第三十五章その2 ロンドンの空の下
いよいよイングランド代表とのテストマッチ当日となった。
「イングランド代表を一言で表すとだな」
ロッカールームで着替え終わった日本代表選手たちをぐるりと見回しながら、キャプテンのジェローンさんが話し出す。
「強い。とにかく強い。とんでもなく強い。強すぎてどうしようもない」
それもう「強い」しか言ってないじゃん。俺たちは内心ツッコンでいたが、声にする者は誰もいなかった。ラグビーにおいて世界ランキング3位と10位とでは、その力量差は果てしなく大きいことは皆痛いほど承知している。
「生半可な手は一切通じない、純粋に強い相手だ。特にボールを持った時は強い当たりと正確なキックでバシバシ前に攻め込んでくるぞ」
イングランド代表は伝統的にキックに秀でており、的確なキックパスを多用する。そしてピンチに追い込まれても敵陣に大きく蹴り込んで、その隙に自陣を回復させてしまうのだ。
「俺たちができることは、相手が誰でも全力でぶつかるのみだ。これまでの練習の成果、見せてやろう!」
キャプテンの掛け声で円陣を組んで気合を入れた後、俺たちは試合開始時刻に合わせて入場ゲート前にずらりと整列した。
すぐ隣には、上下白一色のジャージに薔薇のエンブレムを施したイングランドの選手たちも一列に並ぶ。ちなみに日本代表は色が被らないよう青と紺のセカンドカラーだ。
国内では選りすぐりの巨漢集団である俺たちも、イングランド代表と一緒に並ぶと大人と子供のように見えてしまう。メンバーの平均身長も相手の方が3㎝ほど高い。
しかも全員が全員、ヨーロッパの名門クラブでプレーする世界的スター選手ばかりだ。試合前に凛と気持ちを整える場面であるにも関わらず、隣から放たれる異様なまでの存在感は桜の戦士たちに強烈なプレッシャーを与えていた。
やがて定刻となり、俺たちは順に昼空の光に照らされたコートへと入場する。ファンファーレとともに響く大歓声。顔を上げたそこに広がっていたのは、観客席を埋め尽くして脈打つ白一色だった。
「すっげえ……」
想像を絶する光景に、若手選手たちは歩きながらもぽかんと口を開けてしまう。
収容人数8万を超えるトゥイッケナム・スタジアムには、超満員のラグビーファンが押し寄せていた。
イングランドはラグビーの発祥地だけあって、その熱狂度合いはニュージーランドにも劣らない。人気クラブやナショナルチームの試合となれば、8万人以上が殺到することも珍しくない。これはニュージーランド最大の競技場であるイーデン・パークの収容人数5万を軽く上回っている。
しかし面白いのはスタジアムを占領する白のジャージに紛れて、ちらほらと日本の紅白のシャツを着た観客が所々に混じっているところだろう。
ラグビーはサッカーのように、応援するチームごとに観客席が区切られることはない。敵対するチームのファンとも肩を並べ、称賛すべきプレーには敵味方関係なく拍手を送るのがラグビーの楽しみ方として浸透している。
また応援に際して楽器などの鳴り物の使用は禁じられている一方、サッカーで禁じられている観戦時の飲酒が認められているのは、悪質なフーリガンが現れにくいというファンの態度に起因する。こういった応援スタイルも、ラグビーが長い歴史の中で育んできた独自の文化と言えるだろう。
アウェーとはいえ、こんな最高の場で日本代表初キャップ試合を迎えられるなんて、俺はなんという幸運なのだろう。
試合が始まる前から、涙が出てきそうだった。
そしてとうとうイングランドとの一戦が開始される。スタメンで起用された俺は、相手のキックオフと同時にジャンプしたロック中尾さんの背後に回り、その約200㎝の長身を持ち上げて捕球をサポートする。
だがすでに目の前にはイングランドの選手が駆け上がってきている。中尾さんが地面に足を着けたところで、すぐにぶつかってくるのは火を見るより明らかだった。
中尾さんはキャッチしたボールを、近くにいたフランカー進太郎さんに素早く回す。
楕円級を抱えた進太郎さんは野獣のごとき勢いで走り出す。だが、すぐさま駆け付けた相手ナンバーエイトにとびかかられ、少し進んだところで押し倒されてしまった。
