第三十四章その3 初練習
「小森、大丈夫か?」
椅子に座ってもなお放心状態の俺に、中尾さんは心配そうに声をかける。
「は、はい、ありがとうございます」
俺は一瞬遅れて答えるが、胸の中はまるで落ち着いてなどいなかった。
ショックだった。まさかあんなこと言われるなんて。それも同じプロップの先輩に。
「テビタさん、何を思ってあんなこと言ったんだろう……」
力無くだらんと背もたれに体重を任せ、ついぼそっと呟いてしまった。
「テビタさんの言いたいこと、僕なんとなくわかるよ」
俺の独り言が聞いたのか、前の席に座っていた和久田君が振り返った。すぐに俺は身を乗り出し、「どういうこと?」と小声で尋ねる。
「前に聞いたことあるんだけど、テビタさんは10人兄弟の貧しい家に生まれたみたいなんだ。お父さんが病気で仕事できなくなって、お母さんやお兄さんが働いて一家を支えていたみたいだけど、トンガじゃできることも限られている。貧しさから脱出するにはラグビーしかなかったそうなんだ」
なんと、テビタさんにそんな経歴が。
かつてブラジルのペレがサッカーによってスラム街から立身出世を成し遂げたように、ラグビー界においても貧しさから抜け出すため競技に打ち込んでいる少年は少なくない。
「必死でラグビーに打ち込んで、奨学金取って高校から日本に留学して、卒業してからもずっとRリーグに所属している。今も稼いだお金の大半はトンガの家族に送って、財団に寄付しているらしいよ」
トンガにもラグビークラブはあるにはあるが、人口10万程度で経済基盤も弱い国内では収入面での期待はできない。実際に南太平洋の小さな島国から、世界各地のクラブへと多くのラグビー選手が出稼ぎ目的で進出している。安定した産業の無い国々にとって、彼らラグビー選手の活躍は外貨を稼ぐ貴重な手段なのだ。
「テビタさんにとってラグビーは生きるための糧そのものなんだよ。以前トンガ代表からもオファーがあったけど、断って日本代表を選んだって話は聞いたことがある。きっと待遇や勝率がより良かったから」
「そうか、テビタさんにとってみれば、俺はぬるま湯に浸かってる向上心の無いヤツに見えたんだろうな」
なんだか気分が重くなってきた。俺自身は日本代表を選んで良かったと思っているが、それを快く思わない人もきっと大勢いるのだろう。
「まあ心配すんな。テビタさんをぎゃふんと言わせる方法がひとつだけあるぞ」
だがその時、ふふんと鼻を鳴らして進太郎さんが横から割り込む。自信たっぷりなその様子に、中尾さんは「どうするんだよ?」と訊いた。
「オールブラックスに勝てばいいんだよ。日本代表が」
そして言ってのける進太郎さん。途端、その場にいた全員がずっこけ、中尾さんが「それができたら苦労しねーよ!」と頭を叩いた。
やがて選手全員がそろい、指定された時間となる。そこに一人の50歳くらいの白人男性が現れ、壇上に立った。
男性を前にした選手たちは物音ひとつ、息を吸い込む音すら立てるのをはばかられ、異常な緊張に包まれていた。
この顔を俺は知っている。いや、知らないとラグビー関係者としてどうなんだと総ツッコミを受けるだろう。
「こんにちは、初めましての方は初めまして。日本代表ヘッドコーチのケイン・アルバートです」
日本代表ヘッドコーチ、ケイン・アルバート。日本のテレビではその顔を見ない日は無いほどの知名度だが、実際にこの目で姿を見るのは初めてだ。
20年ほど前にスーパーラグビーで大活躍したニュージーランド出身の選手で、ウイングでありながら190cmの長身と屈強な骨格はそこらのフォワードのタックルなら軽くはね返していたという。さらに晩年は日本のクラブでプレーし、30代半ばにしてリーグ最多得点を記録して中堅クラブを優勝に導くなど日本のラグビーファンの度肝を抜いた。
引退後はヨーロッパのクラブで指導者を務めていたが、前回のワールドカップ終了後から日本代表ヘッドコーチとして任命され、指揮を執っている。
まさに日本ラグビー史を語る上で、欠かすことのできないレジェンドだ。
「さて、これから私たちは欧州遠征でイングランド、ウェールズ、アイルランドの3か国とテストマッチを行うわけですが」
メンバーたちが静まり返る中、ヘッドコーチは話しながらタメを作った。
「この欧州遠征で全勝する。このメンバーならそれができると信じています。そのためのプランを考えてきたので、皆さんには規律をもって順守してもらいたい」
随分と大きく出たものだ。この相手なら全敗で終わってもおかしくないし、そうであっても誰も責めることは無いくらいなのに。
その後ヘッドコーチはプロジェクタを起動させ、壇上の大画面を使って作戦について講義を始めた。チームの方針、パス回しの概要を説明し、やがて話題は個々のポジションへと移った。
「そしてフロントロー」
スクラムに関しての説明の最中だ。自分のポジションを呼ばれ、俺はこれまで以上にピンと背筋を伸ばし耳をとがらせる。
「今回のメンバーは左プロップに135kgの小森、右プロップに140kgのテビタ・カペリと世界でも類を見ない重量級がそろっている。このふたりを軸とした強固なスクラムを完成させれば、ニュージーランドや南アフリカ相手でも押し返せるはずだ」
スクラムの軸が俺とテビタさんだと?
