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第三十七章その3 世界一過酷な合宿

 宿泊先のホテルに到着した俺たちは、荷物を下ろすなり早速練習場へと向かう。


 山林に囲まれた広大な敷地。その景色の美しさを愛でるわずかな暇も与えられず、俺たちはひたすら走り込みを続けていた。


「500メートル全力疾走! そのあとの500メートルを6割のスピードで流して、次の500はまた100パーセントの全力で!」


 コーチの指示に45人の男たちは一斉に走り出す。これくらいの距離は朝飯前、これを何セットも繰り返して心臓が飛び出そうになってもなお走り続けねばならないのが合宿というものだ。


 体格で劣る日本選手が強豪国に走り負けない身体を作るためには、並大抵の努力をはるかに超えた時間と労力が必要になる。朝から晩までずっと走っていることなんてしょっちゅうだ。


「スクラム、背中は1本の柱のようにまっすぐ!」


「おらタックル、もっとまっすぐ入らないと力が分散されるぞ!」


 練習中、プレーの粗が少しでも見つかれば、コーチ陣から厳しい叱責が間髪入れずに飛んでくる。これは選手個人の身に染み付いている悪い癖や連携の遅れを取り除き、質の高いプレーができるまで何度も何度も。一挙手一投足すべてがチェック対象なものだから、正直なところ全員内心では辟易していただろう。


 だがコーチが諦めずに何度も怒鳴ってくれるからこそ、選手たちは的確な動きを繰り返し、やがて無意識のレベルまで日本の戦い方を身体に叩き込むことができる。そのことをよく知っている選手たちは、誰も文句は口にしなかった。


「ふうふう、もうしんどいわぁー」


 休憩時間、腹を突き出しながら芝の上に座り込むのは同い年の大型フッカー石井君だ。なにわの重戦車こと彼は昨年から度々日本代表に招集されており、この代表選考合宿にも残っていた。


「こもりん、生きとるか?」


 石井君がドリンクを飲みながらこちらを向く。


 俺は彼のすぐ隣で仰向けに寝転がり、おでこにかぶせていた濡らしたタオルを払いのけながら「ああー」とゾンビの呻くような声で返事したのだった。


「俺……何でプロップやってるんだろ?」


 そして弱々しく呟く。すでに自分のポジション選択を疑うほどに、こってりと絞られていた。


「デブには辛いでホンマ。こんなんが毎日続いたら、俺もこもりんもただのバターになってまう」


 石井君はそう話しながら俺が払い落としたタオルを拾うと、また目の上にそっと置いた。


 ちなみに「こもりん」というのは石井君が俺を呼ぶときに使っているあだ名だ。最近は彼のおかげで、他の代表メンバーにも「こもりん」の呼び名が徐々に定着し始めている。


 そんな貴重な休憩時間を過ごす俺たちの元に、ロックの中尾さんが「おい二人とも」と近づく。寝そべっていた俺はむくっと身体を起こした。


「休憩終わったらラインアウトの練習だからな。今の内に体力回復させとけよ」


 デブ二人が「はい!」と声をそろえる。が、一秒も経たないうちに「まだやるのか……」と本音を漏らした。


「6か国対抗戦始まるまでに連携仕上げたいからな。小森、俺の身体しっかり持ち上げてくれよ」


「ふらついて落としたときにはメンゴメンゴで許してください」


「許さん、けど『機巧少女マキナ』の円盤買ってくれたら許す」


「何やそれ?」


「今やってるアニメみたいだよ。中尾さんがドはまりしている」


 その夜、ホテルの用意してくれた食べ放題の夕食を俺たちフォワード組はかつてない勢いで食べ尽くした。それだけ食ったおかげか夜はぐっすりと眠れ、翌朝にはすっきり目覚めて前日以上の練習をこなすことができたのだった。




 そして7月中旬、ついに南半球6か国対抗戦の最初の第一試合の日を迎えた。


 東京に移動した俺たちが向かったのは国立競技場。東京五輪にあわせて2019年に開場したこの競技場は6万8000と日本国内でもトップクラスのキャパシティを誇り、現在は学生サッカーやラグビーの聖地として定着している。


 ちなみにこの競技場で催された最初のラグビーの試合は2020年1月11日に行われた全国大学ラグビーフットボール選手権大会の決勝戦だ。この時は5万7000人以上が詰めかける大盛況であり、俺も父さんといっしょにスタンドで観戦していたのをよく覚えている。


