第四十章その4 歴史を塗り替えろ!
予選プール最終戦であるフランスとの試合まであと3日。すでに戦地であるダブリンまで移動していた俺たちは、来たるべき一戦に向けて最後の追い込みに勤しんでいた。
「ほらほら、そんなんじゃフランスの展開の速さにはついていけないぞ!」
ヘッドコーチの叱責を受けながら、黙々とシャトルランを繰り返す。機動力で勝る彼らに最後まで食らいついていくには誰にも走り負けないスタミナ、そして押し負けないフィジカルが必要だ。
フランスは出だしこそ手間取っていたものの、試合を重ねるうちに本来の調子を取り戻していた。初戦でフィジーにドローに持ち込まれてしまった彼らとは、完全に別のチームだ。本来の実力で言えば日本を上回っているだろう。
「あーくたくた」
練習を終えたその日の夜、俺は部屋での一休みを終えて食堂へと向かっていた。
エレベーターを降りた時のことだった。ロビーのソファに、和久田君と石井君、中尾さんの3人が並んで腰かけていたのが目についたのだ。
選手同士仲が良いのが日本代表だが、どうも様子がおかしい。真ん中に座る和久田君のスマホを覗き込むように、石井君と中尾さんが両サイドに腰かけている。そして画面を見つめる石井君は口を尖らせ、中尾さんは嫌悪感を露わにし、和久田君は泣き出しそうなほどに悲しんでいた。
「どうしたの?」
近づいて声をかける。顔を上げた和久田君は「あ、小森君。見てよ、この書き込み」とスマホの画面をこちらに向けた。
それはワールドカップに関するニュース記事だった。日本代表の予選プール突破条件を説明したコラムだが、そこには読者からのコメント投稿欄が併設されている。
「一番上のコメント、読んで」
途切れ途切れに言う和久田君に従い、和久田君はすっと画面をスクロールさせる。そして目に飛び込んできた書き込みに、俺は「え!?」と思わず声をあげてしまったのだった。
『日本とフランスがドローになれば、両方に勝ち点2が入って予選突破できるんじゃね? どうせフィジーは南アフリカに負けるだろうし』
『お前頭いいな、日本代表は今すぐにフランス代表に直談判するべし!』
「な、なんだよこれ!?」
無意識の内に、俺は拳に力を込めてわなわなと震えさせていた。ラグビーに人生を賭けてきた選手たちにとって、到底許されるものではない。
そしてさらに驚いたことに、こんな投稿に『いいね!』が何千件も送られているのだ。
「こんなことするわけないだろ!」
俺は舌打ちとともに声を荒げた。自分でも驚くくらい、久しぶりに本気で腹が立ったぞ。俺自身がデブだのノロマだのと罵倒を受けるくらいなら、いくらでも笑ってスルーできる。
だがこれはラグビーそのものに対する侮辱だ。どの国のどの選手も真剣に競技に向き合っていることくらい、この大会に出場している者なら誰だって知っている。
加えてラグビーはボールを持てばすぐ走るという競技の性質上、時間稼ぎのプレーを作戦に組み込むこともできない。無気力試合や八百長とは、すこぶる相性が悪いのだ。冗談でもこんなことを書き込めるなんてラグビーのことを、いや、スポーツのことを全く分かっていない人間だろう。
「当たり前だ、バカにしてんのかって感じだ」
中尾さんも相当頭にきているようで、床を強く踏みつけて立ち上がる。いつも飄々としている彼がここまで怒る姿を見せるのは、初めてかもしれない。
「俺もやで、こんないちびっとるヤツがいるとか、逆に悲しなるわ」
石井君もどかっとソファにもたれかかりながらふんぞり返る。
当然と言えば当然だが、ここにいる全員が俺と同じように感じてくれているようだ。そう思うとふつふつと沸き立っていた抑えきれない感情も徐々に静まり、俺の心中も落ち着きを取り戻す。
「ああ、でも腹の虫が収まらないから、普段以上に食ってやるぞ!」
「ああ俺もや。こもりん、朝までドカ食い付き合うで」
