第三十六章その2 海の向こうへ
「アイルランド、到着!」
飛行機から降りてボーディングブリッジへと足を置くや否や、俺は高らかに声をあげた。
アイルランド島の土を踏むのは初めてのことだ。何歳になっても、新しい場所を訪れる高揚感は変わらない。
「アホなことしてないで早く歩け」
だが後ろでつっかえていた他の選手に急かされて、俺は「ごめんやして、おくれやして」と早足で進む。
カーディフ空港から飛び立った日本代表は、ここダブリン空港に到着した。この欧州遠征もいよいよ最終戦、アイルランド戦で有終の美を飾ろうと、メンバーも強く意気込んでいる。やる気十分、準備は万全だ!
さて、ラグビーの国際大会を観戦して、不思議に思われた方もいることだろう。
アイルランドはイギリスとは別の国なのに、なぜラグビーではイングランド、スコットランド、ウェールズと同じホームネイションズに含まれているのだろうか、と。
これには英国の歴史が大きく関係している。一言でアイルランドと表しても、現在の国家としてのアイルランド共和国と、かつてアイルランド島全体を治めていたアイルランド王国、どちらの意味であるかを文脈から判断しなくてはならない。
19世紀が始まると同時に、アイルランド王国は連合王国のひとつとしてイギリスに併合された。だが紆余曲折の末に20世紀前半以降は北東部(北アイルランド)をイギリスが統治し、それ以外はイギリスとは別物のアイルランド共和国となったのは有名な話だろう。
しかしアイルランドラグビー協会は分離以前の19世紀からすでに創設されており、国が分断された後も組織が分割されることはなかった。そのような経緯からアイルランドラグビー協会は現在でも北アイルランドとアイルランド共和国、つまりはアイルランド島全体を統括するという、世界でも珍しい2か国にまたがって活動する協会となっている。独立運動のごたごたも、ラグビーにおいては無関係だったのだ。
余談としてサッカーに関しても、かつてはアイルランドサッカー協会としてひとつの組織で成り立っていた。しかし分離独立の際に団体も分断され、現在は北アイルランド代表とアイルランド共和国代表が存在している。こちらのアイルランド共和国代表は過去にワールドカップでベスト8まで勝ち上がってきたり、EUROでイタリアに勝利して決勝トーナメントに進出したりと並ならぬ存在感を放っているので、興味のある方は要チェックだ!
「日本代表が到着しました!」
到着ロビーに出ると、すでに大勢の取材陣が待ち構えていた。アイルランドメディアだけでなく、英国や日本の放送局のロゴも見える。
「すごい歓迎」
カメラのフラッシュに驚いて、俺は思わず目元を手で隠した。
「3年前も来たことあるけど、こんなには取材来なかったなぁ」
キャプテンのジェローンさんも頭を掻きながら歩く。
3年前の欧州遠征で、日本代表はジョージア、スコットランド、アイルランドと対戦した。その時はジョージアには勝利を収めたものの、スコットランドとアイルランドには敗れている。しかもアイルランドはサブメンバー中心で、本気とは言い難い編成だった。
当時を知る人は、まさか日本がアウェーでウェールズを倒すとは想像もしていなかっただろう。
そして俺たちはターミナルビルに横付けされたバスに乗り込んだ。発進後、昔ながらの建築物が並ぶダブリン市内を日本代表を乗せたバスは移動する。
「あ、古そうな塔!」
窓の外に見えたのは円筒形でレンガ造りの、いかにも要塞といった見た目の建造物だった。
「あれはダブリン城だね。あの塔は1226年に建てられてから、ずっとそのまま残っているらしいよ」
すぐさま和久田君がガイドブックを開いて解説する。初めてプレーするゲームでも攻略本片手に取りこぼしなく完全クリア目指すタイプだな、これは。
やがてバスはホテルに着く前に、試合会場となるアビバ・スタジアムに立ち寄った。俺たちにとってもスタジアムの下見はできるだけ早い方が嬉しい。
収容人数は5万1700とイングランドのトゥイッケナム・スタジアムやウェールズのミレニアムスタジアムと比べると小さく思えるが、シックスネイションズにも使用される由緒ある競技場だ。そもそも日本国内でも、常設で収容人数が5万を超える競技場は国立競技場、日産スタジアム、埼玉スタジアム2002、静岡スタジアムエコパと数えるほどしかない。
