第三十七章その2 地獄へようこそ!
後日、俺は飛行機で羽田空港から北海道網走の女満別空港まで移動した。
「よう小森!」
空港の待合ロビーには、先に到着していた秦兄弟こと進太郎さんと亮二がベンチに座って待っていた。
俺と同い年の亮二はファッション誌の表紙を飾るくらいに端正な顔立ちで、通行人の女性は9割方すれ違いざまにちらっと顔を向ける。そして隣の鬼瓦みたいな兄を目にした途端、さっと足早に歩き去ってしまうのがお決まりのパターンだ。このふたりが兄弟だと知ったら、誰もが生命の神秘を実感させられるだろう。
「スーパーラグビー見てたぞ、小森大活躍だな!」
「うちのフォワードも同じ日本人の小森が活躍してるの見てると自信が出てくるって、張り切ってるよ」
口々に褒める秦兄弟に、俺は「応援ありがとうございます」と礼を告げる。
これから始まる南半球6か国対抗戦、その最初の一戦は国立競技場でいきなりニュージーランド代表を迎えて行われる。
それまでは夏でも冷涼な網走を拠点に練習を重ね、テストマッチへの備えとワールドカップメンバーの選考を同時に行っていくのだ。
そして俺が日本代表に選ばれているように、相対するオールブラックスにも同年代のラガーマンがちらほらと選出されている。
なんとオークランドゼネラルハイスクールでいっしょだったあのニカウも、この大会から右プロップとしてオールブラックスに名を連ねるそうだ。
現在、彼も俺と同じスーパーラグビーでプレーしており、189cm146kgとニュージーランド国内でもトップクラスの超巨体で他の選手たちを蹴散らしている。
さらに身長206cmのローレンス・リドリーや、得点力抜群のエリオット・パルマーら学生時代からよく知った顔も選ばれているそうだ。
そして無論、世界のスーパースター、ハミッシュ・マクラーセンも。前回果たせなかったワールドカップ優勝を目指し、彼はシーズン中もずっと燃えたぎっていた。
彼らがいずれも世界最強の名に恥じない実力の持ち主であることは、スーパーラグビーでうんざりするほど痛感させられている。日本代表の第一戦は、相当きついものになるだろう。
「あいつらが強いのは百も承知です。まずはできることをやりましょう」
自らに言い聞かせるように俺が口にしたちょうどその時、天井から吊り下げられた電子掲示板の表示が切り替わる。
「お、新千歳からの便が着いたみたいだな」
「たしかこれには和久田が乗ってるんだよな」
秦兄弟がそろって掲示板を見上げる。和久田君の住む福岡からここまでは直行便が無い。そのため一旦新千歳で乗り換えてきたそうだ。
しばらくして、到着ゲートから荷物を持った人々がぞろぞろと出てくる。その流れに紛れて、日本代表のジャージを着た我らがスクラムハーフも姿を見せた。
「おひさ!」
そっと手を挙げる和久田君に、俺も「こっちだよ」と手を振り返す。
だがそんな和久田のすぐ隣に、きらきらと金髪をなびかせて歩くシルエットがあるのを目にした途端、俺は「え!?」と固まった。
「ハイ太一、久しぶり!」
なーんも考えてなさそうなスマイルではしゃぐのは金髪に背の高い女性……アイリーンだった。
ニュージーランドに留学中、ホストファミリーとしてお世話になったあのアイリーン・ウィリアムズその人だった。
「アイリーン、どうしてここに!?」
取り乱したように尋ねると、和久田君は首を傾げた。
「あれ、前に話してなかったっけ? 彼女、今日本に留学しに来てるんだよ」
そうだ思い出した。去年オークランド大学を卒業したアイリーンはもっと火山研究をしたいからと、この4月から九州大学大学院に留学しているのだった。
九州大の火山研究は世界でも有名らしく、彼女は予てから進学を希望していたらしい。それを知った和久田君がアパートを経営する親戚のおじさんに頼んで、アパートの一室に彼女を住まわせているそうだ。
「で、僕が北海道に行くってどこからか聞いたみたいで」
「北海道の火山を見にやってきたの! こっちには千島火山帯があるから、楽しみ!」
子供のように笑うアイリーンを見て、俺は「あーなるほどね」と納得した。この子、日本生活をすっかりエンジョイしてるなぁ。
「じゃアイリーン、僕は合宿に行くから、ここで」
「うん。秀明、頑張ってきてね!」
和久田君はアイリーンとごく自然な流れでハグをする。そしてなんと、互いの頬と頬を触れ合わせたのだった。
「グッバーイ!」
やがてバス乗り場に向かうアイリーンを見送ると、騒がしかった到着ロビーは火が消えたように静かになってしまった。
「彼女、これから羅臼岳見て屈斜路カルデラ見て、北海道巡りながら有珠山まで行くんだってさ」
苦笑いを浮かべるスクラムハーフに、俺は「和久田君……大胆だなぁ」と茶々を入れた。ニュージーランドでは親愛を表すごく普通の習慣だが、日本人の目にはかなり奇異に映るだろう。
「そう? ニュージーランドじゃ当たり前にやってたし、アイリーン日本でもよくやるからいいかなって」
和久田君が振り返りながら答えていたその時、亮二が「おい、大変だ!」と声を荒げる。
「どした!?」
何事かと振り向いたそこには、唖然とした表情のまま魂が抜けたように進太郎さんが立ち尽くしていた。そのすぐ鼻の先で、亮二が手をぶんぶんと振っている。
「兄貴が息してない……立ったまま気ぃ失ってる」
その後、合宿参加者全員が無事集合し、日本代表を乗せたバスは空港を発った。
網走は長野県の菅平と並ぶ、ラグビー合宿の聖地だ。市内には網走スポーツ・トレーニングフィールドと呼ばれる広大な運動公園が整備されており、夏季にはプロクラブや強豪大学が訪れて合宿に訪れる。
他にも野球やテニス、陸上競技はもちろん、アーチェリーや自転車競技、ゴルフの設備も用意されており、様々な競技の選手に重宝されている。
「日本代表の間で網走合宿が何て呼ばれてるか、知ってるか?」
バスの車内、キャプテンのジェローンさんが若手メンバーの顔を見回しながら得意気に話す。
「『北の地獄』だよ。長い、キツイ、カンヅメの世界一過酷な合宿って言われてるぞ」
ワールドカップ初出場を狙う選手達が一様に閉口する。日本代表はフィジカルの差を覆す団結力が売りだが、それを実現するためには世界一の練習量がセットでついてくる。
受験前最後の追い込みも真っ青なハードスケジュールは、歴代の日本代表選手も「もう行きたくない」と顔を背けてしまうほどだという。
「さしずめルドン高原だな」
中尾さんが感慨深げに頷くので、意識を取り戻した進太郎さんは「何だそれ?」と訊いた。大した意味は無いと思うので、無視しておこう。
「地獄だろうと修羅の国だろうと、ここを乗り越えれば俺たちは強くなれるんだ」
選手たちが戦慄する中、ずっしりと落ち着いた様子でプロップのテビタさんが言い放つ。その目はすでに闘志にたぎっていた。
「俺たちは所詮まだまだチャレンジャーだ。挑戦者なら挑戦者らしく、あの手この手で足掻いてみようぜ」
そしてふふっと不敵な笑みを浮かべる。彼も長らく夢にまで見ていた夢の舞台まであと一歩というところまで来られて、喜びが止められないのだろう。




