第三十四章その4 空港の夜
菅平での欧州遠征直前合宿では、連日セットプレーのタイミング合わせとパス回しの確認を行い、チームとしてまとまれるよう練習を繰り返していた。
さらに出国直前には東京へと移動し、秩父宮ラグビー場にてRリーグクラブである東京ギャラクシィズとの練習試合も開催された。
主力が日本代表に持っていかれている状態とはいえ長い時間を共に過ごしているプロクラブメンバーの連携は巧みなもので、俺たちはなかなかに苦戦を強いられる。それでもなんとか32-20で勝利を収め、欧州遠征を前にモチベーションを高めることができたのだった。
その日の夜のことだった。翌朝、ロンドンへの直行便に乗り込むため、俺たち日本代表は羽田空港に併設されたホテルに宿泊していた。
夕食の後はようやく自由時間だ。しかし昼間に試合、その後の反省会、そしてバス移動となかなかにハードなスケージュールが立て込んでいたおかげで、体力自慢の選手たちも夕食時にはくたくたに疲れ果てており、自由時間を楽しむ余裕などまるで残されていなかった。みんなさっさと入浴を済ませて、そのまま布団に潜り込んでしまうつもりだろう。
「小森、ここの大浴場でっかい天然温泉らしいぜ。入ろう入ろう!」
「すみません、ちょっと用事がありまして」
食後、上機嫌で誘う進太郎さんを振り切り、俺は小走りでロビーからホテルの外に出る。
ホテルを抜けたそこは空港のターミナルビル、航空会社のチェックインカウンターがずらりと並ぶフロアだった。さすが空港直結が売りなだけある、搭乗直前までホテルで休んでいられるなんて最高だな。
と、今はそこに感心している場合ではない。俺はエスカレーターを上り、ターミナルビル最上階の展望デッキへと出た。
ガラス張りの扉を開くと同時に、びゅんと吹き込む冷たい夜の空気、グオオオと響くジェット音。ちょうど今まさに、目の前の滑走路から飛行機が飛び立ったところだった。
「太一!」
そしてランプを点滅させながら空高くへと上昇する飛行機をバックに、白地のコートを羽織った女の子がこちらを振り向いた。
大学生になった南さんだ。
「ごめん、待った?」
「うん、でも飛行機見てたから平気だったよ」
にっと笑う彼女。俺は駆け足で彼女の隣に立つ。
久しぶりに日本に帰ってきたのに、合宿と試合で自由に動きまわれる時間はほとんど無かった。彼女と直接会える唯一というタイミングが、今日この夜の自由時間なのだ。
「ついに太一も日本代表初キャップだね、おめでとう」
「うん、ありがとう。まだ試合出てないからキャップもらえるかはわからないけど……でも想像よりもずっと早くて、正直今でも夢を見ているんじゃないかって思う」
ラグビーではテストマッチに出場した回数のことをキャップという単位で表される。これまでに10回テストマッチに出場した選手は10キャップ、初めて出場した場合は初キャップと呼ぶことが多い。
「どう、うまくいけそう?」
尋ねる南さんに俺は「もちろん、準備万端」と親指を立てる。
「と言いたいところだけど、スクラムがまだまだ不安だよ。今日の試合もかなり危なかったし」
しかしその直後、俺は強く立てた指をへなへなと引っ込めてしまったのだった。
俺とテビタさんを軸とした日本代表のスクラムは、なかなか安定しなかった。プロップだけではない。ロックやフランカーも同じタイミングで同じ方向に押し込まねば強豪には通用しないところ、まだそのレベルまで達したという感覚は持てない。なんとか個々人の力量でカバーしているという印象だ。
「みんな我が強くて、そう簡単には息がそろわないんだ」
「日本代表ってあちこちのチームから強い人だけを集めた急造のチームだもんね。そりゃまとまるまで時間もかかるよ」
そう言って南さんは同情するように溜息を吐いた。
ワールドカップ前なら長期の合宿を組むこともあるが、毎年恒例のウインドウマンスにはそこまで時間はかけられない。
本当に、情けなく思えてくる。俺がスクラムの要なのに、ろくにまとまったスクラムを組めないのでは。日本代表選手にも応援してくれるファンの皆さんにも申し訳が立たない……。
ああ、考えれば考えるほど、気落ちしてしまう。
「でもそれって、相手も同じじゃない?」
だがそんな俺に、南さんは宥めるような声をかけてきたのだった。
「相手だって世界中の選手を集めて、急いでチーム作ってるはずだよ。今ごろイギリスでも、大慌てでスクラムの練習してたりして」
「そうかな?」
「そうだよ。太一がしんどいって感じてるなら、きっと相手もしんどく思ってるはずだよ。こうなったらあとは最後まで諦めなかった方の勝ち、しんどくても耐え抜いたほうが勝てると考えたらいいんじゃないかな?」