そこに右プロップのテビタさんが相手ナンバーエイトを押し返して対応し、ボールが地面に置かれた状態の密集、ラックが形成される。他の日本代表選手たちも一斉に集まり、人壁を作ってボールを相手から遠ざける。その最後方ではボールに触れる寸前まで手を伸ばしたスクラムハーフ和久田君が、どこにボールを展開させるか中腰になって周囲を観察していた。
そして放たれるライフル弾のような楕円球。飛んできたそれを受け取ったのは、少し離れた場所にいた俺だった。
俺はボールを抱え込み、姿勢を低くしてイングランドの守備ラインに走り込む。ちょうど目の前に比較的小柄な選手がいたので、体重を活かして強引に突っ込んで相手選手を突き飛ばした。さすがのイングランド代表選手も体重135㎏の俺には苦慮するようだ。
だがそこに、驚異的なスプリントを発揮して追いつき、強烈なタックルを仕掛けてくる選手がいた。さっき進太郎さんを一撃で沈めた、あのナンバーエイトだ。
真横からトラックにぶつけられてしまったかのような衝撃。だが俺は倒されそうになりながらもなんとか堪え、胸の高さにしがみついた相手選手を引きずってもう2メートルほど自陣を前に進めた。
だが動きの鈍くなった俺は格好の的だった。駆け付けた別の選手からのタックルを喰らい、とうとう俺は崩されてしまったのだった。
「小森!」
地面に倒れると同時に、ロックの中尾さんが相手選手を突き飛ばして俺の上に覆いかぶさる。なんとかボールを守り切ることができた、これで次の選手につなげられる。芝に倒れ込んだ俺はほっと息を吐き、手にした楕円球を中尾さんの後ろに回したのだった。
そこから日本代表はなんとかボールを死守しては仲間に託すを繰り返すも、イングランドの堅牢な守備と強烈なタックルに阻まれてまるで前に進めないでいた。いや、むしろ進んでは倒されを何フェーズも重ねることで、一歩進んで二歩下がるといった具合に自陣側へと徐々に徐々に押し込まれているような気さえする。
フィジカルにせよ技術にせよ連携にせよ、とにかく相手が強すぎる。こちらがどれだけパスを回してもそれ以上のスピードと位置取りで対応され、強引に正面から突っ込んだところで純粋な力比べに持ち込まれれば勝てるはずもない。
まだ試合開始から10分と経過していないのに、このわずかな時間だけで日本とイングランドを隔てる絶対的な力の差を俺たちは思い知らされたのだった。
そしてそんな激しいぶつかり合いとパス回しの駆け引きを途切れなく繰り返してばかりいるので、俺たち日本代表はいたずらに体力を消耗させられる。集中力も乱れ、プレーの精度も落ちるのは必然だった。
ついにボールを持った日本選手がタックルを受けて倒されたところで他の選手のカバーが遅れてしまった。倒されてすぐに楕円球を抱え込むように守ってしまい、ノットリリースザボールの反則を取られてしまったのだ。
「ああもう、間に合わなかったか」
味方からボールを受け取ったところで反則を言い渡され、キャプテンのジェローンさんがイングランド選手にボールを渡す。ここでボールを相手に奪われていればアドバンテージを取られ、俺たちが反則の状態を保ったまま相手ボールで試合が続行していただろう。
ゴールまではおよそ40メートル。経験豊富なキッカーでも外しかねない距離だ。
だが相手はトライを狙うよりもより確実性が高いと判断したのだろう、キャプテンはペナルティゴールを選択した。
キッカーの相手スタンドオフがキックティーにボールを置き、遠く離れたH字型のゴールポストにじっと狙いを定める。そして力強く蹴り上げられたボールは、高速で回転しながらまっすぐ2本のポールの間をくぐり抜けてしまったのだった。
超強豪イングランド相手に、日本代表は先制点を奪われてしまった。
「くそ!」
せっかくここまで守り抜いたのに。スタジアムで巻き起こる大歓声の中、俺ら日本代表選手たちは悔しがる。
「まだ試合は始まったばかりだ、3点くらい気にするな」
一方のキャプテンは、気落ちするメンバーひとりひとりの背中を順々に叩いて励ます。だがそう言って回る彼自身の瞳からも、一切の余裕は感じられなかった。
イングランドほどの強敵相手では、ほんの1失点でも命取りだ。この3点を取り返すために、日本はトライを3つ奪う以上の苦労を強いられであろうことは誰もがわかっていた。




