第二十三章その5 最強のスクラムハーフ
「お前らー、いよいよフランス戦だー」
スタジアムの静まり返ったロッカールームで、クリストファー・モリスが相も変わらぬ間延びした声で俺たちに話しかける。着替えを済ませた後、各々ストレッチしたり物思いに耽っていたメンバーは、全員が目をキャプテンに向けた。
「2週間あったワールドツアーもこれで最後の試合だー。この試合も勝ってー、有終の美を飾ろうー」
ベンチに座っていた俺は気合いを入れ直しながら、スパイクの靴紐をもう一度結んだ。そして数日前に新聞記者から聞いた話を思い出す。
トゥールーズ選抜で最も注意すべきはスクラムハーフ。その名もティエリー・ダマルタン。
記者によると15歳にしてU-20選抜に入ってもおかしくないと言われるレベルの逸材とのこと。いったいどれほどのプレーを見せつけてくるのだろう。
円陣を組んで気を引き締めたオークランド一行は、試合会場のスタッド・アーネスト・ワロンの芝の上に立つ。地元新聞社イチオシの注目の一戦とあって、2万近い観客席には大勢が押し掛けていた。
そしてとうとう対戦相手と向かい合う。さすがはヨーロッパの強豪、まるで聳える壁のように、がっしりと体格の良い選手がずらりと並ぶ。
さあ、要注意スクラムハーフはどの選手だ……俺はこみ上げる緊張を抑えながらメンバーの顔をざっと眺めていた。しかしその途中、不意にずっこけてしまいそうなほど拍子抜けさせられてしまう。
背番号9のジャージを着たスクラムハーフ。色白な肌にくせ毛の茶髪という人目をひく外見だが、その身長はわずか160cmちょっとしかなかった。これは15歳日本人男子の平均身長さえも7cmばかり下回っており、体型もラグビー選手としてはかなり細い。体重なんて俺の半分も無いんじゃないか?
申し訳ないが、見た目に関してはとても強そうには見えない。俺たち大柄なフォワード連中とは、大人と子供以上の体格差があった。
だが俺は頭を振って湧き出でる邪念を振り払う。こういった油断こそ一番の大敵であることは、これまでの試合経験から嫌と言うほど実感している。そもそもフランスきってのラグビー王国であるトゥールーズで、年代別代表のスタメンを任されているのだ。甘く見てよいはずがない。
いよいよキックオフだ。両軍互いにポジションに就き、試合開始の合図を待つ。
ホイッスルの音が鳴る。同時にジェイソン・リーがボールを大きく蹴り上げ、オークランドの選手たちは一斉に走り出した。
22メートルラインを越えた落下点で待ち構えているのは、185cmはあろう相手ロック。彼は危なげなくボールをキャッチすると、すぐ後ろにプロップを引き連れて真正面からオークランド陣めがけて駆け込んできたのだった。
早速オークランドの切り込み隊長であるキムが飛び出し、ボールを持つ相手ロックに身体をぶつける。鋭いタックルを受けた選手は背中から倒されながらも背後のプロップに楕円球を投げ渡すと、今度はそのプロップがボールを小脇に抱え、その巨体を揺らしながら間髪入れずに走り出した。
「通さん!」
遅れて駆けつけた俺はすぐさま相手プロップに突っ込んでいった。相手は俺よりもやや小さい、うまくいけばひとりででも動きを封じ込められる自信があった。
そんなプロップの後方には、仲間のセンターが追走してきているのが見えた。きっとこちらがタックルを入れる直前、あの選手にパスを回すはずだ。俺は見かけではプロップにタックルを仕掛けているものの、実際は後方のセンターをロックオンしていた。
だがその予想は裏切られる。相手プロップは俺と身体が触れる直前、後ろのセンターとは全く別の方向めがけてぽいっとボールを放り投げたのだ。
咄嗟の出来事に俺は「え!?」と声をあげるが、目でボールを追うことしかできない。力なく放り出されたボールをキャッチしたのは、後方から凄まじい勢いで駆け上がってきたスクラムハーフのティエリー・ダマルタンだった。
急いで足を緩めて方向転換する俺の傍らを、ティエリーは小動物のごとく身を屈めながら全速力で抜き去っていった。
そこに追いついたのはロックのサイモン・ローゼンベルトだった。187cmのサイモンは腰を低く落とし、猫のように走るティエリーに腕を伸ばしてとびかかった。
だが彼の長い腕の間を、小さなスクラムハーフはするりとくぐり抜けてしまう。
「ダメだ、小さすぎてタックルが入らねえ!」
