第三十三章その5 お前と戦えて嬉しいよ
カナダとの決勝戦は序盤、日本有利で進んでいた。
前半8分、ジュニアジャパンのパスがつながり、大外から攻めたウイングが快足ぶりを発揮して早々にトライを奪う。だがここからカナダ代表はスイッチが入ったように果敢に攻め込むようになり、押しつ押されつのせめぎ合いが続いていた。
そして日本が7点リードで迎えた前半20分、隙を突いて大きく前進したカナダは、日本陣内深くまで攻め込んでフォワード勝負を展開していた。
さすがはフォワードに定評のあるカナダだが、今大会最重量級のジョージアに耐え切った自信のある俺たちは彼らの猛攻にもなんとか耐え忍んでいた。全力で身体をぶつけてくる相手を確実に受け止め、ボールを奪い返す機会を窺う。
そんなこんなで8フェーズほどを重ねた時だった。猛然とぶつかってきた相手を、俺は自身の身体でがっしりととらえて地面に倒す。だがその拍子に、俺もいっしょに倒れ込んでしまった。
すぐに両軍の選手が駆けつけたことでラックが形成され、集まった敵選手が壁を作る。その最後尾では相手スクラムハーフが次どこにボールを回すべきかと中腰のままちらちらと周囲を見回していた。
カナダ代表スクラムハーフの視線がどこを向くのか、守備ラインを作るジュニアジャパンの選手たちもじっと注視する。今はラックが成立しているので守備側である俺たちはうかつにボールに触れることができない。
その頃、タックルを決めてから俺はずっと芝の上で転がっていたもののようやく立ち上がり、ふとカナダ陣側に目を向ける。
そしてすぐさまぎょっと目を剥いた。ウイングとセンターを残し、いつの間にかフルバックのジェイソン・リーが日本の22メートルライン付近まで上がってきているのに気付いたのだ。
これはニュージーランド留学して1年目の、U15オークランド地区決勝戦の時と同じだ!
「まずい!」
声をあげるも既に遅かった。相手スクラムハーフは拾い上げたボールを躊躇なく、後方のジェイソンへと素早くパスで送る。
楕円球を受け取ったジェイソンは一瞬の間も置かず、足元にボールを落とす。そして地面に一回バウンドさせると、力強く右足を振り抜いたのだった!
そう、ドロップキックだ!
ヘリコプターの回転翼のように、蹴り上げられた楕円球は猛スピードで回転しながらゴールポストの2本の柱の間をくぐり抜ける。
「ドロップゴール!」
レフェリーのコールとともに会場が大歓声に包まれる。今大会、ドロップゴールを決めた選手はまだいない。それをジェイソンが、それも決勝戦で成功させたことはカナダから駆けつけたファンにとって非常に大きな喜びだった。
これでスコアは7-3。日本の方がリードしてはいるが、流れはカナダに傾いている。
「あのジェイソン・リー、肝の座ったキッカーだね」
パトリックさんが口に手を当てて感心したように呟く。
「あそこでのドロップキックは外す危険も大きい。自分なら試合終了直前でもない限り選択しないのに……」
難度の高いドロップゴールを大一番で決めるのが並大抵のことでないのはキッカーであるパトリックさんもよくわかっていた。プール戦で対抗心剥き出しだったのに、今のパトリックさんからは風がいくら強く吹こうと波ひとつ立てない水面のような冷静さが感じられた。
なお当のジェイソンは盛大な拍手を贈る1万の観客に向けて、手を振って応えている。試合前の真剣な顔つきとはまるで違う、俺のよく知る調子ノリのジェイソンの顔だ。
「小森君、そういえば君は彼からキックを教わったことがあるんだったよね?」
不意にパトリックさんが尋ねてきたので、俺は「は、はい」と詰まりながらも返した。
「それだけでも十分、ニュージーランドに留学した価値はあると思うよ。そりゃ今年のカナダが強いわけだよ、あれだけのキッカーがいたんじゃ」
その後、試合再開とともに日本の蹴り込んだボールを巧みにつなげたカナダは勢いそのままに、再び日本陣内まで持ち込んでいた。
スタジアムは割れんばかりのカナダコールに包まれている。かつてない大声援を受けて、メイプルリーフスの選手たちも100%以上の力を発揮していた。
突っ込んでは日本のタックルに倒れるも、すぐに仲間のサポートが入ってボールをこちらに渡さない。少しずつながらじりじりと、確実に、日本の守備ラインは後退させられていた。
そんな時、またしてもジェイソンが日本陣内まで上がってきたのだ。
またあのドロップゴールが!?
ジュニアジャパンの選手たちははっと顔を上げ、全員がジェイソンに注意を向けた。
やがて先ほどと同様に、ラックの最後尾でスクラムハーフがボールを拾い上げると、即座に後方のジェイソンへとボールを送った。
「俺が止める!」
そう言って守備ラインから飛び出したのは、フランカー進太郎さんだった。スクラムハーフがボールから手を離すと同時に芝を蹴って走り出した彼はカナダ選手たちの脇を抜けると、大きく腕を広げてジェイソンに飛びかかる。キックを妨害する、チャージの動きだった。
だがジェイソンは伸ばした腕をすっと引っ込めるとボールを脇に抱え、なんと自ら急加速で走り出したのだった!
