第二十八章その5 執念のドローへ
「リカルドのキックは今大会でも群を抜いています。プール戦の得点王はもちろん、3本は確実にいけるでしょう」
「いやいや、いくら彼でも日本の守備の堅さはイタリア戦で実証済み。せいぜい1本、多くて2本ではないでしょうか?」
テレビのスポーツ番組ではその道の専門家なのかコメディアンなのかよくわからない人たちが、毎日のように激論を交わしていた。
アルゼンチンU20代表リカルド・カルバハルの「日本戦でドロップゴール3本」発言は、世のラグビー好きから関心を集めていた。大会最年少フルバックにしてフル代表級のキック技術、そして留まるところを知らないビッグマウスぶりは即座にマスコミに注目され、今や大会を代表する人物としてみなされていた。
「リカルドが何本ドロップゴールを決めるかって、SNSでも話題になってるよ。賭けの対象にもなってるっぽい」
練習後、グラウンド近くのバーガーショップで和久田君がスマホの画面を見せつけた。
「みんな好きだなぁ」
俺は氷が大量に入ったコーラをストローでずぞぞと吸い込んだ。負ける前提で話されているようで、気持ちの良いものではない。
リカルドについては日本でも大きく報道されているようで、俺のスマホにも多くの応援のメッセージがすでに届いている。西川君に至っては「あの天狗野郎の鼻をへし折ってやれ!」とそのまま感情が伝わってくるような文面で送ってきたほどだ。
「リカルドがこんなにムキになるのって、やっぱり僕たちのこと根に持ってるんだろうね……」
そう和久田君は苦笑しながら、でっかいチーズバーガーにかぶりつく。練習後の疲れた体に、うま味の強いハンバーガーは最高の組み合わせだろう。
しかしよりにもよってあのリカルドと、またこのニュージーランドで戦うことになろうとは。
そして数日後、プール最終戦アルゼンチンとの試合の日が訪れる。開催場所は聖地イーデン・パークだ。
入場前、リカルドはこれまで見たことも無いほど復讐心を露わにしながら、一列に並んだ日本代表の面々をぎらぎら睨みつけていた。
ただしこっちに視線を飛ばしているだけにもかかわらず、物凄い念を感じる。
「なんか……申し訳ないです」
緊張感で静まり返る日本代表のメンバーたちに、俺はぼそっと謝る。
「小森君、気にすることはない」
その時、後ろから掛けられた声に俺はつい振り返った。
ウイングの馬原さんだ。相も変わらず仏頂面な彼は、この状況でも眉ひとつ動かさずにじっと前を見据えていた。
「彼がここまで俺たちを意識しているのは対抗心があるからだ。裏を返せば負けるかもしれないという不安があるからこそ、彼はあんなことをしている」
俺ははっと息をのんだ。直後、滅多に表情を崩さない馬原さんの頬がふふっと緩む。
「怖気づかず普段通りのプレーをすればいい。君の底力は、間近で見てきた俺たちがよく知っている」
馬原さんの言葉を聞くと、なんだか緊張も解けてしまった。俺が「はい!」と力強く答えると、ちょうど入場の時間だとスタッフに案内される。
「さあ行くぞ!」
キャプテンの声とともに、日本代表は歩き出した。5万人の観衆、そしてテレビ中継のつながった日本の何千万という人々が注目するスタジアムへ。
アルゼンチンとの試合は思っていた以上に大変なものだった。
体格でも技術でも、選手の質はイタリアより高い。隙あらばすぐに守備の綻びを突いてアタックしてくるので、俺たちはダブルタックルで確実に相手を止めるしかなかった。
最も怖いのは自陣22メートルライン近くまで攻め込まれた時だ。相手チームがボールを持って攻め込んでくると、時折リカルドが相手ゴール前から離れてこちら側の陣地まで上がってくるのだ。
明らかにドロップゴールを狙っている。ラインを形成する日本代表は相手がトライ狙いで身体をぶつけてくるのか、リカルドに回して3点を奪ってくるのか、常にプレッシャーに晒されていた。
大柄な相手フォワードが身を低く屈め、転がる鉄球のごとく俺に向かって突進する。
これは真っ向勝負を仕掛けてくるな!
