第三十章その3 なぜラグビーだったのか?
南半球のラグビーシーズンも終了した12月上旬、俺は日本に一時帰国していた。
「どっちでもかまわない。お母さんはね、あんたの幸せを願ってるわ」
久しぶりの実家での夕食。向かい合った母さんはにこやかに話しつつも、「とは言ってもみんな応援してくれるし、できるなら日本代表になってほしいなー」と付け加える。
一方、その隣に座った父さんはうーんと考え込んでいた。
「もしオールブラックスに選ばれたとしたら、お前の名前はラグビーがある限りずっと残り続ける。キャリアやサラリー、選手個人として誰も成し得ないことをしたいならニュージーランドを選ぶ方が理にかなっている。男として人生を賭けて勝負したいと思うなら、オールブラックス入りも良いだろう」
生まれたコミュニティを大切にするか、ひとりの選手としての成功を重視するか。両親の意見は夫婦で割れていた。
俺は無言で頷き、食卓の上に盛られた10人前くらいのマグロの刺身に箸を伸ばす。日本に帰ったこの時になっても、俺は未だに結論を出せずにいた。
幸いにもこの件に関してはまだマスコミにも漏れておらず、知っているのは親しい人間しかいない。だが熱心なラグビーファンの中には俺がニュージーランドの代表資格を満たしていることに気付いた者もいるようで、ネット上の質問投稿サイトには「小森選手は日本とニュージーランドどちらを選びますか?」といったトピックが立てられていた。
まだ時間はあると言っても常に焦燥感とジレンマに駆られているのは事実。この1月間、俺の心中は平穏ではなかった。むしろ考えれば考えるほど、よくわからなくなってくる気さえする。
翌日の昼過ぎ、俺はランチタイムが終了して客も少なくなったハルキの中華料理店にいた。
「そりゃお前、日本人のひとりとして小森には日本代表に入ってもらいたいと思うよ」
そう話すのは金沢スクール時代のひとつ年上の先輩、鬼頭さんだ。大学1年生になった彼は、今も現役フォワードらしくがっしりとした体格を誇っている。
中学まで金沢スクールのフッカーとして活躍していた彼は高校でもラグビーの強豪校に進学し、全国大会には出場できなかったものの東京都内の私大に入学した。今もラグビー部に所属しながら小学校の教員免許を取得できるよう、勉強にラグビーにと忙しく過ごしている。
「でもお前がオールブラックスに入ると言うなら、それでも俺は嬉しい。俺も将来オールブラックスに入るやつといっしょにスクラム組んでたって自慢できるからな。ところでお前、そのことは西川には話したのか?」
「いえ、今はちょっと無理そうなので」
俺は手を横に振った。
西川君は現在、高校最後の全国大会直前とあって練習を離れられないでいる。昨年に続き連覇を目指しているそうだ。
また浜崎をはじめ同い年の友人もほとんどが大学受験を控えている。とても秘密の相談などできる状況にない。
「そうか、あいつならきっとお前がどこを選んでも応援してくれるはずだ。だからお前、他人のことは考えるな、自分自身が一番満足できるルートを選べ」
その後、いくらかの世間話も済ませると、鬼頭さんはバイトがあるからと店を出て行ったのだった。
俺だけが残される静かな店内。そこに厨房から歩いてきたハルキが、俺の前にそっと白いポットを置いた。
「太一、これサービスだ」
温かいジャスミン茶だった。最近本格的な淹れ方を覚えたらしく、俺は「ありがとな、ハルキ」と礼を伝えた。
ハルキは高校卒業後、父の店を継ぐべく横浜中華街の料理店で修業することが既に決まっているらしい。親父さんも若い頃修業したという老舗の名店で、今もその店とは懇ろな付き合いがあるそうだ。
「太一」
横に立ったハルキが、改まったように声をかける。見ると、彼は10数年間一度も見せたことのないほど真剣な面持ちを、こちらにじっと向けていた。
「俺はお前みたいにスポーツもできねえし、オールブラックスに入れたらなんて真面目に考えたこともねえ。だからお前がどれだけしんどい思いしてるかなんて実際のところわからん。けどな、どこのチームに入っても、例えお前が地球の裏側にいても応援に駆けつけてやる」
そして一拍呼吸を整えると、ハルキは「だからよ……安心しとけ!」と告げた。
お茶をご馳走になった俺は店を出て、金沢八景駅前の広場まで歩く。
そして駅前の広場でぼうっと立ってしばらく待っていると、紺のダッフルコートを着た南さんが「お待たせ」と手を振って現れたのだった。
