第三十九章その5 みんなで行こう、アイルランド!
「えー、では皆さん」
8月のある日の昼間、ハルキの中華料理店には大勢のラグビーファンが押し寄せていた。横浜グレイトシップスの試合や日本代表戦のある日にはお決まりの光景だが、この日は少し様子が少し違うようで、大画面テレビの電源は落とされている。
そんな店内に集まった皆々様の注目を浴びながら、俺は店内でコックコート姿のハルキと並んで立っていた。
「日本代表としてアイルランドに旅立つ小森太一君に、盛大なる拍手をお願いします!」
ハルキが呼びかけるとともに、ぱちぱちと手を叩いて歓声をあげるお客さん。
「ワールドカップ、頑張って来いよ!」
「この金沢区から世界の頂点を目指せ!」
声援を送るラグビーファンのおじさんや同級生、金沢スクールOBのみんなに、俺は「みなさん、ありがとうございます」と深く頭を下げる。
この日、ハルキはワールドカップに出場する俺のために壮行会を開いてくれたのだった。今までも大会に出場する前には同じように地元の皆さんから見送られていたのだが、やはりワールドカップとなると胸に来るものが違う。4年に1度、世界の頂点を決める大会というのは重みが桁違いだ。
俺はあと1週間も経たない内に日本を発つ。そこから先は警備上の理由から、ずっとチームで一緒に行動しなくてはならない。ワールドカップ開幕までの最後の自由時間である日々を、俺は地元横浜でのんびりと過ごしていた。
今はニュージーランドに居住している俺だが、やっぱり生まれ故郷はここだけだ。ここでラグビーを始めて12歳で全国優勝を果たしたのだから、俺の人生の原点はどこかという質問には迷わずここと答えるだろう。
「小森、絶対に勝ってこいよ!」
この日は西川君も来てくれていた。ジュニアジャパンこと日本A代表に選ばれていた彼は、今月頭まで行われていたインターナショナルネイションズカップでまたしても優勝を果たしたのだった。そこでフルバックを務めた西川君は、スタンドオフの坂本さんとともに日本のキッカー2本柱として得点を荒稼ぎしていた。
彼の強さは大学、ナショナルチームで立証済み。すでに複数のプロクラブが注目しているそうで、大学卒業後のプロ入りは決まったも同然だろう。
「お前はフォワードで世界のてっぺん取るんだからな!」
「モチのロン!」
小学校時代そのままのやり取りを交わす俺と西川君。その隣でハルキは「それじゃあ」と声の調子を整え始めていた。
「みんな、俺たちも太一を追っかけてアイルランド行くぞ! チケットはちゃんと持ったかー!?」
そして威勢よく呼びかけると、店内の面々は「おーう!」と大声をあげ、それぞれが手に小さな紙を持ったまま腕を高く突き上げたのだった。
ワールドカップの観戦チケットだ。店の中にいるほぼ全員が、手にチケットを握っていた。
中には5枚以上のチケットを見せつけるおじさんもいる。1か月以上現地に滞在するのだろうか?
「西川君も?」
「ああ、10月から大学始まるから、9月いっぱいぎりぎりまではアイルランドにいるつもりだぜ。みんなも誘ってな!」
そう言って西川君はスマホの画面を見せつけた。金沢スクールOB会の一幕だろう、すっかり大きくなった小中学校時代の友人が居酒屋でわちゃくちゃしている写真が映されている。
「ああ、チケット買うためにバイトしまくって金貯めたんだぞ」
そう話すのはかつてのキャプテン浜崎だ。昼間からハイボールのジョッキを空っぽにしている。
「他に安藤と串田も来るよ。鬼頭さんも教員採用試験終わったらすぐ来るってさ」
懐かしい名前がポンポンと飛び出してくるなぁ。元スクラムハーフで京大工学部の安藤は現在ラグビーから離れているものの、鉄道研究サークルに所属して全国各地の鉄道レポートを機関誌やWEBで発表しているそうだ。またひとつ年下の右プロップ串田君も都内の私立大学に通っており、プロ選手を目指してラグビーに打ち込んでいる。
そんな長いこと直接会っていない仲間たちも、日本代表の試合を身にはるばるアイルランドまでやって来る。彼らのためにも情けない姿は見せられないな。
「あと『先生』も今ロンドンで短期留学してるから、試合の時にはアイルランドまで飛んでくるみたいだよ」
「マジで?」
本当に彼は俺の予想をいつも上回ってくるな。我らが秀才『先生』は東大法学部に入学し、現在は夏休みを利用して留学プログラムに参加しているらしい。
「ああ。にしても惜しいよなぁ、最後のフランス戦が一番見たいのに、10月入ってんだもん」
アルコールが入って少しハイになっているのか、浜崎が大げさにため息を吐く。
