第三十一章その5 初めてのフル代表戦
「思ったよりもお客さん少ないですね」
冬季にもかかわらず気温20度を超えるリオデジャネイロの空の下、ぐるりと周囲を見回した俺はつい呟いてしまった。
ここは2016年の五輪会場にも利用されたされたデオドロ競技場だ。1万5000人を収容できる観客席には空席が目立ち、多く見積もっても2000人くらいしか観戦に訪れていない。
「仕方ない、まだブラジルにはラグビー人気が定着していない。それも他所の国同士の試合なら尚更だ」
芝の上で屈伸運動をしていた進太郎さんがふんふんと息を荒げながら答える。しかし最後に立ち上がってうーんと背中を伸ばし終えたところで、進太郎さんは振り返るなり強く言い放ったのだった。
「だからと言って手は抜かねえぞ。俺らの試合を見ているちびっこが、いつかラグビー選手になりたいって思ってくれるかもしれねえんだからな」
進太郎さんの言葉を聞いた途端、俺はなんだか自分が恥ずかしく思えてきてしまった。
A代表とはいえ、俺たちは日本を背負って戦っている。このコートの上に立った瞬間から、恥ずかしいプレーは見せられない。どこで試合があろうと、相手が誰であろうと真剣なプレーで挑むべきなのだ。
さて、今日俺が戦う最初のフル代表はポルトガル代表だ。
国土も人口も小規模なポルトガルだがラグビーは思いの外盛んで、ジョージアやルーマニアとともに欧州第2グループを形成している。ワールドカップにはギリギリ出場できるかどうかといったレベルだが、ほんの20年前までは日本代表と力の差は無かった。
だがそれはフル代表の話。A代表である俺たちにとっては、気を引き締めねば痛い目を見る相手であるのは確実。
また相手チームにとって、この大会の試合は世界ランキングに影響を与えるテストマッチとして扱われる。そのため大会にかけるモチベーションは高く、この大会を躍進の契機にと全身全霊で挑む選手も多い。
テストマッチと言うと単なる練習試合のように聞こえるが、ラグビーにおけるテストマッチはそういった意味では使われない。フル代表同士、国と国との真剣勝負という意味であり、結果も国別の世界ランキングに反映される。つまりヨーロッパのシックスネイションズや、日本も出場している南半球6か国対抗戦、そしてワールドカップの試合も、すべてひっくるめて真剣勝負のテストマッチなのだ。
「ジュニアジャパン、2連覇目指して頑張るぞ!」
試合前、俺たちは円陣を組んで気合いを入れ直す。
たとえ格下であっても、本気でぶつかってくる相手に油断は一切できない。そのことはかつての日本代表が、その身をもってワールドカップの大舞台で証明してきたはずだ。
初めてのフル代表との試合は、ジュニアジャパンの快勝で幕を閉じた。
スタメン出場した俺はトライこそ決められなかったもののスクラムでは常に優位に立ち、またフォワード陣で形成したモールを押し込んで2本のトライを奪うこともできた。
最終的なスコアは56-6。相手に1本もトライを与えないままジュニアジャパンは7本のトライを決めるという大勝だ。
またキッカーである坂本パトリック翔平さんは、この試合だけでコンバージョンゴール6本とペナルティゴール3本を決め、合計21点を稼いでいた。この大量得点でパトリックさんは一躍大会の得点王候補に名乗り出て、チームをより一層勢いづけたのだった。
夕方、ホテルに戻った俺たちは勝利の余韻も冷め止まず、進太郎さんの部屋に集まってどんちゃん騒ぎを繰り広げていた。
どの遠征においても、なぜか進太郎さんの部屋はどこで調達してきたのか酒やお菓子といった飲食物、さらにはトランプやUNOなどに溢れている。ここにいるのはプロのラグビー選手が大半なのに、まるで修学旅行か大学のサークルの合宿のような雰囲気だ。