そして冗談を飛ばせる程度にまで余裕を取り戻した俺たちは、ずんずんと足音を立てながら食堂へと向かった。
「ふたりとも、それはそれで良くないと思う」
和久田君も苦笑いを浮かべて突っ込む。その表情から窺うに、先ほど受けたショックは多少なりとも和らいでいるようだ。
3日後、試合会場のアビバ・スタジアムには5万人の観客が詰めかけていた。
同じヨーロッパ圏内だけに大勢が押し寄せてきたのだろう、ざっと見ただけでも観客席の7割はフランスの青色に埋められていた。
「まさかここに帰って来るとはなぁ」
「つい2年前なのに、もうだいぶ昔の話に思えてくるよ」
試合直前、芝の上に立った俺と和久田君はふたりだけにしか聞こえない小さな声で言葉を交わしていた。
2029年の欧州遠征で、地元アイルランド代表を打ち破った思い出の競技場だ。あの時は完全アウェーの空気をはねのけて勝利をもぎ取っているだけに、今日も勝ち星を挙げられるよう願おう。
そして両軍が両サイドに分かれ、キックオフを迎えた。
なんと最初のキッカーは相手スクラムハーフのティエリー・ダマルタンだった。まだ22歳でワールドカップ初出場のティエリーだが、国内の人気はすでに絶大のようで、その168cmの身体がボールを持って立っているだけで観客席のあちこちから「ティエリー!」のコールが響いている。
鋭い眼光をこちらに向けて狙いを定めるティエリー。やがて試合開始の笛が鳴ると同時に、彼はボールを地面に落とし、高くボールを蹴り上げたのだった。
小柄なあの身体のどこにこれだけのパワーが秘められているのか、楕円球は空高く小さな点になるまで跳び上がり、そして22メートルラインの手前めがけて落下する。その間にもフランスの選手たちは一斉に日本陣内まで駆け込み、次の展開に備えていた。
落ちてきたボールをジャンプでキャッチする中尾さん。俺はその背後で彼の199cmの身体を持ち上げていた。
これまでなら一発目からの肉弾戦を回避するため、中尾さんは俺が持ち上げている間にボールを別の選手へと回していた。相手もそのことを読んでいるようで、俺たちの目の前まで迫りながらも足踏みをして機会を窺っている。そもそも空中の相手にタックルを入れるのは反則だ。
「みんな、今だ!」
だがこの日は違った。キャプテンの号令とともに、石井君や進太郎さん、さらにはテビタさんといった日本フォワード勢のほとんどが中尾さんを支える俺の背後に集まったのだ。
そして地面に着地した中尾さんは飛び掛かってきた相手のタックルに耐えながら、くるりとこちらに身体を向ける。
フランス選手2名に対し、こちらは計6名にもなる巨大なモールが瞬く間に出来上がる。この展開はフランス陣営も予想だにしていなかったようで、慌てて仲間が駆け付けるも勢いづいた日本フォワード陣によってずんずんと後退させられてしまうのだった。
この難しい試合において、俺たちはキックオフ一発目からモールを形成することをあらかじめ示し合わせておいた。
フランスの恐ろしいところは一度ボールを持たれてしまえば簡単には取り返せないこと。ゆえにボールを奪われるようなリスキーなプレーは避けたかった。
それならばいっそのこと危険なパスを極力減らし、ラックやモールでボールを確実に保持してじりじりと攻め込んでいこうというのが日本の選択だ。かなりしんどいが、フォワード自慢の今の日本なら最も有効な戦い方だろう。
そしてついにセンターライン付近まで押し返したところで、フランスのモールに参加していた選手が日本のプレッシャーに負けて転倒してしまう。すぐさまレフェリーからコラプシングの反則が言い渡され、俺たちはペナルティキックを獲得したのだった。
「よっしゃあ!」
見事に作戦が大ハマりして、俺たちは喜びに跳び上がる。試合開始早々、強敵フランス相手に大チャンスだ。
まだ始まったばかりだが、この試合、本当に前の人生とは違う結果になりそうだ。




