第二十二章その1 美食の都
オークランドから飛び立った俺たちはシドニーで飛行機を乗り換え、ようやく香港に到着する。北半球は冬のはずなのに、亜熱帯の香港では一枚羽織るものがあればまるで問題ない程度の気温だった。
……え、それは俺がトドみたいに分厚い脂肪に守られてるから? それは言わないのがお約束だぞ。
そんな空の旅を終えて空港から出てきた俺たちは、全員がずるずると足を引きずってまるでゾンビになっていた。
「し、しんどかった……」
「俺、眠れなかったからずっとゲームしてたよ。もうブロック崩しは飽きた……」
これまでにない長距離の飛行。ウェリントンまでのバス旅行の方がまだマシと思える辛さだった。
現地時間で午後3時。だが今の俺たちは深夜2時まで夜更かししているような気分だ。フライトが長すぎて時間感覚が完全に狂ってしまったな。
「みんなー、練習は明日からだー。今日は疲れただろうから、もうホテルで休んでろー」
こんな長時間フライトを経ても仏頂面を崩さないクリストファー・モリスの声に、俺たちは「はーい」と力無い声を返す。
そもそもこんな眠さで外に出る元気ないよ。今すぐにでもふかふかの布団にくるまって、ゆっくり身体を伸ばしたい。
「それから夕食は中華料理だぞー。食べ放題って聞いてるから、楽しみにしとけー」
「食べ放題!?」
聞くなり部員一同がぎらりと目を光らせ、一斉に顔を上げた。ここにいる連中は眠気と食い気ならまず食い気を満たすタイプばっかりだな。
「うめえ!」
夕方、ホテル近くの中華料理店に連れていかれた俺たちは、フロアをひとつ貸し切って食い散らかしていた。
フロアには6人掛けの円卓がいくつか並んでおり、島ごとに分かれて好きな料理を注文する。いくら食べてもOKなんて太っ腹だなぁ。
机の上にはスープに小籠包にから揚げに、様々な料理がこれでもかと並ぶ。それを俺たちはむさぼるように食べまくっていた。
「この箸ってどうやって使うのぉ?」
「ほら、ここをこう持って……」
箸を使い慣れていないニカウらに、和久田君が使い方をレクチャーする。さすが中華料理の本場、日本よりも箸はだいぶ長く、まるで菜箸で食べている気分だ。
中国南東部に位置する香港は、中華料理でも広東料理が広く一般的に食されている。
温暖で降水も多いこの地域では肉、魚、野菜と様々な食材が手に入る。それでいて味付けは淡白であっさりしているので、素材そのものの味を堪能できるのが特徴だ。
「魚ってこんなに美味かったんだな!」
カナダ出身のジェイソン・リーもここの料理にはご満悦のようだ。何の種類かはよくわからないが、魚の蒸し焼きが気に入ったらしい。
「そうだ、アイリーンに写真送らないとな」
俺はみんなが料理を食べている様子をスマホで撮影すると、すぐにファイルを保存した。それから大皿を載せた回転テーブルを回し、お目当ての料理を目の前まで持ってくる。やっぱ中華と言えばこのスタイルだよな。そういやこの回転テーブル、日本で発明されたんだったっけ?
そして俺は取り皿によそった牛肉の炒め物を頬張る。うん、オイスターソースの味がよくしみ込んで、ほっぺがぼとりと落ちてしまいそうだ。
「味の宝石箱やー!」
久しぶりに味わう中華料理に、俺は懐かしささえ覚えていた。
横浜市民にとって中華料理はソウルフードみたいなもんだ。横浜には中華街でなくとも、そこら中に中華料理屋がある。サンマーメンも横浜周辺でしか食べられないし、ハルキの家だって中華料理屋だしな。
「はい、追加の焼売だよ」
俺がじーんと感慨にふける最中、店員のおばちゃんが湯気をもくもくと立てる竹製の蒸籠を持ってきてテーブルの上に置いた。そして蓋を外した途端、白い湯気がぶわっと立ち昇るとともに瑞々しい白皮に覆われた焼売が姿を現す。
「うわー美味しそう!」
すでに大皿を何枚も空っぽにしているのに、ラグビー部員たちが目を輝かせる。彼らの胃袋は底なしだ。
「みんなよく食べるねぇ、私らも作った甲斐があるよ。あんたたちみんなラグビーやってるんだって?」
食欲魔人のラグビー少年たちを見てか、おばちゃんは俺に話しかけてきた。
「はい、みんな大食いばっかりなんで、大変助かっています」
「遠慮せずじゃんじゃん食べなよ。うちの子もラグビーやってるから、まるで子供が増えたみたいだよ」
「香港でもラグビーは人気なんですか?」
「ああ、でもあんたたちのやってる15人制よりは7人制の方が人気じゃないかな。毎年香港セブンズじゃ国を挙げてのお祭り騒ぎだし、うちの子もどっちかっていうとメインは7人制だからねえ」
ラグビーの普及が今ひとつなアジア地域であるが、こと香港に関しては事情が異なる。
かつてイギリス統治下にあった香港にラグビーがもたらされたのは1870年代。日本で本格的に大学でプレーされるようになったのが1899年なので、アジアでは最も早くからプレーされていたと推察できる。
