第三十四章その2 久々の菅平
「懐かしいな、この空気」
10月末、日本に戻った俺は横浜の実家には立ち寄らず、東京駅から北陸新幹線へと乗り込んだ。
向かったのは長野県菅平。中学1年の夏合宿以来だから、丸6年以上ぶりの訪問になる。
高地の清涼感のある空気を、俺は肺いっぱいに吸い込んだ。東京ではまだ時々夏のような暑さが再来することもある季節だが、標高の高い高原には冬の冷たささえも感じられた。
11月のウインドウマンスに向けて、今日からこの地で日本代表メンバーによる直前合宿が開催される。
指定されたホテルに着いた後、荷物を預けた俺は大会議室へと向かった。
室内には日本代表のジャージを着た男たち数名が先に到着しており、顔見知り同士で談笑している。選手ごとに指定された座席が用意されていたものの、まだ時間に余裕があるのでそれぞれがあちこち立ち歩いていた。
「小森君、久しぶり!」
耳に親しみのある声が後ろから聞こえ、俺は胸を高鳴らせながら振り向く。
「和久田君、やっぱり選ばれてた!」
話しかけてきたのはスクラムハーフの和久田君だった。すでに地元福岡で期待の若手から攻撃展開の要として欠かせない存在へとランクアップしていた彼は、「そりゃもちろん」と得意げに腕を組んだ。
「よう!」
「元気だったか?」
さらに秦進太郎さん、中尾さんも手を振りながらこちらに近付く。
「皆さん、お久しぶりです!」
つい3ヶ月ほど前にいっしょに優勝カップを掲げ合ったばかりなのに、再会したふたりはさらに一回り逞しくなっているような気がした。
「二十歳になる前に日本代表に選ばれる奴がいるとは、協会も思い切ったことしたもんだな。それもふたりも」
進太郎さんがでっかい手の平で俺と和久田君の頭をがしがしと撫でる。
「ええ、聞いたところでは今回は若手選手を大勢呼んでるみたいですね。この遠征が代表初招集って方も多いですし、A代表でいっしょだった方もいらっしゃいますし」
かき回されたおかげで乱れてしまった髪を手櫛でなおしながら、俺は室内をぐるりと見回した。
「ああ、それワザとらしいよ。代表の若返りを図っているんだってさ」
ここだけの話とばかりに、中尾さんが声のトーンを落とした。
「そりゃなんでまた?」
彼につられて、進太郎さんも小声で尋ねる。
「次のワールドカップに備えて、今から経験を積ませておきたいんだろう。ほら、前回は平均年齢高めだったから」
前回2027年アルゼンチン大会でベスト12と決勝トーナメント初戦敗退を喫した日本代表にとって、次回2031年アイルランド大会で決勝トーナメント1勝を挙げることは至上命題だった。この壁を破れてこそ、日本のラグビーが世界で通用するようになったことをようやく証明できる。
ちなみにジュニアジャパンで大活躍だったパトリックさんも、実力的にはこの場にいてもおかしくはないだろう。しかしながら生憎、現在大学生である彼は大学選手権の方に尽力している。
「てことは?」
俺はにやっと、わざとらしく良からぬ笑いを浮かべる。俺が何が言いたいのか、この場にいた面々はすぐに理解したようでたちまち全員が俺と同じ顔になった。
「このままいけば、俺たち次のワールドカップにも出られるんじゃね?」
進太郎さんがぐっとガッツポーズを決めると、皆が声を殺しながらも「イエーイ!」と小さな歓声をあげる。
世界最高の舞台で戦える。それはラガーマンにとってこの上ない名誉であり、ここに至った者は一流の選手として世界的に評価される。
盛り上がる若手選手たち。だがそう浮かれる俺たちに、突如ぴしゃりと鋭い声がかけられる。
「そんな甘いものじゃないぞ。毎回50人以上が候補に選ばれるけど、出場できるのは31人だけだからな」
振り向いた俺は言葉を失った。
でかい。191cmはあろう長身に、逞しい骨格と太い筋肉。そしてワイルドに伸ばした金髪。いかにもラグビー選手といった荒々しい風貌の白人男性だった。
「あ、す、すんません!」
あの進太郎さんの顔が、一瞬にしてさっと青ざめる。他の選手たちも進太郎さんに続いて頭を下げた。
「ほ、本物……!?」
だが俺はこの大男を前にして、ただただ口元を手で抑えて絶句することしかできなかった。そうか、日本代表と言うことは、この人にも会えるということか!