「パトリック、得点王期待してるぞ!」
この部屋の主である進太郎さんが、ビールのボトル片手にバシバシと我らがスタンドオフの背中を叩く。
「いよっ、日本の右足、世界の得点王!」
「お前のキックがあれば俺たちも安心してトライできる。ゴールライン越えた後、ポストの近くまで走らなくていいからな」
他のメンバーたちもそれぞれがビールを片手に持って、パトリックさんを称賛する。あ、未成年の俺はもちろんコーラだぞ。本当はビールをぐいっといきたいところだけれども。
パトリックさんは「そこはキッカーのことも考えてくれ」と照れくさそうに返した。
「そううまくいくかな?」
だが点けっぱなしのテレビをじっと見ていたキャプテン中尾さんの一言が、部屋の空気を一変させた。俺も含め部屋にいた全員が目を点にし、テレビ画面に釘付けにされる。
映っていたのはスポーツニュース。本日別会場で行われたカナダ対ルーマニアの古豪対決だ。
そして芝の上にキックティーを置く、赤一色のシャツを着たカナダ代表のキッカー。その姿を目にした瞬間、俺は反射的に声を漏らしてしまった。
「ジェイソン!」
「小森君、知り合い?」
すかさず中尾さんが訊いた。
「はい、ニュージーランドの学校の先輩です。その時からずっとフルバックでした」
そう、画面に映っていたのはオークランドゼネラルハイスクールでいっしょにラグビーをしていた、ひとつ年上のジェイソン・リーだった。ニュージーランドにおいても一流のキック技術の持ち主だった彼はメジャーリーグラグビーのクラブに所属し、母国カナダのフル代表に選ばれるまでの選手になっていた。
タッチライン近く、際どい角度からのキック。ゴールポストまでの距離は40メートルほどあり、これを決めるのは針の穴に糸を一発で通すようなものだ、
だがジェイソンは呼吸を整えながらじっと狙いを定めると、鋭くも正確無比なキックで楕円球をゴールポストのど真ん中へと蹴り込んでしまったのだった。まるでポストがボールを呼び込んでいるかのように、蹴り放った瞬間から誰もが「あ、入ったわ」と確信してしまうようなキックで。
「あの角度、決めてしまうのか?」
寒気にも似た驚嘆が走る。あんな超人じみたキック、スーパーラグビーでも滅多に見られないぞ。
コンバージョンキックもさることながら、ジェイソンはペナルティゴールを5本も決めていた。そんな彼の卓越したキック能力のおかげで、トライの数では及ばなくともカナダはルーマニアを36-28で退けたのだった。
この試合、ジェイソンがキックで稼いだのは21点。得点はパトリックさんと並んだものの、驚くべきは成功率100%という異様なまでの安定性だろう。
静まり返り、唖然とするジュニアジャパンの選手たち。
扱いの難しいラグビーボールを、ジェイソンは何の苦も無く身体の一部のように操る。その映像がハイライトでまとめられているからこそ、余計にそう思えてしまう。
彼のキック技術は、以前よりさらに向上していた。
ふと見ると、テレビに齧りついていたパトリックさんの手に持ったビール瓶がわなわなと震えていた。中の液体が今にもこぼれてしまいそうだが、そんなこと意にも介していないようだった。
「おい、パトリック……」
進太郎さんが声をかけた直後だった。パトリックさんは残ったビールをグッと一気に傾けて喉に流し込むと、ぷはあとアルコールの混じった息を吐き出す。
「負けてらんねえ。ちょっくら練習してくる」
そう言ってパトリックさんは空になった瓶をゴミ箱に放り込むと、ずかずかと部屋を去ってしまったのだった。
「おい、飲酒後の運動は体に良くないぞ!」
中尾さんが慌てて追いかける。他の選手たちもそれに続き、気が付くと全員が進太郎さんの部屋から飛び出していた。