「ここは次のワールドカップでも使われるからな。アイルランドの気候やインフラを、今の内に肌で感じておけよ」
コートの芝の感触を踏んで確かめる俺たちのすぐ脇で、キャプテンがメンバーをぐるりと見渡しながら口にした。
ここアイルランドは2031年のワールドカップ開催地にもなっている。ゆえに最近は世界の強豪国も、大会が始まるまでに一度はとアイルランド代表とのテストマッチを希望しているそうだ。
「そうか、ここが」
ワールドカップ。その言葉を耳にして、俺はついスタンドを見つめながら夢想する。
スタジアムを埋め尽くす超満員のお客さん。全員が全員、日本の赤白模様のジャージを着込んで「ジャパン」のコールを飛ばしている。
そんな観客席の中央部、最も目に付く席に座って応援してくれるのはうちの両親、金沢スクールのみんな、ハルキ一家、ウィリアムズ家の皆さん。
そして南さん。
自分がこれまで関わってきた数えきれない人たちが、日本の勝利を願って大きく口を開けて声援を送ってくれている。こんな光景が実現したら、俺はどれほど幸せなのだろう。
「小森、何ボケっとしてんだ?」
その時、ロックの中尾さんがこつんと俺の頭を小突いた。妄想に口元が緩んでしまっていたようで、俺は慌てて「いえ、何でもないです」と顔を背けて誤魔化した。
その日の夜、俺はホテルの部屋で自分のノートパソコンを開いていた。
閲覧しているのはラグビー関連の情報をまとめたニュースサイトだ。英文ではあるがニュージーランドやイングランドに限らず、日本やフランスなど世界の主要な国々の情報を広くまとめているため、情報収集には非常に役立っている。
「あ、アメリカがサモアに勝ってる。本当に強化が進んでるんだな……お、カナダもウルグアイを倒してるぞ!」
やはり今一番気になるのは、各国のテストマッチの勝敗だ。ラグビーの強さの序列はなかなか変わらないものの、それでも細かな変化は絶えず見て取れる。こういった小さな変化が何年も続くことで、かつては格下だったチームがいつの間にか強豪を上回るのを見ると、スポーツの世界において諸行無常という言葉は世界共通の概念であることを実感させられる。
「ん?」
その時、俺の目にひとつの見出しが飛び込み、そしてすぐさま釘付けになった。ニュージーランド国内リーグMitre110関連の情報だ。
『クリストファー・モリスとサイモン・ローゼベルト、日本へ移籍』
「え!?」
ぱちぱちと瞬きをして、見出しを読み直す。だが何度確認しても、アルファベットの読み間違いは無い。
読まなくては! でも……読むのが怖い。
手の震えを必死で抑えながら、俺は恐る恐る見出しを左クリックした。すぐに記事の本文が写真付きで表示される。
『本日、Mitre10所属のクリストファー・モリス(No.8)およびサイモン・ローゼベルト(LO)の2名が、それぞれ来季の契約を更改しないことを発表した。両名はいずれも日本のRリーグに移籍する。クリストファー・モリスはさいたまレッドアーマーズ、サイモン・ローゼベルトは名古屋ゴールドシャークスにそれぞれ所属し、来年9月の開幕に備える』
「まさか……」
にわかには信じられなかった。忘れるはずがない、クリストファーもサイモンも、オークランド選抜でいっしょにプレーした仲間だ。
俺よりひとつ年上のふたりは卒業後、いずれも国内リーグのプロクラブに入団したものの、その後目立った活躍ができないでいた。一度はU20ニュージーランド代表に選ばれたこともあったが、そこから後が続かなかったとも聞いている。
学生時代は輝いていても、プロになった後も同様とは限らない。それも競争率の激しいナンバーエイトとロック、ましてニュージーランド国内となればなおさらのことだ。
あれほどの実力者だったふたりも、こんなに早くもその波に飲まれてしまうなんて。
「クリストファー……サイモン……」
自分のことではないが、悔しくて涙が出てきそうだった。あのふたりでさえ選ばれないなんて、どれだけ厳しい世界なんだよ。