「あ、そういえば君は初めてだったな」
白人男性は俺の顔を見て、ぱちくりと瞬きする。そしてにかっと微笑みながら、ごつごつとした太い手をこちらに差し出してきたのだった。
「キャプテンのジェローン・ファン・ダイクだ。よろしく」
「は、はい、よろしくお願いします!」
感激のあまり、声が裏返っていた。
南アフリカ出身の日本代表ナンバーエイト、ジェローン・ファン・ダイク。俺より8つ年上の彼は所属先の横浜グレイトシップス、いやRリーグ全体で見てもトップクラスの人気を誇るスター選手だ。
191cm107kgという恵まれたフィジカルと、タックル、パス、キックのいずれも高いレベルでこなす卓越した技術。高校、大学、そしてRリーグとずっと日本でラグビーをプレーしてきた彼は日本語も堪能で、とっつきにくい見た目からは想像もつかないほど知的であり、なおかつバラエティ番組にも出演してボケをかますほどのユーモアも備えている。
前の人生、普段から熱心にラグビーを視聴していたわけではないが彼の名前と顔はよく覚えていた。日本代表キャプテンとして2027年と2031年の2回ワールドカップに出場したのを記憶している。おそらくはラグビーに興味の無い主婦や女子学生でも、彼の姿を見れば「ああ、あのラグビーの人ね」と答えるだろう。
そしてラグビー選手になった今、俺は改めて彼の凄さを実感している。ニュージーランドやイングランドといった超一流国の選手にも引けを取らない万能性。彼以上のナンバーエイトを日本国内で見つけることはまず不可能だ。
「ところで小森君は、イギリスに行ったことはあるのかな?」
ジェローンさんからの問いかけに、夢見心地だった俺ははっと我に返って「いえ、初めてです」と首を横に振った。
「そうか、今回の遠征ではアイルランドの気候を体感することも目的だからな。かなり冷え込むから厚めのコートを準備しておいた方がいいよ」
そう話すジェローンさんはフレンドリーであるが、進太郎さんはじめ周りの選手たちはまるで上司の前に立っているかのようにピンと背筋を伸ばしていた。
さて、これから英国遠征に向けて直前合宿が始まるわけであるが、ここで現時点の世界ランキングを見てみよう。
世界ランキング上位20か国(2029年10月現在)
1.ニュージーランド
2.南アフリカ
3.イングランド
4.ウェールズ
5.オーストラリア
6.アイルランド
7.アルゼンチン
8.スコットランド
9.フランス
10.日本
11.フィジー
12.イタリア
13.アメリカ
14.ジョージア
15.カナダ
16.サモア
17.トンガ
18.ルーマニア
19.韓国
20.ウルグアイ
6月のインターナショナルネイションズカップでの好成績のおかげでカナダと韓国の順位が普段よりやや高くなっているのを除けば、他は順当と言ったところだろう。上位10か国が日本を含めてすべてティア1であることは決して偶然ではない。
今回の遠征で日本が戦うのはイングランド(3位)、ウェールズ(4位)、アイルランド(6位)の北半球上位3か国。いずれも格上の強豪国ばかりだ。以前からマッチメイクされていたとはいえ、よくまあこんな強国とやり合えるようになったものだ。
「ようジェローン」
その時、新たにひとりの選手が入室し、キャプテンに声をかけた。
「やあビタ!」
手を振り返すキャプテン。現れた男は、ずんずんとその巨体を揺らしながらこちらへと向かってくる。
その姿を目にして、俺はまたしても「うお!?」と感激に声を漏らしていた。相撲取りのように筋肉と脂肪をバランスよく備えた肉体、浅黒い肌にぎょろっと周囲を威嚇するような白目。
「そうだ紹介するよ、テビタ・カぺリだ。右プロップとして小森君と同じフロントローをすることになるよ」
思いついたようにジェローンさんが話し出すも、俺はその声を半分も聞き取ることができなかった。
この男について知らないはずがなかろう。トンガ出身の日本代表右プロップ、テビタ・カぺリだ。
俺よりも5つ年上のテビタさんの体重は140kg。これは歴代日本代表最重量であり、スクラムにおいては相手左プロップとフッカー、ふたり分のパワーに耐え忍ぶだけの踏ん張りの強さを備えている。
「お、初招集か?」
テビタさんが親しげに話しかける。
「はい、よろしくお願いします。小森太一です」
嬉しさのあまり、俺の声はまたしても上ずっていた。
だがその時だった。にこやかだったテビタさんの顔が、むっと歪んだのだ。
「小森って……ニュージーランドからの誘いを蹴って日本を選んだという?」
「はい、日本を選んで皆さんにお会いできて、本当に良かったと思います」
だが彼の表情の変化など俺は気付く余裕もなく、嬉しさに任せて握手の手を伸ばした。
テビタさんは俺の手を握り返す。だがほんの1秒もしない内に手を解き、そして言い放ったのだった。
「せっかく可能性があるのに自分からより勝てる見込みのあるチームを振るなんて、俺には考えられないな」
「へ?」
俺含め周りにいた全員の時が止まった。俺に至っては何て言われたのか理解するのにしばらく時間がかかったほどだ。
「ビタ!」
すぐにジェローンさんが怒気を込めて声をあげる。だがテビタさんはくるりと回れ右すると、振り返ることも無くそのまま自分の席まで歩き去ってしまったのだった。