「なに!?」
進太郎さん、そしてジュニアジャパンの選手たちが一斉に目を大きく開く。ドロップゴールで来るかと思ったら、まさかキッカー自身が走り出すなんて。
ジェイソンは長く逞しい脚を回転させ、守備の薄いタッチライン際に走り込む。近くを守っていた日本のウイングがタックルをしかけるが、ジェイソンは体格差にモノを言わせて長い腕でウイングの細い身体を押しのけてしまったのだった。
アルゼンチンのリカルド・カルバハルもジェイソンと同じくキックの名手ではあるが、彼は多少のリスクを度外視してでも隙あらばドロップゴールを狙ってくる傾向があった。
しかしジェイソンは違う。直接突っこんだ方が確実だと思えば自ら走るし、仲間に任せた方が良いと判断すれば迷うことなくパスを選択する。
加えてジェイソンはフルバックであるが、190cm近い高身長に100kgに迫る体重を誇る。数字だけならフォワードでもやっていけるレベルだ。おまけに足も速い。
ひとりで多彩なプレーをこなす彼は、攻撃方法もバラエティに富んでいる。単なるキッカーではない、この攻撃の選択肢の多さこそが、ジェイソン・リーという男の真骨頂だ。
だが彼といっしょにいた時間の長さなら、俺に勝る者はこのスタジアムには誰もいない。
ジェイソンならこう動くだろうと予測した俺は他のジュニアジャパン選手たちの反応が遅れる中、ただひとりタッチライン方向へと走り出していた。こっちは鈍足ではあるが、このタイミングなら十分間に合う!
「なに!?」
さすがのジェイソンも俺がこう動くとは予想していなかったようだ。ラインギリギリを全力疾走する彼は、ほんの一瞬、こちらに驚いた眼を向ける。
直後、俺はジェイソンにとびついた。彼の身体をしっかりとバインドし、そのままタッチラインの外へと押し出した!
耳に届くは観客の絶叫とどよめき。やがて俺とジェイソンはもつれ合って地面に倒れ込み、ふと顔を上げると突っ込んだ勢いのせいか芝の上では楕円球が不規則にバウンドしていた。
「よくやったぞ小森!」
「ナイス判断だ!」
駆け寄った日本選手が口々に俺を褒める。
「いえ、ジェイソンならこうするかもってなんとなく思って」
俺は頭を掻きながら立ち上がった。だがキャプテンの中尾さんはぐっと親指を立てて「いやいや」と首を横に振った。
「そのなんとなくが大切だよ。勘の良さは技術も作戦も全部ひっくり返してしまうからな!」
一方、倒れた際にどこかぶつけたのか、ジェイソンは顔を歪めながらゆっくりと身体を起こした。
「ジェイソン、大丈夫?」
痛そうな彼の表情に不安を覚え、俺は声をかけながら手を伸ばした。無言のまま、ジェイソンの白い手がこちらの差し出した手をつかむ。
「小森」
しかし彼は芝の上に腰を下ろしたまま、そこで止まってしまった。代わりに俺の顔をじっと睨みつけている。
「よく考えたら、公式戦でお前と戦うのって初めてなんだな」
「うん、そうだね」
「ありがとうな」
え? なぜ今?
返答に困り、俺はジェイソンと手を握ったまま固まってしまった。やがてジェイソンの口角がふっと上がり、よっこいしょと立ち上がる。
「俺、ニュージーランドまで行って本当に良かったと思ってるよ。お前みたいな強いヤツに出会えて、世界大会こうして戦えるなんて。それだけでも嬉しいもんだよ」
そう話すジェイソンの瞳は随分と澄み切っていた。
感謝されるのは嬉しいが、いつもの彼なら絶対に口にしなさそうな言葉を贈られて俺は若干戸惑っていた。
試合の真っ最中に柄でもないこと言って。これが普段ならブツブツと鳥肌が立つところだろう。
しかしどういうわけか、今日の彼はいかなる煩悩からも解放されたかのようにきらきらと輝いている。ただひたすらに楕円球を追うことが楽しいとでも言わんばかりに。
「俺、ラグビー選んで本当に良かったって今なら自信満々で言えるぜ。なんせ……」
その瞬間、彼の顔は俺のよく知るジェイソン・リーに戻った。
「なんせカナダにはお前ほどデブなラガーマンなんかいねえからな!」
なんという変化の落差。いつも通りにたにたと笑う彼からは、先ほどの清らかさはひとかけらに至るまで失われていた。
呆れて俺は「それ言っちゃあおしめぇよ」と、握っていたジェイソンの手を振りほどいた。




