第三十五章その6 雪辱を果たした日
試合開始から5分と経たずにウェールズ代表フィリップ・ヒューズがドロップゴールによる得点を決めたものの、そこから両軍は互いに攻めるに攻めきれないでいた。
フィリップを起点としたパスにより日本の守備ラインの間隙をウェールズ選手が突破するも、必死のランで追いついてゴールライン手前ギリギリで取り返す。そして奪ったボールを抱えた日本選手が一気に走り、敵陣まで攻め込んだところで止められるという展開が幾度となく繰り返されていた。
そして膠着した状態のままハーフタイムを迎える。スコアは相変わらず3-0のままだ。
「くそ、ウェールズを崩すのは難しいな。日本のセットプレーの精度も上がっているのに」
ロッカールームでドリンクから口を離した右プロップのテビタさんは、苛立ちを隠しきれないでいた。
「ああ。だが思った通りだ、つけ入る隙はある」
同じくドリンクを飲んでいたキャプテンはボトルを空にすると同時にベンチから立ち上がった。そして近くにいたメンバーにも聞こえるよう、よく聞こえる声で言い放ったのだった。
「ウェールズのメンバーは主力も混じっているとはいえ、まだ経験の浅い若手が多い。ありゃあ実質1.5軍といった顔ぶれだ」
汗を拭ったりドリンクを飲んだり思い思いの休憩時間を過ごしながらも、選手たちは全員がキャプテンの声に耳を傾けていた。
ウェールズは来週、南アフリカとのテストマッチを控えている。南アフリカは現在世界ランキング2位の超強豪、ウェールズも勝つためには全力で挑まねばならず、一番脂ののったメンバーをそこで起用するはずだ。
そのため彼らは次の試合を見越して、日本戦では主力を温存させる必要があった。特に負担の大きいフォワードでは、ウェールズで1番と呼べる選手の多くがスタメンから外されている。
「最初にドロップゴールを取られた以外は押さえ込んでいるんだ、後半もこのまま戦えば勝機は必ず巡ってくる!」
キャプテンの力説に、俺たちは無言で頷いた。ウェールズは格上ではあるが、決して勝てない相手ではない。実際に過去、日本代表はこのカーディフでウェールズにあと一歩まで肉薄したこともある。
今から13年前の2016年11月。歴史的勝利を挙げたワールドカップ2015年大会の熱気も冷めやまぬ中、日本代表は32人中17人が代表初招集というメンバーでヨーロッパ遠征を行なった。そしてここミレニアム・スタジアムで開催された対ウェールズ戦、日本代表はウェールズ相手に食らいつき、30-30のドローに持ち込まんとしていた。
だがあと少しで試合終了という後半39分、ボールを回されたウェールズ選手に土壇場のドロップゴールを決められ、33-30で敗れたという苦い思い出がある。
当時は俺もラグビーを始めて1年ちょっとしか経っていなかったが、この試合を夜遅くまで起きてテレビ中継で観戦していた。最後の最後までもつれ込んだ展開であっただけに、その悔しさは余計に大きかった。今ここにいるメンバーの中でも、あの時の俺と同じ感情を抱いた者は少なくないはずだ。
「チャンスは必ずやってくる、耐えて耐えて耐え抜いて、一気につかみ取れ!」
キャプテンの激励に俺たちは「はい!」と声をそろえた。
後半に入って以降も、スコアは大きく動かないままだった。ウェールズの多様な攻撃展開を、日本の守備陣が必死で追いついて食い止め続ける。
やがて後半30分。9-3でウェールズがリードしていた場面でのこと。
ラックから飛び出したボールが、相手バックスに回される。受け取った相手ウイングはその快足を発揮し、守備の薄いタッチライン近くを全力で駆け上がった。
そこに最初に追いついたのはスクラムハーフの和久田君だった。彼は179cmの身体をぶつけ、相手選手の腰に腕を回す。
だがその足を止めるには、今一つ入りが甘かったようだ。和久田君にしがみつかれた相手ウイングはぐいっと上半身をひねり、後ろの仲間へのオフロードパスを図った。
「まずい!」
ここでパスがつながるとトライを奪われる。俺は足の回転を速めた。そして相手ウイングがボールから手を離す寸前、間一髪のところでタックルを入れた。
俺のタックルにより相手選手はぐらつき、体勢がさらに乱れる。本来は後方のウェールズ選手につながっていたであろうパスも大きく逸れ、ボールはタッチラインの外に放り出されてしまったのだった。
「よくやったぞ、小森!」
駆け寄った仲間たちが拍手でギリギリのプレーを称賛する。
相手陣側のセンターライン付近、なんとか日本はマイボールのラインアウトを奪うことができた。
「よし、やるか!」
