第三章その2 にわかファンの饗宴
「おい、この前のアイルランド戦見たか!?」
「ああ、あれはやばかった。本当に勝っちゃったんだからよ」
朝、登校すると教室はすでにラグビー熱で溢れていた。特に男子たちはどの選手が強い、だの優勝はあの国だ、といった話題に没頭している。
その様子を遠巻きに眺めていた男子のひとりが、読書に勤しむ秀才の『先生』に声をかける。
「ねえ、日本がアイルランドに勝つってどれくらい凄いの?」
「僕が今から野球を始めて、夕方には筒香から三振を取れるくらいにはすごい」
将来の東大生がすかさず答えると、訊いてきた男子は「すげえええええ!」と驚愕した。
ラグビーワールドカップ日本大会。文字通りラグビーの最強国を決める、全世界の楕円球を愛する人々の祭典だ。
そこで日本代表がグループリーグ最強と目されたアイルランド代表を19対12で破るという大金星を得た衝撃は、それは凄まじいものだった。
2大会続いての歴史的快挙、日本は本当に強かった!
テレビやネットのニュースはラグビー一色に染まり、芸能人もこぞってラグビーの知識を披露する。また日本ではない外国同士の試合についても事細かに報道し、列島はたちまちラグビーの熱気に包まれた。
そんなかつてない大熱狂に、周りに影響されやすい小学生が居ても立ってもいられるはずがなかった。
そして経験者である俺の姿を見るや否や、クラスメイトたちはどっと俺の元に押し寄せる。
「太一、日本はニュージーランドと対戦するのか?」
「ねえ、オフサイドって何?」
「ラグビーて何であんな変なボール使ってんの?」
ひとつずつ答えていると席に着くこともできない。とりあえずランドセルだけでも片付けたいので「うん、後で教えるから」と野郎どもを押しのけて進む。
そしてやっとのことでランドセルを机に下ろし、落ち着いて息を吐き出していた時のことだった。
「おはよう小森君。ねえ、お願いがあるんだけど」
前の席に座っていた南さんがくせ毛を揺らし、こちらを振り向いて話しかけてきたのだ。
「お願い?」
「うん。実は私、1年生の弟がいるんだけど、最近ラグビーに興味持ち始めたのね。でも家族は誰もルールが分からなくって」
ああなるほどね。俺が無言で頷くと、南さんはそっと目を逸らした。
「で、良かったら、その……弟にルールとか教えてほしいんだけど」
「分かった、今日の放課後どうかな?」
俺が答えると、南さんの顔にぱあっと笑顔が浮かんだ。
「うん、いいよ。弟連れて行くね」
じゃあ何時にしようか、と口を開きかけたところで、誰かが背後から俺の背中にぴょんと飛び乗った。
「おいおい、抜け駆けしてんじゃねえぞ。俺にも教えろよ」
ハルキだ。コアラみたいに背中にしがみつきながら、俺の肩の肉をぐいっとひねる。
「それなら俺も」
「当然俺も」
「じゃあ僕も」
そして便乗する他の男子たち。おいおい、どさくさに紛れて『先生』まで手を挙げてるぞ。
「俺はいいけどさ……南さんもそれでいい?」
「うん、いいよ」
そう返事する南さんの笑顔には、どこかわざとらしさが感じられた。
放課後、一旦家に帰った後に俺は再び外出する。そして約束の時刻に合わせて、近所の公園まで自転車を飛ばした。新しいのから古いのまで、家中のラグビーボールをカゴに入れて。
「よろしくお願いします!」
まだ1年生という南勇人君は、俺と比べればまるでジャックと雲の上の巨人だった。
「ありがとね、小森君」
弟の頭を撫でながら、姉の南さんがそっと頭を下げる。かなり可愛がっているようだ。
「気にしないでいいよ、勇人君がラグビー好きになってくれたら俺も嬉しいよ」
俺はそう爽やかに答える。
「太一、もちろん俺たちにも教えてくれるんだろな?」
だがハルキたち3年1組の男子どもが後ろから口をはさむので、俺は「はいはい」と彼らをあしらった。
ラグビーで遊ぼうと思っても、小学校では未経験の子の方が圧倒的に多い。まずルールを覚えてもらうためにも、俺をコーチにした即席ラグビー教室が公園で始まった。
「そうそう、その調子その調子」
俺は低学年用の小さなボールを勇人君と投げ合った。人生やり直した時に一番最初に買ってもらったあのボールは俺の手にはだいぶ小さくなってしまったものの、今でもこのように手元に残している。
「勇人、上手上手!」
南さんが離れたところから声援を贈る。こんな姉に可愛がられて、勇人君は幸せだなあ。
他の男子たちも互いにボールをパスし合い、独特なラグビーボールの質感に慣れ親しんでいた。
「うわ、変な方向に転がってくなぁ」
だがやはりこの形は初心者には扱いにくいようだ。キャッチミスしてボールをこぼした『先生』が、明後日の方向に跳ね返る楕円球に翻弄される。
「それもラグビーの醍醐味だよ」
俺はそう言って笑い飛ばす。だがトップクラスの選手になると、この跳ねる方向さえも計算に入れてプレーするというから恐ろしい。
そんな時、遠くまで転がったラグビーボールを拾いに行った『先生』が、ふと声を上げたのだった。
「あれ、西川君じゃない?」
全員が「え?」と同じ方向に顔を向ける。たしかに、公園の入り口で西川君がじっと立って、こっちを見つめていたのだ。
何でここに? 学年イチのスポーツ少年の登場に、俺たちの時間が停止する。
「おーい、西川!」
だがハルキはそんな一同のことなど気にせず、クラスメイトに向かって元気に手を振った。そして手にしたボールを「ほいよ!」と放り投げ、大きく弧を描いたパスを飛ばしたのだった。
突如跳んできたボールにもかかわらず、西川君は難なくキャッチする。
「西川、お前も加われよ!」
ハルキが大声で誘う。俺も多少複雑ではあるが、ハルキと同じように西川君に手を振った。
だが西川君は今受け取ったボールをじっと見つめるばかりだった。そして少しの間を置いた後、彼はなんと両手に持ったボールから手を離し、そのまままっすぐ自分の足元に落としたのだ。
そして一度地面に弾ませると、右脚で鋭い蹴りを入れた。
「ええ!?」
俺は声に出して驚いた。あれはドロップキックだ!
西川君の蹴ったボールは回転しながら大きく宙を舞い、そして俺の胸元にストンと落ちる。
「西川君!?」
慌ててボールを受け止めたものの、俺は慌てふためいて目を丸めた。
ただでさえ蹴りにくい楕円形のボール、それを一度バウンドさせてから狙った位置に蹴り込むドロップキックはかなり高度なテクニックだ。狙った通りに落とすのはかなり難しいので、俺もここ一番という時にしか使わない。
それをラグビー未経験の小学生が一発で成功させるなんて、常識をはるかに上回っている。俺は彼の持つポテンシャルに改めて驚かされた。
「ああ俺もやるよ、ラグビー」
そう言って西川君はにやっと不敵な笑みを浮かべながら、俺たちの方へと歩いてきたのだった。