香港では特に7人制ラグビーが盛んで、毎年春には香港セブンズという国際大会も開かれている。これは12月から翌年6月まで世界各地を転戦して総合ポイントを競うワールドラグビーセブンズシリーズを構成する大会のひとつとなっており、この時は世界各地から選手や観客が集って香港スタジアム4万の観客席を埋め尽くすのだ。
そんな香港最大のライバルは韓国だ。両国は日本に次ぐアジア2番手の位置を常に争っており、毎年開催されるアジアラグビーチャンピオンシップではいつも激闘を繰り広げている。
そして2027年のワールドカップアルゼンチン大会からは出場国が24に増やされるのにともなって、前回大会ベスト8で既に出場を決めている日本を除き、アジアからの出場国1枠が確保されている。これはワールドカップ出場の遠かった国々にとっては待ちに待った朗報だった。
俺の記憶通りなら2027年大会には韓国が、2031年大会には香港がそれぞれアジア枠から出場したはずだ。どちらもワールドカップ初出場とあって日本でも大きく報道されていたのを覚えている。
「あんたたちも頑張りなよ、おばちゃんも応援してるからさ!」
「ありがとうございます……あれ、ここにあった焼売は?」
ふとテーブルに目を戻すと、運ばれてきたばかりの蒸籠はすでに空っぽになっていた。
「あぁ、太一が話してる間に食べちゃったよぉ」
お行儀悪くもむしゃむしゃと何かを噛みながらニカウが答えた。手つきがぎこちなくはあるが、もう箸を使いこなしているようだ。
「くそ、狙ってたのに……」
油断した、こいつらと食事する時はスピードが命だった。異様な敗北感に襲われた俺は、ぐっと拳を握りしめて気持ちを抑え込んだ。
「じゃあすぐに作って持ってくるよ。ちょっと待ってな」
俺がすごく残念そうにしているのを見るなり店員のおばちゃんが急ぎ足で厨房に向かう。そして数分の後、おばちゃんはアツアツの蒸籠を持ってテーブルに戻ってきたのだった。
食後、ホテルで和久田君と同室になった俺は、部屋に戻るなりベッドに腰を下ろした。
「ふう、食った食った」
そしてポッコリと膨らんだ腹をすりすりとさする。これだけ食べても翌朝には腹の虫とともに目を覚ますのだから、つくづく自分の身体が恐ろしい。
和久田君も隣のベッドに腰かける。そしてシングルベッドふたつのツインルームをぐるりと見回すと、ぼそっと呟いたのだった。
「ホント、ツインで良かったよ」
「何で?」
「僕の従兄が大学の卒業旅行に男2人でイタリアに行ったんだけど、ホテルがダブルベッドだったんだって。で、ベッドの真ん中に荷物置いて、ここから先には互いに入らないようにって境界線引いて寝たらしい」
「う、たしかにそれはイヤすぎる」
特にうちのチームにはデブかマッチョしかいないからな。もしそんな事故が起こったらビジュアルが危なすぎるわ。
その後俺たちは交替でシャワーを浴び、さっさとそれぞれのベッドに横になる。
2日後の試合に備えて、明日は朝から近くのコートを借りて練習だ。フライトで疲れた体をしっかり休めないと。
照明を落とし、フットランプだけが灯った部屋は少々不気味だった。窓の外から入り込む高層ビルの明かりが、ここが日本でもニュージーランドでもないことを如実に告げる。
そして天井をぼうっと見上げていた時のこと。
「それにしても不思議なもんだね」
暗がりから和久田君が話しかけてきたので、俺は「どうしたの?」と尋ね返した。
「まさか小森君とこうやってワールドツアーに来るなんて。ニュージーランドに留学しないと、こんなことは無かっただろうし」
「俺もだよ。最初はこのデブな身体をどうにかしないとって思って始めたラグビーなのに、気が付いたら世界を見据えて戦っているんだもんな」
「だよね。僕もこの歳でオーストラリアやフランスのチームと戦うなんて、想像したことも無かったよ。そういうのって日本代表にでも選ばれないと、無理だって思ってたから」
「和久田君はやっぱり日本代表になりたいの?」
「そりゃ当然だよ。3歳からラグビーやってきた僕は、日本代表になるのはずっと目標だった。それが小6の全国大会で目標を見失って、どうでもよくなってさ」
ふうと息を吐く音が聞こえる。
「でもそんな僕にラグビーの楽しさを思い出させてくれたのは小森君だった。あの時から僕は他人に言われたからじゃなくて、本心から日本代表になりたいって思えるようになったんだ」
彼の話す声からは、嬉しさが感じられた。
「日本代表になってもっと日本を強くするためには、このワールドツアーは絶対に全勝しないとね!」
そう決意を新たにする和久田君の声を聴いて、俺も「ああ、必ずな」とベッドの上で頷いた。




