第三十五章その1 ラグビーの生まれた国
翌朝、羽田空港を飛び立った日本代表ブレイブブロッサムズは、直行便でロンドンへと向かった。
そして10時間以上のフライトを経てヒースロー空港に到着すると、バスに乗り継ぐのだ。
「フィッシュアンドチップスってうめーな!」
バスに乗る直前、いつの間にどこの売店で購入したのやら、進太郎さんは紙箱を片手に座席に座りながら揚げたてほかほかのフライを頬張っていた。
「美味いんすか、それ?」
美味いものと聞いて黙っていられる俺ではない。頬の落ちそうな笑顔の進太郎さんに、ぐいっと身を寄せる。
かつて英国の植民地であったニュージーランドでもフィッシュアンドチップスは定番料理で、俺も時々食べていた。結構美味しく楽しんでいたのだが、本場ロンドンではどんな味なのだろう?
「一口どうだ?」
「あ、どうも」
そして物欲しそうな俺に、進太郎さんは魚のフライの一部をちぎって気前よく渡してくれたのだった。その時、周囲の選手たちが羨ましいというよりも心配そうな視線を送ってくれていたことに、俺はまったく気付いていなかった。
「う!」
そして口に放り込んだ瞬間、舌どころか鼻の粘膜まで侵してしまう強烈な味覚。想像を超えたその味に、俺は両手で口を押さえてバスの中うずくまった。
「小森君、大丈夫?」
和久田君が不安げに覗き込む。下手に話すと戻してしまいそうなので、俺は「今は話しかけないで」と手をブンブンと振った。
そしてなんとか胃の奥へと流し込み、落ち着きを取り戻す。
「下味が……何もついてない。おまけに下処理もしてないから、すっげー生臭い」
イギリスの料理には気を付けろとよく言うが、これほどとは。日本で売られているフィッシュアンドチップスは、日本人の舌に合わせて改良されたもののようだ。
「進太郎さん、よくこんなの食えるな」
「あの人は前に馬原さんが持ってきたジンギスカンキャラメルを、うまいうまいって2箱食べ尽くしたことあるから」
和久田君がわかりきっていたような顔をこちらに向ける。君子危うきに近寄らず、だな。
てか馬原さん、修学旅行の高校生みたいなお土産持ってくるんじゃないよ。
やがて俺たちはバスに乗り込み、しばらく走って目的地へと到着する。
だがここはまだ、宿泊先のホテルではない。
「うわ、でっか!」
現地スタッフに案内され、グリーンの芝の上に立つ。そして突き抜けるような青空に照らされた8万2000の観客席の大パノラマに圧倒され、選手たちは唖然とした表情のまま固まっていた。
これは今まで俺が立ってきたスタジアムでも最多、横浜の日産スタジアムを上回る座席数だ。しかも陸上トラックの無い球技専用スタジアムなので、お客さんの顔もすぐ近くで見ることができる。
ここはトゥイッケナム・スタジアム。イングランドにおけるラグビーの聖地だ。過去には2度、ここでワールドカップの決勝戦も行われている。
また毎年開催される欧州最強国決定戦シックスネイションズでも、ほぼすべての試合で満席になるそうだ。ここでラグビーの試合に出られることは、世界のラガーマンにとっての自慢のタネになる。
「5日後にはここで試合するんだからな。それまでにきっちりコンディション整えておけよ」
キャプテンのジェローン・ファン・ダイクが言葉を失ったままの若手選手を叱責し、ようやく俺たちは「は、はひぃ!」と元の世界に引き戻される。
これから俺たちはここロンドンでイングランド代表と、カーディフでウェールズ代表と、そしてアイルランドに渡ってダブリンでアイルランド代表と試合を行う。いずれもフル代表との対戦だけあって、各国の誇るホームスタジアムでの開催となる。今からこんな状態では後が続かないぞ。
「ロンドン来たら、ビッグベンは見たいよな」
「試合の後一日だけレクリエーションの時間あるみたいだよ。そこで市内観光できるんだってさ」
世界のラグビーの中心地に立っているせいか、選手たちはいつもよりハイテンションで話していた。
「やあ!」
するとそこに、入場ゲートからひとりの男が現れたのだった。
「久しぶり!」
「え、ベンジャミン!?」
進太郎さんを上回る屈強な肉体を目にするなり、俺はぎょっと声をあげた。
「ミスター小森、何を驚いているんだ、ここはイングランドだぞ」
何の前触れもなくコートに現れたのは、昨年のU20チャンピオンシップでイングランド代表ナンバーエイトとして出場していたベンジャミン・ホワイトだった。
「まさか代表に?」
俺は思わず尋ねる。だが彼は即座に首を左右に振って否定した。
「いいや、今はまだ大学が忙しいからね。もし選ばれていれば、どれだけ嬉しかったか」
ベンジャミンは現在21歳の大学生だ。彼の実力なら次のワールドカップを見据えて今から代表に召集されていてもおかしくはないが、それはもう少し後になりそうだ。
「聞いたところでは、この試合の観戦チケットは販売開始から1日で売り切れたらしい。U20でイングランドが日本に敗れて、ブレイブブロッサムズにも注目が集まっている」
「へえ、俺たちそんなに注目されてるんだなぁ」
中尾さんが腕を組んで頷くと、ベンジャミンは「もちろん」と続けた。
「イングランドには日本代表のファンも多い。皆、ブライトンの奇跡をその眼で見ている。それ以降我々は、日本に特別なリスペクトを抱いているんだ」
ブライトンの奇跡とは、2015年ワールドカップイングランド大会で、日本が南アフリカを打ち破ったあの一戦のことだ。
あれから15年近く経ったが、今なおラグビー界にはそれに匹敵する衝撃は起こっていない。それほどまでにあの勝利はエポックメイキングな出来事だった。
「私もイングランド戦は見に来るつもりだ。試合、楽しみにしている。ただ……」
ずっと饒舌に話していたベンジャミンが、ここで急に口ごもる。思わず日本代表選手たちはぐいっと耳を近づけた。
「着るのはイングランド代表のジャージだけどね」
そして俺たちはぷっと吹き出す。誰かが「そこはしゃーないよ」と素早く言ってのけ、選手たちも和やかなムードに包まれたのだった。




