第二十七章その3 ふたりきりの洋館で
U-20日本代表の合宿を終えた俺は、横浜の実家に滞在していた。
2週間後にはまた同じメンバーでの練習合宿が待っている。ニュージーランドに戻るのもしんどいので、しばらくは両親に世話してもらっていたのだった。
「いってきまーす」
3月を目前に控えた週末の朝、俺は玄関先で新品のブーツをとんとんと踏み、ドアを開ける。今日は使い慣れたショルダーバッグは休ませて、ちょっと奮発したデニム地のトートバッグを肩にかけている。
「夕飯までには帰ってくるのよー」
閉まるドアの隙間から、母さんの声が聞こえる。うーん、一応はプロのスポーツ選手なんだけどなぁ。
家を出た俺は最寄りの金沢八景駅へと向かう。そして数分間待ったところで、道の向こうから歩いてきた人影を目にしてしゃんと背筋を伸ばしたのだった。
「お待たせ!」
そう言って手をひらひらとなびかせるのは、高校2年生の南さんだった。こっちに帰って来てから忙しくて会えていなかったので、実際に顔を合わせるのは1年以上ぶりだ。
元々背が高めだった彼女は、しばらく見ない間にさらに身長を伸ばしていた。すらりとしたプロポーションはまるでモデルのようで、特にぴっちりと密着したジーンズは2本の細長い美脚をこれでもかと周囲にアピールしている。俺と並んだら美女と野獣……いや、美女と野牛だな。
俺たちは駅から電車、ではなくバスに乗り込む。目指すは古都鎌倉、関東の誇る観光都市だ。
ここから鎌倉までは電車で行くことも可能だが、その場合線路が大きく迂回しているので途中で乗り換えなければならない。
しかしバスなら山ひとつ越えるだけで到着する。しかも一番混み合う鶴岡八幡宮付近に差し掛かる前にバスを降りることもできるので、利便性で言えば電車より上だ。
「うちのラグビー部、もう大会終わっちゃったから。来月の練習試合までは暇なんだ」
俺と南さんは2人掛けの座席に並んで座る。周りの人々も俺たちと同じように鎌倉観光が目的だろう、歩きやすくも洒落た服装の家族や夫婦連れがほとんどだった。
「へえ、来年の大会も大学受験ギリギリまであって大変じゃないの?」
「うん、だから最後までやる部員は早くから推薦入試決めてる人ばっかりだよ。一般入試受ける人は大会前に退部したり、浪人覚悟で大会出てる」
年が明けてからが本番の受験業界、ラグビーやサッカーといった冬がシーズンの高3選手は辛いなぁ。
「南さんは?」
「そこは大丈夫、なんとかできそうだから」
にししと笑う南さん。たしかに彼女の学力なら大崩れしない限り志望校は確実だろう。前の人生でも横浜市内の公立大学にストレートで合格したと聞いた覚えがあるし。
そしてバスに乗り始めてから30分ほど、車窓に鎌倉のシンボルともいえる大きな鳥居が映り、俺たちは思わず身を乗り出した。何度来ても、この立派な境内を前にすると凛とした気持ちになってしまう。
「やっぱいつ来てもすっごい人だね」
人、人、人。バスを降りた俺たちは、表参道を行き交う観光客の数に圧倒されていた。
さすがは鎌倉、客が多すぎて江ノ電が乗車制限とかよくあることだよ。しかもこれでも夏の海水浴シーズンに比べればはるかにマシなんだから恐ろしい。
さてこの街に来たからには、まずは八幡様にお参りするのが鉄則。
長い長い階段を上りきった先に待っているのは、海まで一直線に伸びる大通りを一望できる社殿。いつここに来ても、スマホのカメラを水平線の彼方へと向けてしまうのは仕方のないことだ。
その後本殿を参詣した俺たちは駅まで歩き、そこから江ノ島電鉄に揺らされて移動した。
着いたのは鎌倉文学館だ。ここは木々に囲まれた静かな山手に位置する古い洋館で、今は鎌倉市の所有する博物館として公開されている。かつては明治時代以降侯爵となった前田家の別邸だったらしく、建築から100年近く経った今もなお当時の面影を残している。
「わあ、素敵なお屋敷!」
駅から少し歩くものの、ブルーの三角屋根の可愛らしい造りは南さんも気に入ってくれたようだ。
