第三十九章その4 31のスコッド
10-6のまま続いていた札幌ドームでのオーストラリア代表ことワラビーズとの一戦だが、結局その後は立ち直った相手チームによって日本代表ブレイブブロッサムズはトライを奪い返されてしまった。
しかしその直後に日本はペナルティゴールで再度追いつき、最終的に13-13の引き分けで試合を終えることができたのだった。
勝ち星は挙げることはできなかったものの、南半球最強の一角を日本がドローで押さえ込んだ。この結果は世界に大きなインパクトをもたらし、瞬く間に各国のスポーツニュースの一面を飾ることになったのだった。
「オーストラリアじゃほとんどお通夜状態らしいぞ」
翌朝、ホテルの食堂で秦亮二がスマホを見せつける。そこには「豪紙落胆『ワールドカップに大きな不安』『いっそ負けてくれた方が良かった』」とこっちまで胸が痛くなってきそうな見出しが表示されていた。こういう海外のニュース記事見ると、日本の新聞ってまだまだ表現マイルドだよな。
だが格下だと思っていた相手に長所をすべて潰されてしまったのだから、オーストラリア国内の消沈具合は容易に想像できる。高校野球で例えるなら、前年度甲子園優勝チームが地方大会1回戦敗退の弱小校に0-0で抑えられてしまったような気分だろうか。余裕で勝てて当たり前のはずなのに引き分けで終わってしまっては、強い側からしたら敗北も同然だろう。
実際に世界ランキングでも順位の違う者同士が引き分けた場合、上位のチームはランキングポイントが減少し、下位のチームは上昇することになっている。格下からすれば引き分けは大成功なのだ。
日本のファンもまさかオーストラリアに善戦するとは思ってもいなかったようで、SNSやテレビでは多くの人々が「間違いなく歴代最強のジャパン!」やら「ベスト4も十分狙える」とワールドカップへの期待を膨らませていた。むしろドローになったおかげで、本戦での勝利を切望する声がより強くなった気さえする。
さて、このテストマッチシーズンを終えたことで、世界ランキングは以下のように変動した。
世界ランキング(2031年8月時点、カッコ内は6月時点)
1.ニュージーランド(1)
2.南アフリカ(2)
3.イングランド(3)
4.ウェールズ(5)
5.オーストラリア(4)
6.フランス(6)
7.日本(8)
8.アイルランド(7)
9.スコットランド(10)
10.アルゼンチン(9)
11.アメリカ(14)
12.ジョージア(13)
13.フィジー(11)
14.イタリア(12)
15.サモア(15)
16.カナダ(17)
17.トンガ(16)
18.ルーマニア(19)
19.ウルグアイ(18)
20.ロシア(22)
いつもなら負け越すのがお決まりだった日本代表が、6か国対抗戦を終えてなんと順位をひとつ上げてしまった。
もちろんこの順位はあくまで目安なので、試合の結果はいくらでも覆る。だがワールドカップを前に開催国の強豪アイルランドを上回るという、これまでない最高の空気を国内にもたらすことができたのだった。
「日本が強くなった理由は何といってもフォワードでしょう。日本のフロントローは今や世界でも最重量級、加えてミリ単位でそろえるスクラムをこなしているので押し合いでオーストラリアを圧倒していました」
ホテルの部屋に戻った俺は、しゃこしゃこと歯磨きをしながらテレビニュースを眺める。そして元ラグビー選手のコメンテーターが解説するのを見てにやっと笑ったのだった。その瞬間、口の端から歯磨き粉がフローリングの上にぽとりと落ちてしまったので、俺は慌てて浴室にタオルを取りに行った。
日本代表は今日丸一日、札幌市内で休養だ。明日からまた網走に戻り、合宿が再開される。
例年なら最後の試合を終えた翌日には解散となるところだが、今年は違う。来月から始まるワールドカップのメンバーを選考するための、最後の合宿が行われるのだ。
