第四十一章その1 閃きはビール祭りの中で
幸いにも決勝トーナメント1回戦の会場は、フランス戦と同じダブリンのアビバ・スタジアムだ。移動によるタイムロスを免れ、その分の時間を練習に充ててオーストラリア戦に備えることができる。
「いくでー!」
石井君の呼び掛けの後に、ボールが投げ入れられる。
フランス戦の翌日、俺たちはラインアウトで競り負けないよう連携の確認を行なっていた。オーストラリアは南アフリカほどではないが、フィジカル自慢の選手が多い。自分たちよりも体格が上の相手の場合、こういったセットプレーでボールを奪われてしまうのが怖い。
俺たちが決勝トーナメントに賭ける想いは、並々ならぬものがある。2019年大会で初めて予選プールを突破してからというもの、日本代表は1度として決勝トーナメント初戦を勝ち抜いたことが無いのだ。
元々実力差の表れやすいラグビーという競技、チーム数を絞られれば格上とぶつかる可能性が極端に高まるのは必定。決勝トーナメントに残るチームは、上澄みの中のさらに上澄みだ。
事実第1回大会から連続で出場している超強豪アイルランドも、決勝トーナメントで初めて1勝を挙げたのは2023年フランス大会だった。実に10度目の出場にしての快挙、それほどまでにワールドカップの決勝トーナメントとはハイレベルな世界なのだ。
「試合をこなしているおかげで、セットプレーは大会前よりだいぶ磨きがかかってきたな」
練習の傍らで、ヘッドコーチが腕を組みながら頷く。
「だが……まだ攻撃面に難がある。プール戦で4トライを奪えたのはウルグアイ戦だけだったからな」
だがすぐに指摘され、フォワードの面々はうっと苦い笑いで顔を強張らせてしまうのだった。
オーストラリアがとんでもなく強いことくらい、6か国対抗戦で嫌になるほどわかっている。総合的にはウェールズやフランス以上、イングランドと同格といったところだろうか。
そんな彼らと俺たちの最大の差は、多彩な選択肢から生み出されるバラエティ豊かな攻撃、そして得点力だろう。
「フィジーやフランスみたいに、素早くて効果的なパス回しができればなぁ」
もっとスピーディーにボールを前へと進められないものか。選手もコーチも、残された時間で今の自分達に何ができるものかとあれこれ考えるものの、これといった答えを出せないでいた。
その夜、ホテルの俺の部屋では和久田君、石井君、亮二の同学年ズが集まってアイリッシュビール祭りが催されていた。
「兄貴のイビキがうるさくてさ。昔は道路工事のドリルくらいだったのが、今じゃジェットエンジンみたいな音にランクアップしてんだぜ」
そう話す亮二に石井君が「昔も大概やろ」と間髪入れず突っ込む。亮二は兄の進太郎さんと相部屋のようで、ホテルの部屋割りを知った時には絶望にうちひしがれていた。
各人がベッドや椅子に腰掛け、他愛もない会話に興じる。長期戦のワールドカップでは、こういったおふざけも時には必要だ。
「さてお待ちかね、スポーツニュースの時間だぁ!」
突如流れる陽気な声に、瓶ビールを持つ全員が目を向ける。つけっぱなしのテレビからだ。
映されたのはサッカーの試合、その得点シーンだった。今日はラグビーワールドカップの試合が何も行われなかったので、トップニュースをサッカーに奪われてしまったようだ。
アイルランドではサッカーのプロリーグが毎年2月から10月まで開催されている。今はちょうどシーズン終盤で、順位決定まで最後の大詰めといったところだ。
巧みなドリブルで敵を置き去りにして、ゴールまで突っ走る選手。そしてゴール前で敵のディフェンダーの妨害を掻い潜り、最後にはシュートを決めてしまった。
「かっこいいなぁ」
何気なく俺はボソッと呟く。やっぱフットボールで目立つのは得点を奪える選手だよ。
「あ!」
だがその隣で、何かに気付いた和久田君がばっと立ち上がる。
「小森君、ちょっとパソコン借りるね!」
「あ、うん」
検索履歴さえ見なければ別にいいよ。俺が言うより先に、和久田君は机の上のノートパソコンを開いていた。