彼女の言うことに根拠はまるで無い。相手チームの実際の状況は戦ってみないことにはわからないし、もしかしたら経験豊富なメンバーをそろえてプロクラブ級の熟達した連携を繰り出してくるかもしれないのだ。
それでも彼女の言葉には不思議なパワーがあった。なぜか南さんが言うと、荒唐無稽な内容であっても本当にそうなるような気がしてくる。
そのせいか俺の気はずいぶんと軽くなった気がして、微笑む彼女に「そうだね」と笑い返したのだった。
「ところで南さん、大学はどう?」
「うん、都大との対抗戦、4年振りに勝てたよ!」
待ってましたとばかりにVサインを向ける。彼女は国際教養学部に通いながらラグビー部のマネージャーを務めていた。中学高校とマネージャーを6年続けてきたおかげで練習メニューの考案やマネジメントに関しては上級生を凌ぎ、さらに大学からラグビーを始めたという経験の浅い選手の指導にも付き合っているそうだ。
「やったね、おめでとう!」
「うち、そこまで強くないから。太一とはやってることのレベルが違うよ」
てへへと可愛らしく笑う南さん。ただし部内ではその容赦ない指導っぷりから、コーチ以上に恐れられていると某所で聞いたことがある……きっとこの笑顔に騙された選手たちもゴロゴロいるだろうな。
「にしても試合が夏休み期間中なら私も見に行けたのに。どうして11月なんて中途半端な時期にやるかなぁ……そうだ、ワールドカップてたしか9月だったよね?」
「うん、だいたい9月から1月半くらいだよ」
俺は頷いて返した。ワールドカップは毎回9月中に始まり、10月下旬か11月上旬に終わるのが恒例となっている。ラグビーのカレンダーはワールドカップを基準に作成されるため、ワールドカップイヤーは各国リーグの開催時期も大幅にずれ、中には試合数自体が減ってしまうリーグも存在する。
「あー、決勝戦はもう学校始まってるのか。でもグループリーグならまだ9月だよね」
南さんは顎に指をあてて考え込むと、最後に大きく頷いたのだった。
「じゃあ次のアイルランド大会、2031年には現地まで見に行くから! 絶対それまでに代表メンバーに定着しててね!」
「また無茶な難題を」
きらきらと目を輝かせる南さんを前に、俺は苦笑する。この前ジェローンさんに叱られたように、ワールドカップメンバーに残るのは並大抵のことではない。今回の遠征は若手に経験を積ませるという目的のため俺や和久田君が招集されたものの、見込み違いなら次のテストマッチでは呼ばれないことだってあり得るのだ。
「前話してたじゃない、ハミッシュ・マクラーセンは18歳でオールブラックスでワールドカップに出場したって。だからこのまま日本代表に残れば太一もできるよ!」
だがそんなこと南さんにとってはどうでもよかった。ぐいっと一歩、俺の顔面に顔を近付ける。
「わかったよ、アイルランドまでの飛行機代、ちゃんと貯めといてよぉ」
「安心してよ、バイトもたくさん入れてるしね」
そして親指を立ててOKサインを送る南さん。
とんでもないことを言う子だなぁ……だがもし本当にそうなったとしたら、飛行機とホテル、観戦チケット代くらいは全部俺が手配しよう。もちろん自分の両親や、ハルキや先生ら横浜の友達の分も。
そうか、みんなをアイルランドに連れて行くためにって思えば、頑張らなくちゃって気も湧いてくるな。
「絶対、約束してよ」
「もちろんだよ」
そして約束を交わし、ふと沈黙が訪れる。
ここは夜の展望デッキ、飛び立つ飛行機の音以外は人の声も聞こえない。偶然にもこの時、俺たち以外は誰もこの場にいなかった。
あれ、これかなり良いムードじゃない?
こっちを見つめる南さんの瞳も、周囲の明かりを反射していつもより一際輝いているように見える。
俺はそっと彼女の背中に腕を回した。そしてその細い身体を引き寄せようとした、まさにその時だった!
「中尾さん進太郎さん、飛行機はやっぱ男のロマンですよ!」
俺も南さんも、大慌てで飛び退く。
この声、まさか和久田君!?
「今飛び立ったのはドイツのザクセン航空で、機体は797ですね。今の時間ならおそらく、フランクフルト行きの便じゃないでしょうか?」
振り返ったそこにいたのは、3人の人影。シルエットから判断するに、和久田君と進太郎さんと中尾さんだろう。
「なあ、和久田ってこんなキャラだったか?」
進太郎さんの声だ。いつも豪快な彼も、熱弁するオタクのエネルギーには敵わないようだ。
「こいつ乗り物のこと語る時だけ性格変わるんだ。自動車は知ってたけど、飛行機でもこうなるってのは知らなかったな」
自分もオタクであるという自覚があるためか、中尾さんは冷静に答えていた。
しかしヤバいぞ。こんな場面、見られたら絶対に面倒なことになる。特に進太郎さんには!
俺たちはさっと身を屈め、照明の届かない位置に素早く移動する。そして3人に気付かれる前に、こそこそと展望デッキから退散したのだった。