そう読んだ俺はぐっと足腰に力を入れ、相手の巨体を迎え撃つ心身の準備を整えた。
だが身体と身体がぶつかり合うその直前、相手選手はくるりと身をよじると、驚くほど速いパスでボールを斜め後ろに飛ばしたのだった。
「まずい!」
意表を突かれて思わず口に出る、が、すでに遅かった。楕円球はちょうど22メートルラインの上に立つリカルドの胸に、すっぽりと収まっていた。
日本代表の選手たちが飛び出した。しかしリカルドは一瞬の迷いさえも感じさせない流れるような手つきでボールを足元に落とすと、大きく足を振り抜いた。
ロケットのごとく打ち上がる楕円球。強く蹴り放たれたボールは空を切り裂き、まっすぐにH字型のゴールポストをくぐり抜けてしまったのだった。
「ドロップゴール!」
レフェリーの判定とともに、大歓声が会場を包む。
「くそ、またか!」
観客に手を振るリカルドの傍らで、俺たちは悔しさに顔を歪めた。
このドロップゴールは今日初めての失点ではない。後半30分、日本代表は5-12で劣勢に立たされていた。
相手の得点はペナルティゴール2本とドロップゴール2本、つまりすべてリカルドのキックで与えられたものばかりだった。フォワードで攻め込み、リカルドにボールを回して安全な位置から点を稼ぐのがアルゼンチンの戦い方だ。
リカルドを早く止めねばと焦るあまり、冷静さを欠いた日本代表はついラフなプレーに走ってしまう。そこで反則のペナルティキックを取られ、点差をさらに広げられてしまうというのが先ほどから続いていた。
しかもリカルドのキックは威力、正確さ、隙の無さ、すべてが以前よりもグレードアップしている。前に戦った彼とは別選手と言ってよいほど、この1年足らずで洗練されている。
だが地団駄を踏んでいる場合ではない。1秒でも残り時間を有効に使うべく、日本代表は急いで試合を再開させる。
日本のスタンドオフが蹴り出したボールを、アルゼンチンの選手は確実にキャッチする。そして再び強靱なフォワード選手を中心としたオーソドックスなアタックを展開し、日本代表に守備ラインを作らせざるを得ない状況に追い込むのだった。
気が付けばあっという間に、先ほどの失点直前と同じような光景がコートの上で再現されていた。
猛然と突っ込むアルゼンチン選手。その後ろからリカルドが上がってきているのも見える。もうそろそろ、彼に向かってパスが回されるはずだ。
その時、相手フォワードが守備ラインを形成する俺の隣の選手に向かって突っ込んだ。だがその時、一瞬ちらりとリカルドの方に視線を移したのを俺は見逃さなかった!
ここだ! 俺は地面を蹴って飛び出した。
直後、突っ込んできたフォワードが斜め後ろのリカルドにパスを回すべく身体を捻る。予感は的中、タイミングもばっちりだ!
俺は相手がボールから手を離したところでボールをかっさらった!
どよめき、驚き、そして喝采が沸き起こる。そりゃそうだろう、鈍足のプロップが横からボールを奪ってしまうなんて、普通では考えられないプレーだ。
それはアルゼンチンチームにとっても同じだった。通るはずのパスが途切れ、振り返って大きく目を開く選手たち。俺が飛び出すのを見ていたリカルドだけが急いで走り出すが、加速する前に俺は彼を抜き去っていた。
割れんばかりの大歓声を好みに受けながら、俺は前へ前へとひた走る。リカルドが攻撃のために前まで出てきてくれていたおかげで、ゴールまでは無人となっていた。
だがゴールラインまでの距離はおよそ80メートル。とてもではないが走り切る前に、俺の足では追いつかれてしまう。
ならばせめて一歩でも陣地を回復しないと。俺は心臓が破れそうになるくらいに足を回転させるも、この距離を逃げ切れる自信は無かった。
「こっちだ!」
その時、すぐ隣からすっと手が伸びた。なんと、ウイングの馬原さんがその快足ぶり俺に追いつき、並走してくれていたのだ!
渡りに船とはまさにこのことか。俺はまるで手渡しするかのように、馬原さんに丁寧にボールを回した。
馬原さんは楕円球を受け取るや否や、まるでアクセルを全力で踏み込んだかのようにギュンと速度を上げた。そのブースターロケットでも搭載しているかのような加速に、追いつきかけていたアルゼンチン選手たちも茫然と口を開く。
ボールは俺が持っていた時とは次元の違う速さで敵陣まで運ばれる。最終的に馬原さんは60メートルほどを独走すると、ゴールラインを越えたところで地面にボールを置いてトライを決めたのだった。
「よくやったぞ馬原!」
一緒に追いかけていた選手たちがわっと群がり、馬原さんに次々と抱きつく。満員電車以上のすし詰め状態に馬原さんが「ぐえっ」と苦しそうな声をあげるも、その顔は笑っているように見えた。
「小森君、ナイス飛び出し!」
スクラムハーフ和久田君が両手を上げて駆け寄ってくるので、俺はハイタッチで応えた。
その時、和久田君の後方で失意に暮れるアルゼンチン代表選手たちの姿が目に入る。
他の選手がまさかといった顔で立ち尽くす中、フルバックのリカルド・カルバハルだけはまるで全身の血が逆流したかのように額に血管を浮き上がらせ、大きく瞳をこちらに向けて呼気を荒げていたのだった。