鎌倉周辺と言えば大仏や江ノ島など見所だらけだが、そう言った場所は多くが校外学習や家族旅行で訪れているのが横浜の人間というもの。それならばと今まで行ったことのない場所をチョイスしてみたのだが、好評のようでほっとした。
古い書物の飾られたケージに、壁に穿たれた暖炉。そんな異国情緒あふれる室内から庭を見下ろすと、まるで昔の有閑階級にでもなった気分に浸れる。
「こういうお洒落なとこ、いつか住んでみたいな」
「広すぎるのも疲れるよ、掃除に庭の手入れに日曜日が潰れちゃう」
広い芝生と整えられた植え込みを窓から眺めていた南さんがうっとりと呟くので、俺はすかさず横から割り込んだ。
ホームステイ期間中、練習の無い休日にはよくウィリアムズ家の芝刈りを手伝っていたものだ。カート型の刈払機を運転するのはけっこう楽しかったぞ。
「そこはもっと夢おっきくさぁ、お手伝いさん雇うとか庭師に任せるとか」
南さんが頬を膨らませるので、俺は「悪い悪い」と軽く謝る。こういう場面では野暮ったい現実的なツッコミは避けるべきだよな。
そんな静かな展示室に俺たちしかいない、そんな時のことだった。
「ねえ太一」
前触れもなく、南さんは穏やかに、しかし強く尋ねてきたのだ。物音ひとつ立たないこの空間で、彼女の声はまっすぐに聞こえた。
「世界と戦うって、どんな感じ?」
彼女はこちらにじっと眼を向ける。その瞳は海のような思慮深さと聡明さに照らされているが、しかし同時に遠く離れてしまったような寂しさをも感じさせた。
「正直私にはスケール大きすぎてよくわからないよ。いっしょに同じ背丈でものを見ていたクラスメイトの太一がいつの間にか日本代表なんだもん。6月から世界大会だなんて、立ってる場所が違い過ぎるよ」
尋ねる声にも力がこもる。俺のことを案じているだけでなく、不安、焦燥感、その他様々な想いが伝わってくるのを感じた。
「太一はそんなことないと思うけど、もし私が同じ立場だったら……プレッシャーでとても平気じゃいられないよ」
そして南さんは静かに視線を床に落とした。彼女のこんな顔を見るの、留学をすると初めて伝えた時以来かもしれない。
「南さん、そういうのじゃないよ」
だが俺は強く否定した。直後、彼女は瞳をふっとこちらに向ける。
「ニュージーランドに行ってつくづく思い知らされたんだ、誰もはじめから強かったわけじゃないって。どんなにすごい選手でも、最初は目の前の相手よりも強く、次に戦う敵に勝つんだって思いながら練習を繰り返してるんだ。それを続けていく内に一段ずつ一段ずつ階段を昇るように腕を上げていって、気が付いたら誰よりも強くなっていたってのばっかりだよ」
そう、あのオールブラックスのスーパースター、ハミッシュ・マクラーセンですら例外ではなかった。彼も身体の小ささと言うハンデを乗り越えるため、早朝から単独で特訓を繰り返していたのだ。そういった地道な努力の積み重ねの末に、ニュージーランドの黒一色のジャージを着れるまでに強くなったのだ。
「俺も日本で優勝して天狗になってたけど、外国に行けば自分よりずっと重くて強いプロップなんてごろごろいる。そういう相手に負けないぞって思っていっぱい練習していっぱい食べて、今の俺がいるんだ。小学校の頃からそういう経験を通してでかくなっただけで、中身は何も変わっていないただの小森太一だよ」
「そう……なの?」
「そうだよ。最初から世界と戦える選手なんてどこにもいないよ。結局はみんなどこかの国のどこかの町の、どこかの家で生まれたんだ。そこで友達と遊んだり周りの大人に支えられてきたから、今のその人がいる。どんなスーパースターだって同じだよ。いっしょに地元の友達とラグビーをして、そういう経験から始まった延長線上にみんないるんだ」
「太一」
名を呼ばれ、俺は思わず話過ぎたと声を途切れさせる。しかしその時目に映った南さんの顔からは、さっきの不安はすっかり消え去っていた。
「おっきくなったね」
そしてくすっと笑いかける南さん。
「そりゃもちろん、このでかっ腹ですから」
つい俺は自慢のどてっ腹をぼんと突き出す。だが南さんは「ううん」と首を横に振り、そして微笑みを見せたのだった。
「見た目だけじゃないよ。中身も視野も、ずっと」