俺は思わずちらっとテビタさんに視線を向ける。彼は選手を何人も飛ばして、自分とは離れた席に座っていた。
だが俺が目を向けたのとほぼ同時に、テビタさんもまたこちらをじろっと睨み返したのが見えた。
俺はびくっと震えあがったものの、テビタさんはまるで意にも介していないかののようにすぐに画面に目を戻したのだった。
ミーティングの後は早速、練習が待っていた。ホテル近くの練習場を借りて、今日会ったばかりのメンバーが連携の確認を行う。
「ではスクラム、組んで!」
スクラムコーチの指示に従い、一塊になったフォワード8人は一斉にスクラムマシンに突っ込んだ。
さすがは日本代表、全員が全員凄まじいパワーと技術を備えており、今日初めて組んだとは思えない圧力でスクラムマシンを押し返している。個々のスキルなら俺の所属していたオークランド州代表を上回っているだろう。
「うーん、まだまだだな」
しかし近くで眺めていたヘッドコーチのケイン・アルバートさんは満足いかない様子だった。
「スタートのタイミングがバラバラだ。これをそろえれば急激にプレッシャーを高められるので、体格の勝る相手でも押し返すことができるのだが……スクラムハーフ、ちょっとこっち来てくれ」
「はい!」
ヘッドコーチに呼ばれた和久田君たちスクラムハーフ陣が、パスの練習を中断して駆けつける。日本代表と言えどスクラムハーフは160cm台の小柄な選手がほとんどで、180cm近い和久田君は飛び抜けて大きく見えた。
「8人がスクラムを組んでマシンを押し始めた後、好きなタイミングでボールを転がし入れてくれ」
実戦に近い形式でのスクラム練習だ。試合では相手が容赦なく押してくるのでさらに難しいのだが、初顔合わせの今日はこれで十分だろう。
指示通り、俺たちフォワードがスクラムを組んで押し始めたところで、スクラムハーフが俺の足元からボールを転がし入れ、それを前列真ん中のフッカーが足で止める。そこで「せーの!」とフッカーが声を出すと同時に8人全員が渾身の力で前に圧力をかけるが、ヘッドコーチは「もういいもういい!」と練習を中断させた。
「左プロップ、力入れるのが早いぞ。逆に右は遅い」
ミスを指摘され、たちまち俺は申し訳ない気分に沈んでしまう。
スクラムは全員で同時に強く押し込むのが理想なのだが、自分の足元をボールが転がるのを目視できる左プロップと、それができない右プロップとではどうしてもタイミングがずれてしまう。
「スクラムで負けないチームは試合にも負けない。フッカー、合図の声をもっと大きくはっきりと。他のメンバーも全力で押しながら、耳を研ぎ澄ませろ」
早速ひとつ課題が明らかになって、ヘッドコーチの指導にも熱が入る。俺たちはそこからもスクラム練習を繰り返し、全員でタイミングを合わせることに注力したのだった。
「ふう、しんどいしんどい」
夕方、ようやく本日の練習が終了した。他のメンバーが更衣室に向かう中、俺と和久田君は着替える前に練習場内の自販機前で買ったばかりのジュースを飲んでいた。
「にしてもやっぱ日本代表てすごいね、みんな言われたことをすぐに完璧にこなして」
果汁100%オレンジジュースの缶から口を離し、和久田君が感心したように息を漏らす。
「うちはスクラムまだまだだよ。遠征までになんとかしないと」
冷えたコーラは練習終わりに最高だ。俺はぐいぐいっとペットボトル1本を飲み干した。
ちょっと長く話し込んでしまったせいか、着替え終わった他の選手たちがホテルに歩いていく姿も見える。
俺たちもさっさと着替えようかと、練習場併設の更衣室に向かって二人並んで歩いていたその時だった。
「あれ、誰かいる」
和久田君の声につられ、練習場に目を向ける。
俺の目に映ったのは、ひとり用スクラムマシンに向かって黙々とプッシングを続けるひとつの巨体だった。さらにスクラムマシンの上にも、もうひとりが立っているようだ。
「あれって、テビタさん?」
あんな巨体を見間違えるはずがない。誰もいなくなった練習場で居残って練習していたのは、右プロップのテビタ・カぺリさんだった。
足の角度、置く位置。そういった細かな部分をセンチメートル単位で身体に叩き込むため、何度も何度もプッシングを繰り返す140kgの巨漢がそこにいた。
「ビタ、謝りたいなら素直に謝りに行けよ」
練習に励むテビタさんを見下ろして、スクラムマシンの上に立って話しかけるのは日本代表キャプテンのナンバーエイト、ジェローン・ファン・ダイクだった。彼もテビタさんの居残り練習に付き合っているようだ。
「あんなことを言ってしまった手前、あの若造に後れを取るわけにはいかん。むしろ俺がカバーしてやらんと。それにジェローン、俺は間違ったことを言ったとは思っていない」
テビタさんはその白目でキャプテンをギロッと睨み返す。そしてまた自分の姿勢を丁寧に確認しながらスクラムマシンに突っ込んだのだた。
「素直じゃないなぁ」
ぐらりと揺れるスクラムマシンの上で、キャプテンはけらけらと笑っていた。
その姿を見ていた俺と和久田君は無言のまま顔を見合わせる。
なんだか嬉しくなってきた。何も言葉に出さないまま、俺と和久田君は同時に走り出した。
「すいませーん、俺たちも混ぜてくださーい!」
そして練習の疲れもどこへやら、元気よく手を振ってふたりの元へと駆け寄ったのだった。