ナンバーエイトのキャプテンの一声に、フォワード全員が何も言わず頷いた。彼が何を言いたいのか、誰もがわかっている。
ラインの外にフッカーが立ち、両軍のフォワードがにらみ合う形で並ぶ。この時俺は中尾さんといっしょにタッチラインから見て最も手前側に、進太郎さんとテビタさんは最も遠い位置にいた。
そしてフッカーがすっとボールを高く掲げる。すぐに「3,1,2!」と合図を叫ぶが、これが単なるフェイクであることは、日本代表は誰もが見抜いていた。
フッカーがボールを投げ入れる。同時に中尾さんが跳び上がり、背後に回った俺はそっと手を添えた。
相手ロックは当然、確実性を重視するため最長身の中尾さんがキャッチするだろうと睨んでいたようで、中尾さんの隣に走り込んでジャンプした。
だが投入されたボールは彼らにジャンプの暇さえ与えず、いつの間にか高速で2列の真ん中をくぐり抜けていた。
そう、俺も中尾さんもフェイントを仕掛けただけだった。持ち上げるふりをしただけであって、実際は何もしていない。
一方の進太郎さんとテビタさんは、投入と同時にだっとさらに遠くへと走り出していた。うまく密集を抜け出したボールの落下点まで移動した進太郎さんは、テビタさんに支えられてジャンプでボールをキャッチする。
まさか! ウェールズ選手たちの顔に一斉に動揺の表情が浮かんだ。今まで一度もジャンプをしていない、それもジャンパーとしては小柄な進太郎さんがここでキャッチを任されるなんてとでも思っているのだろう。
しかしそう驚きながらも体は的確に動くのが強豪というもの。敵フォワードはボールを奪うべく、一斉に進太郎さんに群がったのだ。進太郎さんが着地したところでつかみかかり、強引にもぎ取るつもりだろう。
だが、これでいい。他の日本選手も加勢すべく進太郎さんの近くに移動する中、俺はひとりだけ自陣側に2メートルほど急いで後退した。
通常、今の状況なら進太郎さんは後方のスクラムハーフかバックスにパスを送るか、モールを形成して力づくで押し込んでいくのがよくある選択肢だろう。
俺たちの作戦は、そのどちらでもなかった。
「小森!」
テビタさんに支え上げられたままの進太郎さんが、高い位置から俺に向かって落とすようにボールを投げ渡す。
まさか、プロップに戻すのか!?
二度の思わぬプレーに相手選手たちはくるりと向きを変える。今度は一斉に、足の遅い俺に向かって飛び掛かってくるだろう。
だがすでに、彼らがたとえ全力で走ってきたところで今さらどうにかなるものではなかった。進太郎さんに対応していた相手選手たちと俺との間には、十分な距離ができていたのだ。
「おっらああああああああ!」
俺はボールを足元に落とし、全力のパントキックを逆サイドへと蹴り込んだのだ。とっさのことだったのでフォームはそこまできれいではないし、狙いを定めたわけでもない。
だがボールはフォワードもバックスも選手たちのはるか頭上を飛び越え、相手陣内の逆サイド側、近くに誰もいない位置に落下する。そして楕円球がバウンドして跳ね上がる頃には、俺よりも後方に控えていた日本代表ウイングがすでに全速力で走り込み、なんと相手のバックスさえも追い抜いていたのだった。
進太郎さんのセットプレー、プロップへのパス、そしてプロップのパントキック。三重にも渡る予期せぬプレーに振り回され、ウェールズ陣営は混乱に陥っていた。相手選手たちは急いで方向転換してボールを追うも、すでに日本のウイングは芝の上を不規則に跳ねるボールをしっかりと抱え込んでいる。
そして最後は猛然とダッシュ。日本ウイングは完全に独走状態だった。そして誰にも阻まれないうちにゴールラインに飛び込み、地面にボールを置く。
「トライ!」
審判の笛が鳴り渡り、日本代表は「よっしゃああああ!」と全員が叫んだ。
同時にスタンドのウェールズファンからは「Oh」と失望の声が漏れる。だが一瞬の後にはスタジアムを揺らすほどの拍手と大歓声が湧き起こり、しばらくしてからはどこから起こったのか7万以上の「ジャパン! ジャパン!」のコールが響いていたのだった。
「はは、良かった……」
さっきのパントキックに想像以上に精神を消耗してしまったのか、俺は足腰から力が抜け、へなへなと芝の上に座り込んでしまう。
応援するチームがミスしたからと言って選手を罵るようなことはしない。このスタジアムに集まっているのは、本当にラグビーを見るのが好きな人たちなのだ。
トライ後のコンバージョンゴールも決まり、スコアは9-10で日本が逆転する。
その後、俺たちはウェールズの蹴り入れたボールをなんとか守り抜き、終了のホーンが鳴ると同時にタッチラインの外へと蹴り出したのだった。