 この日も試合の始まる何時間も前から、スタジアムの周りには大勢の観客が押し寄せて入場を待ち詫びていた。開場と同時にチケットを持った人々が順に入場し、あっという間に観客席は赤白縞模様のジャージに埋め尽くされてしまった。


「チケット完売だってさ」


 試合直前、ロッカールームでスマホでネットニュースを見ていた和久田君が言うと、アップを終えた選手たちの顔にもたちまち緊張が宿った。


「さすがオールブラックス。集客力すげえな」


 秦亮二も靴紐を結び直しながらぼそりと呟く。


 なんとワールドカップ級の売れ行き、定期戦にここまでの人が入るようになるとは。ラグビーもつい10年前とは比べ物にならないほど巨大なコンテンツに成長したと思うと感慨深い。


 今日のテストマッチはワールドカップの試金石となる大事な一戦だ、みんな日本が強くなっていることを期待しているのだろう。


 ベンチに座った俺は握り拳に力を込め、そして脱力とともに息を吐いて精神を集中させる。だがちょうどその時、俺のスマホがメッセージを受け取り、ブブブと振動したのだった。


「あ、西川君からだ」


 画面を起動した俺が驚いて声をあげると、和久田君や石井君ら同年代の面々がさっと後ろに群がった。


 大学3回生になった西川君は今もフルバックを続けており、国内大学リーグのトップスター選手として君臨していた。昨年度も2回生でスタメン出場した全国大学選手権で優勝を果たし、卒業後のプロ入りが確実視されている。恐らく国内のアマチュア選手で、彼を超えるフルバックは見つからないだろう。


 そして現在、彼はなんとジュニアジャパンこと日本A代表の一員として、アメリカで開催されているインターナショナルネイションズカップに出場している。自身も大事な試合を控えながら、このメッセージを送ってくれたのだろう。


「オールブラックスのハナをへし折ってやれ……か、西川君らしい」


 メッセージを読みながら吹き出すと、後ろから画面をのぞき込んでいた石井君たちも「負けてられへんな」と言って表情を緩めた。


 西川君の期待、ここにいない選手たちの期待を無碍にはできない。情けない姿は見せられないと、俺は気合を入れなおした。


 ちなみに今のジュニアジャパンには今年プロ入り1年目のスタンドオフ坂本パトリック翔平さんや、快足ウイング馬原さんも呼ばれている。他に熟練した選手がいるため今回は叶わなかったものの、彼らの実力なら順調にいけば次の大会でワールドカップ出場も狙えるだろう。


 やがて試合開始時間が迫り、日本代表はロッカールームで最後のミーティングを開く。


「今日の相手はニュージーランド、オールブラックスだ」


 円形になった俺たちを前に、29歳になったキャプテンのジェローンさんが落ち着いた様子で話す。予てから今年を最後のワールドカップとしたいと話していた彼の声からは、ただならぬ決意と覚悟が感じられた。


「知っての通り、日本代表はまだ一度としてオールブラックスに勝ったことが無い。だがそれがなんだって言うんだ、俺たちだって日に日に強くなっている。ワールドカップに向けて、俺たちが力をつけたってことを日本の皆さんに知らしめてやろう!」


 そして「おう!」と意気込みをして、俺たちはコートへと向かう。


 ゲートで一列になって入場を待っていると、やがてすぐ隣に黒一色のジャージをまとった男達がすっと整列した。


 一瞬、ちらりと目を向ける。そこにいたのはハミッシュ・マクラーセン、ローレンス・リドリー、エリオット・パルマー、そして一際巨体を見せつけるニカウ……。


 いずれも見知った顔ばかり、ニュージーランドで一流と呼ばれ、リーグ戦で苦労させられている選手ばかりだ。


 そんなスーパーラグビーの選りすぐり15人が、今日の俺たちの相手だ。世界最強軍団という呼び名に、誇張も嘘偽りも全く無い。


「では、どうぞ!」


 スタッフが合図を送ると同時に、会場にファンファーレが鳴り響く。


 さあ、いよいよだ!


 観客の大喝采に促され、俺たちはジャージに描かれた桜のエンブレムを見せつける様にぐっと胸を張ると、ずんずんと芝の上に歩みだしたのだった。

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