「その時はこの店でみんなで応援しよう。そしてたくさん金を落とせ」
そう笑うハルキの目の前で、浜崎は「この悪徳商人がぁ!」としゅっしゅと拳を突いた。
9月から始まるワールドカップのプール戦、日本代表の日程は以下のようになっている。
ワールドカップ2031対戦相手&試合会場(カッコ内は収容人数)
1試合目 ウルグアイ ラベンヒル・スタジアム(18196)
2試合目 南アフリカ クローク・パーク(82300)
3試合目 スペイン RDSアリーナ(18500)
4試合目 フィジー ソーモンド・パーク(25800)
5試合目 フランス アビバ・スタジアム(51700)
さすがはティア1、南アフリカ戦とフランス戦では国内有数規模の競技場が利用される。特にクローク・パークなんてヨーロッパでも4番目という大きさだ。この一戦が世界でも注目されていることを、如実に表していた。
「ところでハルキ、お前がアイルランドに行ってる間、この店はどうするんだ?」
みんなが飲み食いする最中、ふと気になった俺は司会進行に小さく尋ねた。
「ああ、親父に任せてる。店閉めることはできねぇしな」
「そうなの?」
ちらりと厨房に目を向ける。そこにはハルキの親父さんが今にも泣きだしそうな、呪詛のこもった目で息子を睨みつけていたのだった。
「どっちがアイルランド行くか最後までもめたんだよ。で、結局スマ〇ラ真剣勝負で決めたんだぜ」
「……お前、将来親孝行してやれよ」
その後すぐに、俺は超大盛冷やし中華を注文した。このままだと親父さんがかわいそうだと、いたたまれない気持ちになったからだ。
壮行会のあったその日の午後、俺は京急線から品川駅でJRに乗り換え、都内の神田明神に参詣していた。
ここは勝運のご利益があるらしく、俺は必勝を祈願して朱塗りの本殿に向かいしっかりと時間をかけて二礼二拍手一礼する。
「これで神様も味方してくれるね」
隣に立ってそう笑いかけるのは南さんだ。壮行会の後、俺は彼女と合流していた。ワールドカップ中は私用で友人と会うことはできないので、彼女とこう顔を合わせて話ができるのも今日明日くらいだろう。
次の参拝客の邪魔になるので、御祈願を済ませた俺たちはさっと撤退する。そして記念に必勝祈願のお守りを購入した後、少し歩いて御茶ノ水駅近くの昔ながらの喫茶店で一休みすることにしたのだった。
昭和時代から使われているような木製の家具に照明を抑えた店内、BGMにはミュートを効かせたトランペットが特徴的なジャズが奏でられている。
「そうだ。これ、ありがとね」
机の上のアイスコーヒーをそっとよけて、南さんがコーチのハンドバッグから取り出したのはワールドカップのチケットだった。
「あ、持ってきてたんだ。ちゃんと見に来てね」
「当たり前だよ、楽しみにしてるから」
南さんのチケットについては俺が事前に予約して、彼女に届くように手配しておいたのだ。学校が始まるので彼女が滞在できるのは3試合目のスペイン戦までだが、それまでのすべての試合を押さえている。ちなみにペアチケットなので、2つ年下の弟といっしょに見に来てくれるそうだ。
「それにしても不思議な話、クラスの幼馴染が世界に飛び出して、そのまま日本で一番の左プロップになっちゃうんだから」
そう言って彼女は俺の顔をしげしげと眺めながら、コーヒーのストローを咥える。
「全部が順調ってわけでもなかったよ。ここまで来るの大変だったんだから」
「知ってる。でも太一はそれを乗り越えてこられたんだから。私も鼻が高いよ」
そして彼女はいたずらっぽく笑った。
思い返せばラグビーにすべてを注ぎ込む俺を、南さんはずっと一番近くで応援してくれていた。ニュージーランドにも来てくれたし、しんどくても彼女が見ていると思ったからこそ普段以上の力を発揮できた試合は数えきれない。
今日の俺は、間違いなく彼女の存在あってのものだ。
このワールドカップはこれまでの俺の人生の総決算。彼女の想いに応えるためにも、世界に日本代表の実力を見せつけなければならない。
いつの間にか俺は先ほど買ったばかりのお守りを握りしめていた。
コーヒーを一服し終えたところで、俺たちは店の外に出る。真夏の太陽はだいぶ傾いていたが、それでもなおアスファルトからは焦げ付くような熱気が立ち昇っていた。
「ねえ、せっかくだから秋葉原寄ってかない? 久しぶりにゲーセンで対決しようよ」
「いいけど、俺だいぶ腕なまっちゃってるよ。最近格ゲーも全然やってないし」
「教えてあげるから、ほらいこいこ!」
そう言いながら南さんは俺の手を握ると、引っ張るように歩き始めたのだった。