「ほら、これ見てよ!」
彼が見せてきたのは動画投稿サイトだった。そこに映っているのは、試合前のハカを披露するニュージーランド代表オールブラックス。今大会予選プールでのアイルランド対ニュージーランド戦の一幕だ。
力任せのアイルランドに自陣まで押し込まれるニュージーランド。そこでタックルで倒された相手からボールを掠め取り、黒一色のジャージの選手がアイルランド陣方向へと飛び出す。
コートの上を独走するのは世界のスーパースター、ハミッシュ・マクラーセンだった。だがその後方からは凄まじい勢いで2人のアイルランド選手が追いかけてきており、さらに行く手にも相手バックス陣が待ち構えている。
ボールをしっかりと抱え込んでひた走るハミッシュ。だが追っ手の足はいずれも彼を上回っており、その差はどんどんと縮まっていった。
そしてついにアイルランド選手の伸ばした手が、ハミッシュの背中に届かんというまさにその時だった。
ハミッシュは足元にボールを落とし、なんと楕円球を前へと蹴り転がしたのだ。
ボールは芝の上を跳ねながらもまっすぐ転がり、相手バックスの脇をすり抜ける。そしてゴールライン直前でボールに追いついたハミッシュはそれを拾い上げると、飛び込んでグラウンディングを決めたのだった。彼は単騎70メートル以上をランとキックで取り返し、さらにトライまで成功させてしまったのだった。
「プール戦のベストトライって言われてるね、これ」
「やっぱハミッシュは次元がちゃうで」
あまりの見事なテクニックに、俺たちはただ感心して息をのむ。
「だろ? で、これができたら日本の攻撃ももっと早くならないかな?」
和久田君の提案に、俺たちはきょとんと目を丸めた。たしかにこれができれば縦方向への移動は飛躍的にアップするが……。
「そりゃそうだけどさ、これあと1週間じゃできないでしょ」
俺はうーんと唸りながら首を傾ける。
ラグビーボールであっても、ハミッシュが成功させたようにドリブルは可能だ。ボールを蹴りながら地面の上を転がし、それを追えば良い。目の前の敵を出し抜くときや、タックルを受けそうになったときの緊急回避に非常に有効だ。
ただ、このプレーはめちゃくちゃ難度が高い。形が形だけにボールコントロールがすこぶる難しく、すぐに明後日の方向へとバウンドして転がってしまう。
使われるとすれば、キックとスピード両方に自信のある選手がここぞという場面で隠し球として繰り出すくらいだろう。失敗したときのリスクも大きいので、1点でも守り抜きたい格下のチームがすすんで用いるのは賢明ではない。堅実な攻めを旨とする日本代表には、このプレーの得意な選手はいなかった。
「おもしろそうだな」
だがそこに自ら乗っかったのは、センターの秦亮二だった。
「正気かよ?」
「どうせ当たって砕けろのオーストラリア戦だ。足掻けるだけ足掻いてみるのも、オツなもんじゃないか?」
またワケ分からないことを。
しかし呆れる俺を宥めるように、「まあまあ」と石井君が割り込んできたのだった。
「亮二ってあんましキックしてるイメージ無いと思うけど、実はめっちゃ上手いんやで。中学ん時にフルバックやらへんかって言われたことあったらしいし」
「そうなの?」
俺は訝しげに尋ね返す。
ここ一番で亮二が効果的なキックパスを決めているのは何度も見てきたが、彼の真骨頂は研ぎ澄まされた反射神経と巧みなフットワーク。相手のタックルを寸前でかわし、自分よりはるかに大柄な相手をすり抜けるランニング能力が最大の武器だ。
元々並外れた突破力を備えているため、彼にとって危険なキックを選択する必要性は無かった。
だがそんな秦亮二でも、ワールドカップの舞台ではまだまだ凡庸な選手。このことは誰よりも彼自身が、最も実感していることだろう。
「やってやろうじゃん」
甘いマスクに似合わず元来好戦的な亮二だ。より一段階上に到るための近道を見つけたその目には、試合直前と同じ決意の炎が宿っていた。




