラムを組む8人と8人。レフェリーの声を聞き漏らすまいと、全員が呼吸を止めて耳を研ぎ澄ませた。
「セット!」
途端、爆発的なエネルギーが炸裂する。総重量900kg近くの勢力同士がフルパワーでぶつかり合うこのスクラムは、自動車の正面衝突にも匹敵していた。
和久田君がボールを転がし入れた直後、オーストラリアのプレッシャーが1段階、いや、2段階増す。やはり相手のスクラムは強烈だ。こちらのボールを奪い取らんとエンジンを全開にして日本を押し込む。
だが相手がこう来ることはわかっていた。フォワード8人は奥歯が磨り減らんばかりに力を込め、ぐっと足を突っ張って踏ん張り耐える。その間に後半から入ったばかりのフッカーが見事な足さばきでボールを後ろに送り、俺たちはマイボールをものにした。
ここからスクラムハーフが拾い上げ、パスでつないでトライを狙おうと、普通のチームなら考えるところだ。だが、俺たちは格下ながら勝つためなら何でもやる覚悟、普通のことをしていてはとてワラビーズには及ばない。
「せーの!」
次の展開に備え、オーストラリアの力がわずかに緩んだその瞬間を俺たちは見逃さなかった。フッカーの掛け声に合わせ、ここまで堪え忍んでいた日本代表フォワード8人が出し惜しみしていたすべての力を爆発させる。
日本代表の力がひとつになった。突如はね上がったプレッシャーにオーストラリアは不意を突かれ、大きく姿勢を乱す。そしてとうとう、相手右プロップの膝が崩れ芝に触れた!
「ニーリング!」
反則が言い渡された瞬間、俺たちはスクラムを解いて「よっしゃあ!」と叫び喜んだ。ワラビーズ相手にスクラムで押し勝つ、これ以上の名誉はフォワードにとってそうそう無い。会場からも大喝采と「ジャパン、ジャパン!」のコールが湧き上がっている。
逆にオーストラリア代表はまさかそんなと頭が理解を拒んでいるかのように呆然としていた。比較的平静を保っている者であっても、焦りと苛立ちが宿った表情を浮かべて芝を強く踏み荒らしている。
その後、キッカーのスタンドオフはゴールまで40メートル近くあるものの、落ち着いてペナルティキックを蹴り入れたのだった。
これでスコアは11-6になった。1トライで追いつくどころか、コンバージョンゴールも含めれば逆転という僅差。
今ので流れが完全にこっちに傾いた。この試合、勝てる!




