第二十四章その2 日本で迎えるお正月
「うっひゃあ、すっげえ人の数」
「オールブラックスの試合より多い!」
人、人、人。凍てつくような朝の空気に包まれて、俺とアイリーンは目の前一面どこまでも広がる人の海に唖然とし、絶望感さえ感じていた。
「一度離れたらもう会えないから、ちゃんとついてきてね」
俺の一歩前を歩く南さんがくるりと振り返る。俺とアイリーンはうんうんと頷きながら、すっと身を寄せ合った。
しかし南さんのあでやかな振袖姿はなんとも様になることか。頭に挿した梅の花のかんざしも、大人っぽさの中に隠れた彼女のあどけなさを演出している。
年明け早々、大勢の人が押し寄せるここは平間寺、またの名を川崎大師と呼ばれる県内でも有名なお寺だ。元々多くの参拝客が訪れる寺院ではあるが、年始の初詣にもなると客足はさらに膨れ上がり、その数は神奈川県内で1位、関東全体で見ても3位と言われている。
今日ここを訪れているのは俺、南さん、アイリーンの3人だ。もう中学生なので子どもだけでも大丈夫だろうと、外出を許された形だ。ちなみに母さんは横浜市内の戦場(デパートの初売り)に赴いており、父さんは衛生兵(荷物持ち)として動員されている。
参道に延々と続く長い長い行列。何十分もかけて並んで待った末に、本堂の賽銭箱に5円玉を投げ入れて合掌して拝めるのはほんの数秒のみ。この貴重な時間を無駄にしまいと、俺は頭をフルに回転させて心の中で唱えた。
プロのラグビー選手になれますように、怪我しませんように、チームが勝ち続けますように……しかし本当にまぁラグビーのことばっかりだな。
そしてタイムアップ。顔を上げた俺は後ろの人とすぐに交代するため、そっと行列から離れる。
「太一は何をお願いしたの?」
ほぼ同じタイミングで行列を抜けた南さんが尋ねる。
「そりゃもうラグビーうまくなりますようにって。南さんは?」
「うちのラグビー部がもっと強くなりますようにって」
彼女は今も中学でラグビー部のマネージャーを続けている。今は正月で休みになっているものの、11月から12月にかけては大会で忙しかったようだ。
ちなみに南さんの学校は地方大会で敗れてしまったものの、西川君の学校は12月末に東京都内で開かれた全国大会にも出場し、なんと石井君擁する大阪府代表を破って全国優勝まで成し遂げたそうだ。クリスマスイブに彼は俺に会いに来てくれたが、あれも相当スケジュールを無理してくれたのだろう、本当にありがたいことだ。
「アイリーンは?」
少し後ろを歩くアイリーンに南さんが尋ねる。だがアイリーンは何か珍しい物を見つけたのか、南さんの声などまるで聞こえていないようで別の方向に顔を向けたまま目を輝かせていた。
「何かしらあれ、ちょっと見てくるわ!」
興味あるものを見つけた子供のように、だっと走り出すアイリーン。元気だなぁ。
南さんが「遠くまで行かないでよー」と保護者のように言う。まあスマホがあるから大丈夫だろう。
それにしても人にもまれすぎて疲れた。これ、スクラム組むよりもずっと体力気力ともに持っていかれた気がするな。
「疲れたでしょ、ちょっと座って休もっか」
ちょうど運良くベンチが空いていたので、俺と南さんは並んで腰を下ろす。目の前を右に左に通り過ぎる人の流れを眺めながら、俺はうーんと身体を伸ばす。ずっと立ちっぱなしだったので、足がもう棒になりそうだ。
「ラグビーのための留学なんだから当たり前だけど、去年はずっとラグビー一色だったね」
隣の南さんがくすっと微笑みかける。俺は頷いて「そうだね」と返した。
「割とラグビーできなければ、人生詰んでるような気がするからなぁ」
一度は不本意なままに終わってしまった人生だ。できるなら、ひとつでも何か大きなことをやり遂げるような人生を送りたいのが本音だ。
「そう自分を卑下しちゃだめだよ。スポーツマンにとって俺は負けないんだって自信は、相手にもプレッシャーになるんだから」
叱責する南さんに、俺は「ああ、そうだね」と苦笑いを浮かべた。
「ねえ太一はさ、将来どこでラグビープレーしたいとかあるの? 海外の強いプロリーグに行くのか、日本でRリーグに入るのか」
「うーん、正直なところオファー出してくれたところに行くしかないんじゃないかな。こっちには選ぶ権利って無いだろうし」
そもそもまだ1年生を終わったばかりだからな。プロになれるのは最短でも3年先だ。それにいくらラグビーの強豪校に入ったからといっても、そう順調にいくとは限らない。
学校代表チームキャプテンのローレンス・リドリーは卒業後、国内トップリーグであるMitre10のオークランド地区代表に入団したものの、競争の激しいニュージーランドではそこまで到達できる者も限られている。下部リーグのクラブに入団したり、ラグビーのできる大学に進学したり、先輩留学生の中には母国のチームから声がかかった人もいたりと卒業後の進路は様々だ。南島代表として全国大会決勝に進出した中尾仁も日本に帰国し、Rリーグの静岡マウンテンズに合流しているそうだ。
「でも目標はやっぱり日本代表だよ。で、ワールドカップに出場するってのが今のところの夢」
だがこれだけは絶対に譲れないと、俺は語気を強めた。やはり一番の憧れは桜のジャージを着ることだ。これは日本中のラグビー少年たちも同じだろう。
日本だろうが海外だろうがどこでプレーしようが、日本代表になりたいという想いは変わらない。そのためなら必死にラグビーに打ち込める覚悟くらい、とうの昔にできている。
「出場だけじゃダメ、優勝もしてね」
しかし南さんはこれだけでは不満のようだ。
「いや、それはさすがに……」
実情を知っているだけに首を縦に振りにくい。今の日本代表の実力から優勝を狙うとなると、果たして何十年かかることやら。
「ほらほら、気持ちで負けてどうすんの。こういう時こそ絶対勝つぞって強がりでもいいから言わなきゃ」
「う、うん」
そしてまたしてもお叱りを受けてしまう。やっぱり俺、南さんには敵わないなぁ。
その時ふと頭を上げると、人垣の向こうからアイリーンの金髪が見えた。気になったものの見物を済ませて帰ってきたようだ。
彼女の顔を見た瞬間、俺と南さんはぎょっととび上がった。泣き出しそうな顔、その手にはかじりかけのりんご飴が握られている。
「太一、何これ固ーい、いた-い」
屋台で買ってきたのだろう、彼女はでっかい歯型のついたりんご飴をすっと突き出す。
「アイリーン、口から血が出てる! ハンカチハンカチ!」
その際に飴の破片が歯茎にでも刺さってしまったか、アイリーンの口の端からは赤い血がつーっと垂れていた。
このように俺の2025年は流血から始まってしまったのだった。
第四部はこのエピソードで終了します。
ここまで続けてお読んでくださっている皆様、ありがとうございます。
次回からはふりかえり登場人物紹介を挟んで、第五部が始まります。
ちょっと時間が飛びまして、いよいよプロの世界に挑む太一の姿を描いていきたいと思います。
今後とも、よろしくお願いします。




