第二十三章その1 ボンジュール、そしてオゥ・ホゥヴァア
香港から飛び立った俺たちは、長時間のフライトを経てパリのシャルル・ド・ゴール空港へと降り立った。
朝8時過ぎに香港を発って13時間を機内で過ごしたにもかかわらず、到着したのは同じ日の午後2時過ぎ……なんと時計の上では6時間しか進んでいないぞ。これが時差というものか。
「俺、ヨーロッパ初上陸だよ」
ずっと椅子に座っていたせいでバッキバキになった身体をほぐしながら、俺は入国審査の列に並ぶ。
「僕もだよぉ。時間あるならTop14の試合も見たいねぇ」
前に並んでいたニカウがくるりと振り返った。
彼の言うTop14とは、フランスにおけるラグビーのプロリーグのことだ。元はフランス最強クラブを決定する創設1892年という歴史ある選手権大会であったのが1995年以降プロ化され、現在では世界のラグビープロリーグにおいて最も多くの観客動員数を誇るリーグとなっている。
またラグビー選手にとってもTop14は総じて最も多額のサラリーを受け取ることのできるリーグであるため、フランス国内やヨーロッパだけでなく、ニュージーランドや日本からも多くの選手が参加している。当然それぞれのチームの戦力は優れており、欧州最強クラブを決定するヨーロピアンラグビーチャンピオンズカップにおいてもTop14のクラブは優勝の常連だ。
「フランスにも美味しいものあるかなぁ?」
ニカウがぐうとお腹を鳴らしながら天井を見上げる。さっき機内食食べたばかりなのに、もう消化し終えたようだ。
「たくさんあると思うよ。フランス料理って具体的にどんなものかってのはわからないけど」
俺の後ろから和久田君がふふっと自嘲気味の笑い声をあげた。
たしかにイタリアならパスタにピザ、中華なら炒飯に餃子、みたいなぱっと直結するイメージが存在するが、フランス料理に関してはそういうのがあまりないんだよな。どうも高級な感じがして、庶民の俺には身近でないせいかな?
「まあせっかくのパリなんだし、早速凱旋門見てエッフェル塔の観光にでも……」
そう俺が口にする途中で、俺たちの前で審査の順番を待っていたジェイソン・リーが「あん、お前ら何言ってんだ?」と呆れたように振り返った。
「目的地はまだまだだぞ。これからもう一本、国内線に乗り継ぐんだよ」
「どっひええええ!」
まだフライトは終わらないという現実に、俺たちは嘆きの叫びをあげた。
そう、ここパリはフランスの北部。俺たちの目指すトゥールーズは地中海も近いフランス南部だ。
ボンジュール、パリ。そしてオゥ・ホゥヴァア(さようなら)。
「さささささささ」
「さっぶー!」
トゥールーズ・ブラニャック空港の建物を出た途端、オークランドのラガーマンたちは凍てつくような外気にガタガタと身体を震わせた。
南部とはいえ、フランスはニュージーランドや香港とは比べ物にならない寒さだった。しかも肌を突き刺すように寒く……いや、寒いを通り越してもう痛い。
ラグビーは激しいスポーツなのでプレーするにはこれくらいでも良いのだが、日常生活を送るなら暖かいくらいがいいわ。
「寒いか? むしろ冬にしてはまだ暖かいくらいだろ」
「うん、これくらいが一番身体動くね」
みんながガタガタと身を震わせてボキャブラリをも失う中、カナダ出身のジェイソンとジョージア出身のアレクサンドルのふたりは水を得た魚のようにピンピンしていた。彼らにとってみればこれくらいの寒さは寒いの内に入らないらしい。
俺たちは急いでバスに乗り込み、宿泊先のホテルに向かう。
さすがヨーロッパ、車窓から見える家々は石やレンガを組まれて建造されており、築ン百年という時の流れを感じさせながらも今なお当たり前のように利用されている。
そして俺たちを乗せたバスが風情ある住宅街を抜けている最中、広く芝の敷かれた運動場の脇を通り過ぎる。そこで走り回るのは楕円球を抱えては投げる同い年くらいの少年たち、どうやら実戦形式の練習のようだ。
「おい、こんな寒いのにラグビーしてるぜ」
「よくできるな、風邪ひくぞ」
「いや、俺たちもラグビーしに来たんだろーが!」
すかさずジェイソンが的確なツッコミを入れてくれる。
「ん、あれは?」
何かに気付いたのか、突如アレクサンドルが窓に顔をべったりと貼り付けた。
「どうした?」
「あのジャージ、トゥールーズ選抜って書いてある!」
「え、マジかよ!?」
俺たちは一斉に首を回し、彼と同じように窓の外を凝視した。反対側の座席に座っていたメンバーも立ち上がり、背伸びして窓の外を覗く。
トゥールーズ選抜は7日後に試合の予定が組まれている対戦相手だ。そしてあのオーストラリアの強豪、ニューサウスウェールズ州選抜をも破ったという強敵。
バスの窓から見えたチームは一見細身の選手が多く、見た目の威圧感という点では恐れることは無い。
だがボールを抱えて走る細身のバックスが大柄なフォワードのタックルを受けた直後のことだった。腕を回されたバックスは押し倒されながらも、不安定な体勢から後方へのパスで仲間にボールをつないでしまったのだ。
「おい、オフロードパスをあっさり決めてるぞ」
それだけではない。ボールを受け取った選手が逆サイドへと走る隣で、行く手を塞がんと敵チームの選手が並走する。ボールを持った選手はじっと相手に目を向けて突破口を探っているように見えるが、彼はなんと顔の向きはそのままに、なんとボールを斜め後ろに放り投げてしまったのだ。
そこに走り込んできた別の仲間がしっかりとキャッチし、大きく動かされた敵の守備をいとも簡単に突破する。
「ノールックパスが、あんなに易々と……」
ほんの短時間のプレーを目撃しただけにもかかわらず、バスの中はすっかり静まり返っていた。
どれだけ身体を張って守っても、素早くパスをつないで突破するトゥールーズ選抜。パス回しの技術に限れば、あのニューサウスウェールズを凌駕しているのは明らかだ。
「勝てるかなぁ」
ついぞニカウが不安げに呟く。
「フォワードなら負けねえぞ」
キムが太く逞しい手の指をぽきぽきと鳴らすが、その声はまるで虚勢を張っているように思えて仕方がなかった。
香港、韓国戦を通してフォワードの結束は確実に高まった。特に韓国戦ではスクラムもラインアウトも100点満点と評価してよいほどに決まっており、今回も力比べに持ち込めたならば圧倒できるという自信もあった。
だが相手の流れるようなパスを攻略しなくては、勝利は望めない。そのためにはフォワードだけでなく、バックス陣も含めてひとつのチームにならなくてはならなかった。