アイルランドまで渡れるのは31人。今ここに帯同している40人の内からも、かなりの人数が弾かれてしまう。俺だって安心はできない。
メンバー発表までは残り1週間。この間は試合も行われないので、実力を見せつけるには練習でアピールするしかないのだ。
「あとは神のみぞ知る、か」
床の歯磨き粉をきれいに拭き取りながら、俺はぼそりと呟く。このホテルにいる全員で、アイルランドに行けたら最高なのに。
ついにその日がやってきた。
網走市内のホテルの会議室、ずらっと並んだ40人あまりの選手たちが、巨大なスクリーンを背に立つケイン・アルバートヘッドコーチを無言のまま見つめる。
経験豊富なキャプテンも強心臓の中尾さんも、選手たち全員が緊張で顔をひきつらせていた。俺も事前にしっかり水分を取ったはずなのに、もう喉が渇いてきた。
「皆さん、お待たせしました。ワールドカップに出場する31人を、今から発表します」
淡々と話し出すヘッドコーチに、俺たちもぐっと身を前に乗り出す。ずっと握りしめていた俺の手は、いつの間にかぶるぶると震えていた。
「これが……今回のメンバーです」
そしてヘッドコーチがキーを弾くと同時に、スクリーンの表示が切り替わる。映し出されたのはポジションと背番号、そして31人の選手の名前。
一見どこに誰の名前があるのかよくわからない。だが自分の当落を素早く理解した選手もいたのだろう、室内にざわめきが起こり、あちこちから「よし!」や「ああー」と様々な声が上がり始める。
俺は喉から飛び出そうなほどの心臓の鼓動を必死で抑えながら、じっと目を凝らした。
そしてついに、見つけたのだった。
『プロップ 背番号1 小森太一』
「……あった」
最初にやってきたのは安心感だった。張り詰めた緊張状態がようやく解けて、ほっと胸のつかえが取り除かれる。
その直後にこみ上げてきたのは、メンバーに選ばれたという喜び。よっしゃあ、と人目もはばからず歓声をあげたいという欲求が、我慢できないほどに体中を駆け回る。
「小森、お前ならいけると……思ってた」
だがその時、隣に座っていた年上の左プロップ候補選手がそっと俺の肩に手を置いた。顔を向けると、先輩の目には涙が浮かんでいた。
そうだ、選ばれた31人の中に、先輩の名前は無かった。たちまち俺の中から、くだらない欲求が抜け落ちる。
「絶対に勝ってこいよ。じゃないと一生恨むからな」
肩をつかんだ先輩の手が震えている。俺はそんな先輩の手をつかむと、「もちろんです」と強く握り返したのだった。
その後、ワールドカップメンバーだけが室内に残される。
フォワードにはキャプテンは当然ながら、俺、石井君、テビタさん、中尾さん、進太郎さん。スクラムハーフには和久田君。そしてバックスには亮二も選ばれ、歴代日本代表でもかなり若手の選手が目立つスコッドとなっていた。
「皆さん31人は多くの候補者の中から選ばれました」
少し寂しくなった会議室で、ヘッドコーチが話す。コーチ自身も辛かったのだろう、その声からは哀愁が感じられた。
「その過程の中で良い結果を残しながら、落とさざるを得なかった選手も大勢います。この31人で戦っているのではありません。日本のプロ選手たち……いや、大人から子供まで日本でラグビーにかかわるすべての人たちの想いを背負って、ワールドカップで戦うことを約束してください」
残された31人が無言で頷き返す。そんなこと、言われなくてもわかっている。今までここにいないどれだけの選手やファンの想いを背負って、俺たちがここに残っていると言うんだ。
選手たちの瞳を見て、コーチも俺たちが何を考えているのかすぐに把握したのだろう。ずっとピリピリとしていた表情がほんの少し和らぐと、この日一番の穏やかな声で話したのだった。
「では、明日は東京で記者会見です。皆さん、今日はもうゆっくりお休みください」