「南さん久しぶり。忙しいのにありがとう」
「ううん、もう暇になったから」
「そうか、合格おめでとう!」
南さんがVサインを作る。高校3年生の彼女は、地元公立大学の国際商学部に指定校推薦で合格していた。
「ねえ、少し歩かない?」
人の目が多いこの場所では落ち着かず、俺と南さんは駅前を離れて20分ほど歩く。
海岸沿いに整備された道路を進んだ先に現れたのは、樹木に覆われた小高い山だった。
ここは野島と呼ばれている地区で、湾内のあちこちに干潟が広がっている。今は多くが埋め立てられているものの、かつて平坦な干潟の中にぽつんと聳えていたのがこの標高57メートルの小山であり、ここだけは現在も自然公園として残されている。
俺たちはきれいに整備された遊歩道を歩き、山頂へと向かった。ここには無料で登れる展望台もある。
12月の公園は人通りも少なく、公園の木々も枯れ葉が目立ち人もほとんどいない。しかし展望台に立つと、360度広がる海と街、そして行き交う漁船の混じり合った絶景を見ることができる。
「わ、さぶ!」
強く冷たい風が吹きつける。南さんはぶるると身体を震わせると同時に、そっと俺に身を寄せた。
「ここ来るの小学校の遠足以来だよ。たしか下のキャンプ場でカレー作ったよね」
南さんが眼下の公園を眺めながら言った。
「あったなあ、西川君が超甘口カレー作ってみんなから顰蹙買ってたっけ。俺は中学の時もボール使って練習する時に、よくここまで自転車で来てたよ。家の近くの公園だと狭くて、危なかったから」
「へえ、太一の思い出はどこ行ってもラグビーといっしょなんだね」
そして彼女はふふっと笑う。寒くとも和やかな雰囲気が周囲を包んでいた。
よし、今ならいいだろう。遠くでブオーっと汽笛が鳴ったのを合図に、俺は切り出した。
「ねえ南さん、どうしたらいいだろう? 日本かニュージーランド、どっちがいいと思う?」
「私がここで日本て言ったら日本を選んで、ニュージーランドて言ったらニュージーランドを選ぶの?」
遠くを見つめたまま間髪入れず返す南さんに、「それは……」と俺は何も答えられなかった。
卑怯なことだとはわかっていた。まるで責任を逃れ、自分の決断を他人に委ねたようで。
「迷うよね、日本もニュージーランドも、太一にとっては思い入れ強いんだもん」
南さんがすっと顔をこちらに向ける。まっすぐで真剣な光が、瞳に宿っていた。
「でもどっちを選んだとしても私は太一の味方だよ。日本代表だろうがニュージーランド代表だろうが私にとっての太一はどこまでも昔のまま、悪い奴から守ってくれた強くてカッコイイ太一だから」
一切のよどみのない綺麗な眼。嘘偽りの無い想いを間近で感じ、俺はなんだか心強く思えて「ありがとう」と答えた。
「ところでさ、太一はどうしてラグビー始めたんだっけ?」
「どうしてって、デブでもできるスポーツだから?」
きっかけは5歳に戻った時、一生付き合うことになる肥満体型をどうにかしなくちゃと思い立ったからだ。
だが南さんは首を横に振る。
「ううん、そういうのじゃなくて。たくさんある選択肢の中から、何に惹かれてラグビーを選んだの?」
「なぜラグビーだったのか……」
野球でもサッカーでも相撲でもなく、何故ラグビーを選択したのか?
改めて考えてみると妙なものだ。この肥満体型をどうにかするため、本当にそれだけか?
ちょうどテレビに映ったのがラグビーのニュースだったから?
いや、違う。もっともっと根本的な理由がある。それも思い返してみれば……なんとも短絡的な話だ。
単純に、かっこいいと憧れたからだ。
2015年の9月、圧倒的不利と目されたブレイブブロッサムズが、はるか格上の南アフリカ代表スプリングボクスを打ち倒した戦いぶりに。15人の男たちが一丸となって、敵うはずないと言われた相手にも臆さず楕円球をひたすら前へとつなぐその雄姿に。
その時、俺ははっと息をのんだ。
そうだ、なぜラグビーを選んだのか、元を辿ればすべてあの試合に行き着く。
「南さん、ありがとう。俺、思い出したよ」
腹は決まった。彼女の背に手をそえて言うと、南さんはふふっと微笑んで返した。
楕円球を手にして早13年。俺は今になってようやく、自分がずっと抱き続けていた本当の憧れに気付かされたのだった。
小森太一として世界の頂点に立ちたいのではなく、桜のジャージを着て仲間といっしょに世界と戦いたいということに。




