第三十章その2 人生の選択
「ジュニア・オールブラックスって、俺にですか!?」
なんでニュージーランドのナショナルチームが!?
取り乱しながら尋ねる俺に、監督は深く頷き返す。
「そうだ。君、来年の1月でニュージーランドに住んでちょうど5年になるだろ? それで居住要件を満たすからと、少し早めに通知が届いたんだ」
ラグビーにおける各国代表チームの参加資格は、他のスポーツと比べてかなり特殊だ。例えば五輪代表など多くのスポーツでは、日本代表となるためには日本の国籍が必要となる。重国籍者でもない限り、他国の代表として出場するには帰化するしかない。
しかし協会主義を貫くラグビーの場合は、そこの縛りが緩い。本人は日本で生まれておらずとも両親または祖父母に日本で生まれた者がいる場合、日本代表資格を持っているとみなされるのだ。また、親族に日本で生まれた者がいない場合でも、本人が日本に60か月以上継続して居住し続けているなら、代表として選出され得る。
日本で生まれた時点で俺が日本代表資格を有しているのは当然。加えて来年1月でニュージーランドに60か月居住したという要件を満たすため、ニュージーランド代表資格も発生する。留学でこっちに来たのが中学1年の冬休みだったので、そこからちょうどまる5年経過するタイミングなのだ。
「しかし驚いたなぁ、日本代表と同時に届くなんて」
ようやく落ち着きを取り戻し、俺は桜とシルバーファーンの2通の封筒をじっと見比べる。
「日本は君を手放したくなかったんだろう。他所に取られる前にA代表に呼んで代表候補として確保するつもりだったが、ニュージーランドも同じことを考えていたようだな」
日本代表にもニュージーランドやトンガなど様々な国籍の選手がいるように、ナショナルチームに海外出身選手が加わるのは何も珍しいことではない。ラグビーの世界においては至極当たり前のことだ。
しかし大前提として、ひとつの国のシニア世代の代表に選ばれたことのある者は、他国のシニア世代の代表として出場することはできない。
U20のような年齢制限のあるナショナルチームは該当しないものの、A代表はシニア世代として扱われる。もし俺がジュニア・ジャパンの一員となった場合、今後ジュニア・オールブラックスに選ばれる機会は二度とやってこないのだ。当然、フル代表のオールブラックスに呼ばれることも無い。
これはつまり日本代表を選ぶかニュージーランド代表を選ぶか、どちらか一方だけの究極の二者択一なのだ。
「ど、どうしましょう?」
本来なら泣き叫びながら喜ぶほど嬉しいことのはずなのに、頭がこんがらがってパニックに陥りそうだ。何の心構えもしていなかったところでいきなり決断を迫られ、俺は弱気にも監督に訊き返してしまった。
「小森、分かっているとは思うが、これは君の人生を左右するものすごく重大な選択だ。君自身が決めなくてはならない問題であり、私の口からこっちを選びなさいと言うことはできない」
監督は首を横に振り、強く念押しする。
「例年通りの日程なら、最初の試合は来年の5月くらいだろう。返事は来年の2月までだ、焦らずゆっくり考えたらいい」
部屋を出た俺はトレーニングルームに向かうものの、頭も胸もいっぱいいっぱいでまっすぐ歩くことさえままならなかった。
A代表といえどジュニア・オールブラックスは次元が違う。日本のフル代表にも勝ち越しており、世界ランキング1桁台の実力はあるだろう。将来のオールブラックスを見越して、強いメンバーが集ってハイレベルの相手と戦いながら高め合うことができる。
それだけではない、うまくいけばオールブラックス入りという夢のような話さえも叶うかもしれないのだ。実現した場合、おそらくは日本人初のオールブラックメンバーとして永遠に小森太一の名前が語り継がれるだろう。
そして何よりオールブラックスはご存知世界最強のナショナルチーム、ワールドカップを制覇できる可能性も日本代表と比べて桁違いだ。もしかしたら日本人として初めて、ウェブ・エリス杯を手にすることができるかもしれない。
だがそうなると、桜のジャージを着てコートに立つことは2度とできない。
今の今までずっと、俺は日本代表に選ばれることを目標にしてラグビーに打ち込んできた。今は日本の高校に通う西川君とも金沢スクールの頃、いつかいっしょに世界の頂点に立とうと約束したこともある。
日本代表になるぞと邁進していたところに、突如舞い込んだ最高の誘い。オールブラックスに選ばれる保証は無いが、無碍に断ることはできない魅力があった。
だからこそ考えがまとまらず、ただふらふらと廊下を歩く。今の俺には理性的な判断ができるだけの理性が残されていなかった。
「小森、オファーどこからだった?」
ちょうどエアロバイクのトレーニングを終えて、汗を拭きながらドリンクを飲んでいたローレンス・リドリーが期待の眼差しを向ける。だが様子がおかしいことに気付いてか、すぐに「どうした、顔色悪いぞ?」と心配してくれたのだった。
「実は……」
俺はぼそぼそと、蚊の羽音のような声で説明する。
「マジかよ」
背中を曲げてそれを聞いていたローレンスの顔も、たちまち青白く一変した。
やがて周囲に居合わせたチームメンバーも「どうした?」と集まり、俺の代わりに長身のロックが事情を説明する。気が付けばトレーニングルームは、ちょっとした会議室に様変わりしていた。
「なんとも羨ましい贅沢な悩みだな。けれどもお前が悩むのもよくわかる」
フィジー出身のフランカーが口を開く。彼もまた生まれた国を離れ、このニュージーランドでラグビーを生業としている選手だ。
「愛する母国かそれとも最強のチームか、正直どっちを選んでも絶対に後悔する。俺ももしフィジーとニュージーランド両方から誘いが来たら思い詰めてしまうだろう。そもそも選べない」
チームメイトが頷いて賛同する。ニュージーランドのラグビー界には、留学や移民といった理由でニュージーランド以外にも代表資格を持つ者が少なくない。
「どっちにもメリットはあるしデメリットもある。でもそういう割り切って済ませられる問題じゃないんだよな」
俺と同い年のウイング、エリオット・パルマーも加わった。
「最終的に決めるのは小森自身だ。けど突き放してるわけじゃねえぞ、お前が満足できる決断を下せるように、いくらでも手伝ってやるからな」
そう言って彼は握り拳を作ると、俺の突き出た腹をコンコンと小突いた。他のメンバーも「そうだ、いつでも相談に乗るぞ」とあちこちで声をあげた。
「ああ、時間はまだあるんだろ。そもそもこんなの、一日二日で決められるものじゃねえ。これからシーズンオフなんだから、俺たちだけじゃなくて家族や世話になった人と相談してみたらどうだ?」
ローレンスが人差し指を立てて提案する。たしかに彼の言う通り、今すぐに決断を出さねばならない問題ではない。
「みんな、ありがとう」
チームメイトの話を聞いていると不意に目の奥が熱くなってきたのを感じ、俺は慌てて太い指で両目を隠して誤魔化した。
俺は頭の中でごちゃごちゃになっていた理性と感情の絡み合いも、ようやくほどけてきたような気がする。
決して問題を先送りしているわけではない。今後どんな選手を目指すのか、ラグビーを通してどんな人間になりたいのか、そこらへんをじっくり考えながら今一度自分と向き合ってみよう。