ティエリーの細かいステップは、動き自体は小さくとも効果は確実だ。彼はハンデである小柄な身体を強みに変えて、自分よりはるかに大きな選手たちを翻弄していた。
「通さねえぞ!」
コートを駆け抜けるティエリーの前に、ついにゴールの番人ことフルバックのジェイソン・リーが立ちはだかる。ジェイソンもゴール前から走り出し、真っ向から相手にぶつかりに行った。
お互いがぶつかる直前、ティエリーの足がすっと右にステップを踏む動きを見せる。対峙していたジェイソンはすぐさまそれに気付き、ティエリーの動く方向にばっと身体を動かして道を塞いだ。
だが当のティエリーは横っ飛びの動きを見せただけで、なんとボールを反対方向斜め後ろに放り投げてしまったのだった。
ドリルが空間を掘り進むように、長径を軸に回転しながらまっすぐ飛ばされる楕円球。まさかのフェイントに踊らされ、ジェイソンはあっと口を開けたまま固まる。
その鋭いパスを受け止めたのは、さっき俺へのオトリに使われたセンターだった。オークランドの選手たちの注意がティエリーに逸らされた隙に、ラインの後ろまで全速力で回り込んでいたのだ。
スピードに乗ったセンターを止めることは誰もできなかった。彼は誰もいないゴールポストまで余裕でボールを持って走ると、いとも容易くトライを決める。
沸き立つ観客席に、レフェリーの「トライ!」の声が無情にも響く。まさかキックオフからボールに指一本触れることもできず、先制点を奪われてしまうなんて。
「何もかも速すぎる。ランにパスに、閃きに」
立ち尽くす俺の隣にそっと歩いてきた和久田君が、珍しくも舌打ち混じりに呟く。
「今のプレーだけでティエリーがどれほどの脅威かよくわかったよ。小柄なのに凄い、なんて言い方じゃ全然足りない。彼は最強のスクラムハーフだ」
ゴールポストの下で抱擁し合うトゥールーズの選手たちを、和久田君はキッと睨みつけた。彼がこれほどの敵対心を露わにするとは珍しい。
その後のコンバージョンキックでも点を入れられ、いきなり7点差。これをさっさと取り返したい俺たちは、すぐにキックで試合を再開させる。
それを相手はまたしてもキャッチし、俺たちは全員一丸となって守備ラインをだっと前に進めた。
だがそんな俺たちを嘲笑うかのように、相手チームはこちらがタックルを仕掛けた途端すっと仲間にパスを回してはつなぎ、またパスでつなぎと繰り返して俺たちを振り回す。
あっちかと思ったらこっちに、追いついたと思ったらもうさらに遠くに。パス回しが速過ぎて、俺たちはボールに触れることさえかなわなかった。
「しゃらくせえ!」
だがタイミングをつかんだのか、フランカーのキムがとうとう相手がボールを手放す前にタックルを入れるのに成功する。しかし相手選手は倒れ込む最中、器用にも身体を捻らせて近くの仲間にオフロードパスをつなげてしまったのだった。
そして相手にとってはこのタイミングこそチャンスだった。キムがタックルに回っているのでオークランドの守備ラインはわずかながら薄くなっている。その壁に生じた隙間をめがけ、ボールを受け取った選手は走り込んできたのだ。
「うらぁ!」
だがそこに素早く反応し、横から鋭いタックルを入れたのは我らが快足ウイングのエリオットだった。
ステップに優れた彼にとって敵のタックルを避けるのはお手の物。それは逆説的には敵の動きに合わせてタックルを決めるセンスがあることも意味している。
体重の軽いエリオットなのでひとりでは相手を押し倒すまではできないが、仲間がいれば心配は無い。彼が敵の突破を食い止めているところに、俺は全力で120キロ近い身体をぶち込みにいった。
2連続のタックルにはさすがの相手選手も対応できなかった。俺がぶつかった衝撃でボールが手から弾き出されて地面を転がり、すぐにレフェリーからノックオンの反則が宣言される。
「やったぞ太一!」
「ナイスタックル!」
ようやくボールを取り返せたことにメンバーは喜びを隠せず、まるでトライを決めた時のように俺をねぎらった。
しかしまだ得点を取るための最低限のステップをクリアしたまでに過ぎないのは誰もが承知していた。キャプテンのクリストファーは「みんなー」と声をあげ、俺たちを呼ぶ。
「エリオットと太一がせっかくマイボールにしてくれたんだー、この嫌な流れをスクラムで断ち切るぞー!」




